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クリエイター名 |
エターニア |
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『夏を向かえる』番外編
また夏が来た。 今年は高校生活を向かえて、初めての夏。 何かあるんじゃないかと期待しているんだが、今年もいつもと変わらない夏になるだろうと思っていたりする。 俺の名前は、綾野和人。普通のどこにでもいる高校生だ、と自分では思っているが、みんなはそう思っていないらしい。 「和人〜」 誰かが俺のことを呼んでいるが、今は無視しておこう。 「おい。明日香さんが呼んでるぞ」 「そんなこと、知っている」 古くからの友人といえば、聞こえは良いが、結局のところ、腐れ縁に近い。 「晴彦。何があっても、無視しろ」 「知らないぞ」 隣の席に座っているのは、晴彦。 苗字の方はというと、あんまり呼ばないからたまに忘れそうにもなるが、しっかりと覚えている。 早瀬晴彦。俺と同じクラスのように見えるが、実は隣のクラスの1年2組。ちなみに俺は1年3組。なんで隣の席に座っているのかと言うと、俺もよく分からない。まあ、放課後っていうのが最大の理由である。 クラスメートも大半、部活なり、家に帰ってしまった。それでもまだ10人ぐらい残っているけど。 晴彦ははっきり言えば格好いい。言っておくが俺が言っている訳じゃない。なぜか知らないが、晴彦はもてる。今までに告白した人は数知れず。しかし、今まで全員玉砕しているが。 どこがいいのだろうか? 俺はまじまじと見つめた。 「やめろ。気持ち悪い」 が〜ん。 ショック。 「なんだよ。折角、見つめてやったのに」 「それをやめろよ。だから変な噂がたつんだ」 ? 「あれ? 知らないのか。って知っていたら、暴れそうだな」 晴彦は苦笑した。 「まあ、俺は気にしてないからいいんだけどな」 「何が?」 何のことかやっぱりだ。 「和人〜」 べったりと背後から抱き締められるが、無視した。 胸の感触が背中から伝わるが、そんなんで俺が感じる訳がない。 「だから、何のことだ」 「……本気か?」 「ああ」 晴彦に一瞬、間があったのは、多分、答えることに対してじゃなくて、俺にへばりついている人を無視することに対して、だと思われる。 結局、俺の言うことを聞いてくれたというわけだ。 「だからな。俺と、お前ができてるんじゃないかって」 「はあ?」 「だから、噂だよ。そういうのが、ひっそりと流れているらしい」 「勘弁してくれよ」 「全くだ」 ははは、っとお互い笑った。 「早瀬君。あなたまでそんなことするなんて思わなかった」 「滅相もない」 ああ、無視してたのに、晴彦が答えちゃった。 「和人が無視しろ、って言うから」 「でも、早瀬君。無視した」 一瞬の沈黙。 「あのさ、姉さん」 「何?」 さっきからずっと後ろにへばりついている明日香は俺の姉さん。 3年生で、はっきり言って美女なのだろう。 紹介してくれ、と迫ってくる男子生徒は数知れず。男に迫られても、嬉しくもなかった、じゃなくて、鬱陶しかったりした。 明日香は、まず背が高い。俺も背が高い方だが、明日香の方が、数センチ高い。まあ、俺のまだ背が伸びるらしいから、3年生になれば追い越すかもしれない。そして、長い髪。みんな、それがいいらしい。まあ、分からないでもないけどな。俺なんて見慣れているから、そう思うんだろうか? たまに言われる。自分の姉さんを基準にしていたら、みんな釣り合わないって。 そうだろうなとは思う。けど、そんな理由で俺に彼女がいない訳じゃないんだけどな。 俺は独り身が好きだから。なんてな。 明日香は俺が入学した当時から、しょっちゅうこの教室に来るので、クラスメートも日常のことのように、今では何も言ってこない。 たまにからかわれたりもするけど。 「そろそろどいてくれないか?」 「ひどい〜」 酷くはないだろ。 明日香は今まで以上に強く抱き締めてきた。 ああ、暑苦しい。 夏なんだよ。 そんなにべたべたとくっ付くなよ。 声に出せたら、どんなにすっきりするだろうか。 「和人」 明日香は俺の耳元で囁く。 「こっち向いて」 振り向いた途端、俺の唇が塞がれた。 ! それは一瞬だった。 「姉さん!!」 「それじゃあね」 はやっ。 もう教室を出て行ってしまった。 「誰も見てなくてよかったな」 晴彦は複雑そうな顔で、俺に言う。 そう言われても心配だった。きょろきょろとあたりを見渡す。 ふと、一人の女子生徒と目が合った。眼鏡をかけた女子生徒。大人しそうな雰囲気を持っている。その女子生徒がクラスメートということは分かるんだが、名前も何も知らない。 その女子生徒はいけないものを見てしまった、というかのように、俺からすぐに目線を外した。 見られたな。 「…どうした?」 「いや。なんでもない」 晴彦は俺の目線を辿るように後ろを見た。 「和人。ああいうのが趣味なのか?」 「何が?」 「だから、眼鏡っ子がいいのかなって」 「さあな」 俺にもよく分からない。 ところで眼鏡っ子ってなんだ。 最大の疑問だった。眼鏡をかけている子、って意味なのだろうか。多分、そうなのだろうと、自分の中で結論を出した。 「どうせ、名前も何も知らないだろうから、教えてやるよ。名前は………」 「名前くらい覚えておけよ」 「あのな。クラスメートでもないんだから、名前なんて覚えている方が珍しいだろ」 晴彦にしては珍しいことを言った。 「だったら何で知っているんだ?」 晴彦は呆れて物も言えないみたいだ。 「……有名なんだが、な。和人にそれを求めちゃいけないか」 酷い言われようだな。 「名前は確か、そうそう。思い出した。吉川智子。一部にはとっても人気があるんだ。特に、胸。胸がある」 そんなに胸、胸、言うなよ。 「和人はどうせ、明日香さんに見せてもらっているんだろ。もしかして触らせて貰っているのか?」 「そんな訳ないだろ!」 「明日香さんも胸、大きいよな」 全くだ。 そういう話をする割には、全然、女と付き合う気はないんだから。 しかし2年生なってから、晴彦に彼女ができることになる。今では考えられないことだ。 「あと、眼鏡をかけているっていうのもポイントだ」 そういうものですか。 俺にはよく分からない。 「萌えって分からないか」 「燃え?」 「萌えだ」 そんなこと力強く言われても。 「……まだ、早いか」 さいですか。 「ところで、いつまでここにいるつもりだ」 「俺に聞くなよ」 俺自身、放課後だと言うのに、教室に残っている理由なんてない。さっさと帰りたかった。 俺と晴彦は部活に入ってないからな。 「帰るか」 晴彦は立ち上がる。 そして、俺も立ち上がった。
「遅い」 明日香は校門の前で仁王立ちしていた。 「あのな。姉さんが飛び出すかのように、教室を出て行ったじゃないか」 「早瀬君。和人がいじめるよ〜」 すがるような目で、晴彦を見つめる。 「え、あ、その」 晴彦は、珍しく慌てている。 晴彦が女相手にこんなに取り乱すのは、俺の知る限り明日香だけだ。 「和人」 晴彦は俺の名を呼び、何か言おうとする。 「ああ、分かった。何も言うな」 「だ、そうです」 「和人〜」 最高コンビだと思うぞ。 「暑苦しいから、離れろ」 「大丈夫」 そう言って、明日香は俺を抱き締める。 校門の前だから他の生徒も通る訳で、じろじろ俺たちのことを見ながら、見ず知らずの生徒が通り過ぎる。 「離れろよ!」 「ごめん」 明日香はすっと俺から離れた。 全く。 いつもはもっとしつこいくせに、なぜか今日に限ってさっと身を引いた。 明日香は意気消沈したのか、俯いていた。 俺が悪者みたいじゃないか。 「姉さん」 「…ごめん」 晴彦は何も言わない。ただ今の状況を黙って見ている。 「…………好きにしろ」 「和人〜」 明日香はべたべたと俺にくっつく。 もう何も言わない。言ったところで、何にもならないから。 その時、眼鏡をかけた女子生徒と目が合った。クラスメートの吉川智子という子だった。 家に帰るところらしい。 俺と目が合うとさっと目線を外し、そそくさと俺たちの側を通っていった。 「和人?」 「…なんでもない」 「そう。帰りましょう」 「だったら、離れてくれ」 「手、繋ごう」 「ば、何言って」 「冗談」 明日香はそういいつつ、俺の手を握っていた。 普段からそうなので、俺は何も言わなかった。
家に着いた俺と明日香はソファでくつろいでいた。 見たい番組があるわけじゃないのに、テレビをつけてそれを見ていた。 「和人」 「何?」 「暇だね」 「そうだな。ところで、夕食は?」 夕食を作っているのは、姉の明日香だ。 家族構成は父と姉と俺の3人家族。母は小さい頃に亡くなった。本当に小さい頃だったので、記憶にもない。 それ以来なのかどうか知らないけど、家の家事はすべて明日香がやっている。 「まだいいでしょう」 時刻は5時を少し回ったぐらいだ。 「そうだな」 さして腹は減っている訳じゃないので、気にしなかった。 「それとも私を食べる?」 ?? 「意味、分かってないの?」 明日香は食べれないでしょう。 只今、思考中。 食べる? 何を。明日香をだな。 げっ。 「食べません!」 意味を理解するのに時間がかかった。 「私はいつだって構わないのに」 「結構です」 と、いきなり明日香は俺を押し倒した。 「ね、姉さん」 マウンドポジション。 いや、それより、いろんな意味でまずいって。 「姉の言うことは聞きなさい」 うっ。 「少しでも動いたら……」 「分かったから」 「じゃあ、動かないで」 明日香の顔がゆっくりと近づいてくる。 そしてキスした。 一瞬だった。 「私、姉なんだよね」 俺が何かを言う前に、 「ううん。なんでもない。夕食、作るね」 と、キッチンの方に行ってしまった。
次の日の放課後。 「よっ」 晴彦はずかずかと教室に入ってくる。 「おいおい、そんな言い方ないだろ」 エスパーですか。 「せめて、愛しの晴彦君がやってきた、ぐらいにしてくれ」 「やめろ。気持ち悪いな」 「全くだ」 晴彦はぐるっと周りを見渡して、 「ところで、明日香さんは?」 「用があるから、先に帰ってだってさ」 「そっか。でも珍しいな。いつでも、どこでも一緒にいるのに」 「ずっと側にいる訳じゃない」 「そうだけどな」 「あのぉ」 ん? 明日香、帰ったんじゃないのか。 それにしても明日香にしては珍しく謙虚(?)だな。 「何かあったのか?」 振り向いたら、明日香はいなく、眼鏡をかけた……。名前が、出てこない。 えーと、確か……そうそう、吉川智子、だ。 「いや、ごめん。間違えた」 「いえ」 少しの沈黙。 「何か用かな?」 「……教室に忘れ物したから、取りに行くな」 晴彦はそれだけを言うと、さっさと教室を出て行った。 「すみません」 「いいよ」 「……………あのっ」 「…なに?」 「……………好きですっ。付き合ってください」 ! 心の中で、もしかしたらって思っていたけど、実際に言われると俺としてもなんと答えていいか困る。 答えは決まっている。 だが。 「いえ。返事はいいですから」 「吉川さん」 「…名前、知っていたんですね」 「……クラスメートだからな」 「本当ですか?」 智子は微笑む。 「意地悪ですよね」 「いや、つい最近、知ったばかりだからな」 「そうですか」 「ああ」 暫くの間、お互い何も言わなかった。 「それじゃあ、帰りますね。返事はいいですから」 「…待てよ」 「…………聞きたくないです」 返事の答えは分かっているんだろう。 「こっちの話も聞いてくれよ」 「…はい」 「吉川さんが…」 「その吉川さんていうの、止めて貰えます」 「じゃあ」 「さん付けはやめて下さい」 俺の思考って分かりやすいのかな、なんて思った。 「吉川」 「それでいいです」 「吉川がどう思っているのか知らないけど、姉さんのことで聞きたくないって言うのなら、それは違うぞ」 「分かってます。でも、答えは変わらないんでしょう。それなら同じです」 俺は何も言えなかった。 「ちょっと待て。だったらなんで?」 「これは私のわがまま。このことは忘れてください」 「ちょっ」 俺は止めることができなかった。
晴彦のクラスに行ったが誰もいない。先に帰ったらしく、俺は一人で帰ることになった。 夏。 期末テストも終わり、あとは夏休みを向かえるだけ。 通知表ってものがあるが、今は気にしてない。 成績なんて、よくないからな。悪くもないけど。 全く。これで何回目だ。 晴彦もさることながら、俺も晴彦より少ないとはいえ、よくこういうことがあったりする。 「もう終わったのか」 晴彦は後ろから何気なく声をかける。帰っていなかったみたいだ。 「ああ」 「そっか。で、どうしたんだ?」 「何が?」 「告白されたんだろ」 「知っていたのか?」 「まあな。あの雰囲気からして、そうじゃないかと」 「……どうしたらいいと思う」 「…断らなかったのか」 晴彦は意外そうに答えた。 「返事はいいって」 「それで答えなかったと」 「ああ」 「ばかか?」 「晴彦に言われたくないな」 「どうせ、『答えは分かっているから聞きたくない』と言われて、何も言わなかったんだろ」 「いや………確かにそうかもな」 引き止めて、答えることはできたはずだ。だけどそれをしなかった。 「和人。何言っても、答えは変わらないんだろ。だったら、それを突き通せばいいさ」 そう言われてもそれを実行するのって、大変なんだよ。 「だけど、珍しいな」 「何が?」 「いつもなら即行に『ごめんなさい』をして、終わらせるだろ」 「…そうだな」 そう言われればそうだ。 「今はまだ好きじゃなくても、気はあるんじゃないのか?」 俺は何も答えなかった。 「和人がどうして付き合うことを嫌うのか知らないけど、自分勝手で一方的なことだったら相手がかわいそうだし、和人こそ何にもならないぞ」 「そういう晴彦はどうなんだ? 今まで、告白されても全員振ってきただろ」 「俺か? 俺には好きな人がいるからな。だから、他の人とは付き合うことができない。俺がその人のことをあきらめない限り」 知らなかった。今まで告白されても、振ってきた理由はそれがあったからなのか。 俺はそれと言った理由はない。いや、あるって言えばある。他の人から見れば、ばからしいことなのかもしれないけど、俺にとってはとっても大切なことだから。 今更変えることなどできない。 「誰なんだ。その人は」 「秘密だ」 結局、晴彦から好きな人の名を聞きだすことはできなかった。
俺は自分の部屋でじっくりと考えていた。 答えの意味を。 じっくりと時間をかけて考えていた。 だけど、肝心なところで俺は何も考えられなかった。今の俺にはまだそれに立ち向かえるところまで達してない。 だから、今は逃げることを選んだ。
智子はクラスメートと話をしている。 俺は話が終えるまで、教室の自分の席で待っていた。 何をする訳でもなく、外を眺めていた。 蝉が鳴き、太陽が地に光を降り注ぐ。 ふと、視線を戻し、再び智子のところに向けたが、そこには誰もいなかった。 帰ったのか、と思ったけどすぐ隣に智子はいた。 「どうしたんですか?」 「相変わらず、暑いなって」 「そうですね。夏ですから」 「ああ、夏だからな」 外を眺めながら、言葉を交わす。 「あのさ。自分のことを好きと言われて嫌な訳じゃない。逆に嬉しいぐらいだ。だけど、ごめん」 「いえ、分かっていたことですから」 そう言っていても、哀しそうな顔をしていた。 「一つ、聞いてもいいかな」 「はい」 「分かっていたってどういうことかな、と思って」 「女の子と付き合うの嫌になったんでしょう」 ! 『知っているのか』 声にならない。 「辛そうです。ごめんなさい。余計なことを思い出させてしまって」 「いや、気にするな。謝らないといけないのは、俺のほうだからな。いつまでも引きずっている俺だから」 「あれは…」 「ううん。何も言わないで欲しい。今、何か言われたら」 「見ているだけでも罪、ですか」 「お願い、何も言わないで」 フラッシュバック。 あの時の、信じられない光景。 俺は何をしていたのか。 「ごめんなさい」 「……吉川」 怒りで、殴ろうと拳を作ったけど、それをもとに戻した。 「…………俺は間違っているのか」 「分かりません。これだけは言わせてください。私は、和人君のこと、好きですよ」 「……ごめん」 俺はそれしか言えない。 「じゃあ、さよなら、だね」 「ごめん」 智子は一回だけ振り返って、立ち去った。
真っ暗。 カーテンを締め切って、明かりもつけず、窓から差し込む僅かな光のみの世界。 何も考えたくない。 一人でこうやって、いた方が良い。 傷つくこともない。それが、楽だった。 「和人?」 真っ暗な部屋の中。 ドアが開き、明かりが目に差し込んだ。 俺はあまりの眩しさに、目を瞑った。 「どうしたの?」 俺は細めで明日香を確認する。 「眩しい」 明日香はドアを閉めた。 「和人」 「……一人にして」 「出来ない。一人になんて、出来ない」 明日香は、しゃがみこんでいる俺をそっと包み込むように抱き締めた。 「和人。私になら、いくらでも甘えていいから」 「…姉さん」 「だから、もうあの頃に戻らないで」 俺はただ明日香の温もりを感じていた。
次の日の放課後。 「元気そうでよかったです」 「吉川」 「ごめんなさい。私のせいでいろいろと迷惑をかけて」 「俺の方こそ、な」 「大丈夫ですよ。いつかきっと乗り越えられます。そう思いますよ。たくさんの哀しみは、それだけ優しさを生むと思います。だって優しすぎますよ。和人君」 俺のことを知っているからだろう。苗字ではなく、下の名で呼んだ。 「いや、俺の方こそ殆ど初対面で、名前で呼ぶなんてことをさせて」 俺は苗字で呼ばれることを嫌っている。知り合いでも何でもない人たちから苗字で呼ばれただけで、印象が悪くなる。これは俺だけのせいであり、その人たちのせいではない。だが、俺はそれだけで相手を嫌いになってしまう。 「もう大丈夫そうですね。これで安心して行けます」 「……どこに行くんだ?」 「遠くへ、ですよ。引越しなんです」 智子はあえて場所は言わなかった。俺も具体的な場所までは聞かなかった。 「…そうなのか」 「はい。こうやって、和人君と話が出来るだけで私は嬉しいですから」 「そんな、俺なんて」 「優しいですよ。それだけで女の子は相手のこと好きになっちゃうものですよ。……でも、あまり優しすぎるのも問題ですよ。忠告です」 「ありがたく、受け取っておくよ」 「はい」 「で、いつ、行くんだ?」 「…明日、です」 智子の表情が一瞬だけ曇った。 「急だな」 「……はい。ごめんなさい」 「いや、謝ることはないよ。それより、今から暇?」 「暇じゃないですけど、いいですよ」 「そっか」 引越し一日前だから暇なんてないのだろう。 「もう荷物は昨日の内に出しましたから、今日は何にもないんです」 俺に気を使ったのか、そう付け加えた。 「それじゃあ、気兼ねなく遊べるな。行こうか」 俺は智子の手を取り、駆け出した。
本当によかった。今日に限って、手持ちのお金がたくさんある。 お手ごろなところでまずはゲーセンに行った。 UFOキャッチャーをやったけど、なかなか人形を取ることが出来なくて、2000円も使ってしまった。 「かえる」 取れた人形は、かえるをキャラクターにした代物だった。 「かわいい」 智子はそう言って、人形を大事そうに持った。 俺は隣でそれを見ていた。 それだけで2000円もかかったなんて、どうだってよくなる。ただ、今は嬉しそうな顔をさせたかった。 「ねえ。あれやらない」 智子の指さす先には、プリント倶楽部。 「…あれか?」 「だめなの」 上目遣いで俺を見る。 「分かった。何枚でも撮ってやる」 そして三回もやってしまった。 その後はファミリーレストランで食事をした。 そして…。 夜の公園。 隣に並びながら、夜の道を歩く。 街灯で照らされる公園。 この辺は明るいから、向こうまでよく見えた。 今は智子の家に送っていく途中だった。 「ありがとう。楽しかった」 「俺も楽しかった」 「たくさん奢ってもらって、ありがとう」 「どういたしまして」 会話がぶつ切れだ。 俺はさっきから何か言いたそうにしている智子が気になった。 「言いたいこと、あるんだろ」 「………もしもの話だから、これは聞かなかったことにしてくれる。これは私の独り言だと思って」 「ああ」 「もし、和人君が、『付き合ってもいい』なんて言ったら、私はここに残ったんだよ。アパート一部屋、借りてね。一人暮らしになるけど、それでもここに残ったんだよ。親の反対を振り切ってでも。ただそれだけが言いたかったから」 智子は泣いていた。 「ごめん」 慌てて手で拭う。 「今日は楽しかった。そしてたくさんの思い出、ありがとう」 今、公園を抜けた。 「ここが家だから」 普通の二階建ての家。 「ありがとう」 「俺もいろいろ連れまわして、悪かったな」 「そんなことないから」 「うん」 「…和人君。最後にお願いがあるの」 「何だ?」 「私のこと、名前で呼んで欲しい」 「分かった」 俺は一つ間を置いた。 「智子」 「はい。……ありがとう。それじゃあ、和人君。本当に、『さよなら』」 「ああ。さよなら」 そして、俺は踵を返した。 後ろを振り向くこともなく、俺は歩いた。
次の日のHRの時間に、担任から、智子の引越しを告げられた。 親しかった人やら、一部の男子は悲しがっていた。 「よっ」 放課後。 晴彦は何も言わず、いつも通り話し掛けた。 「暑いな」 「夏だからな」 「そりゃそうだ」 どこか違和感があるのはなぜだろう。気にしないでおくか。 「和人〜」 無視したいところだか、今日の俺はちょっと違う。 「姉さん」 俺は立ち上がり、飛びついてきた明日香を抱きとめた。 「和人ぉ」 まじで抱き締める明日香に俺は狼狽する。クラスメートの視線が痛い。 「……姉さん。やっぱり離れてくれ。恥ずかしい」 「気にしない。気にしない」 「俺は気にする」 「大丈夫。私は気にしないから」 俺の意思は尊重されないんですか。 ま、明日香らしいけど。 「和人、明日香さん。帰るか」 「そうだね」 明日香はすっと離れた。 少しだけ寂しかった。 「家に帰れば、いくらでも抱き締めてあげるから」 「結構です!」 俺は即答した。 俺はまた一歩前に進んだ。 いつの日か、智子が言ったとおり、あのことと向かい合うことができる日が来ると思う。 その日まで、俺は今を大切にしたい。
完
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