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クリエイター名  神楽坂司
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 廃墟の中は、遠くから眺める情景に常々感じるもの以上の恐ろしさが充満していた。雷鳴が鳴り響き、稲光が割れた硝子の欠片を叩く瞬間ですら、そこを見やる者にとっては幸いだったろう。夜の腕に抱かれたその建物の外観は、とても常人の精神力では視覚に捉えることすら厭わしいようなものだった。辺りに漂う気配はもはや病的と言っても過言ではない代物で、ねじれて突き立てられた鉄骨は、さながらその建物自身が傷つけられた証であるかのようにも見えた。
 内部に目を向けると、そこはさらに酷かった。まず、入り口付近に転がるきわめて奇妙なものに視線を奪われる。溶かされ、押し潰されてはいたものの、それは角灯に違いなかった。外壁に目をやれば、そこに一つたりとも原形を留める硝子はなく、ことごとくが偏執狂的なしつこさで割り砕かれている。覗き見える闇の中に転がる死体の群れは、耐え難い悪臭の発生源と成り果てていた。
「……愛すべきマイ・ホーム──ってか?」
 累々と横たわる屍の群れを踏み越えて、神崎弘文は放心したような表情で歩みを進めた。彼の住居であるはずのこの建物──学習院大学跡地からは、故郷という言葉で誰もが想像するような優しさが感じられた試しがない。いつ訪れても、この空間には『死』が充満していた。
 ふと──自分の姿を見下ろし、どうしようもない間抜けさに笑い出したくなる。体を覆うのは、古びた濃紺の鉄道員服だ。すり切れ、ほつれは数え切れない。ほとんど老齢と言ってもいい年代にさしかかった弘文には、しかしその服装が奇妙に似合っていた。顔に刻まれた皺も、思い出したように軋む体の節々も、全てがその古臭さ、やりきれなさを迎え入れているようだった。
 踏み入る内部は暗く、時折静かな風が吹き抜けていく。その惨状は、幾つもの死に直面してきた弘文にすら最悪の事態を予想させるに十分なものだった。コンクリの床は灰色の埃に埋まり、古びた壁にはしおれた植物のツタが絡み、体を粉々に砕かれた人間の死体が無数に転がって腐敗している。とりわけ弘文の神経を激昂させたのは、その死体の山を作り出したのが自分であり──そして自分の仲間であるという、覆しようのない事実だった。
(理性もない《キャリー》を殺すため、か)
 仲間達は皆口を揃えて言う。それがまるで免罪符であるかの如く、自分たちのやってきたことを正当化しようとばかりしている。そうしなければ精神の安定が保てないというのは仕方がない。そんな弱さがあるのもまた人間だ。真実、理由がそれだけなのだとすれば、弘文はここまで嫌悪感を抱くようなこともなかった。
 しかし、実際はそうではない。彼らは──己のうちに芽生えつつある狂気から、目を逸らそうとしているのだ。自分達もまた《キャリー》と同じ、理性を持たない獣なのだと認めたがらない。
「難儀だね」
 誰にともなく吐き捨て、弘文は目的の場所へと向かう。そこは、まだ彼がかろうじて付き合うことのできる男の住処だった。狂気に侵されながら狂気を否定する仲間達の内で、その男だけは自分が狂っていることを認めているのだ。それが良いことか悪いことかはわからない。だが、その潔い態度は、潔癖症の気がある弘文には心地よかった。
 男は滅多に食事を採らない。痩せ細った長身の体は、弘文にはまるで先端の尖った弾丸のように見えた。弾丸──という言葉を思いついたとき、彼は思わず膝を打ちそうになったのを覚えている。あの男を形容するのに、これほど相応しい言葉はない。ただ一つの目的を果たすため、ただ真っ直ぐに飛んでいく弾丸。あの男はまさしくそんな性格の持ち主だった。
 寒気のする廊下を抜け、突き当たりの部屋の前まで歩く。まだ世界が滅びを迎えていなかった頃には、教員室として使われていた小さめの個室だ。扉の前に立つと、不可思議な冷気が中から漏れてくるように感じられた。それは間違いなく錯覚であったにせよ、弘文の背筋を震え上がらせるには十分な要素だった。
 ごくり、と我知らず生唾を飲み込んでいる。らしくもなく緊張している自分に気付き、弘文は苦笑いを零した。あの男と会うときはいつもこうだ。心が許せない相手ではない。このホームに住む人間の誰よりも、あの男は“良い奴だ”と思っている。
 だが──それらの全てを無視させる歪みもまた、あの男は内包しているのだ。
「……入るぜ」
 掠れた声で告げ、弘文はゆっくりと扉を押し開けた。
 中は真っ暗だった。窓が小さく、雑多な荷物で陽の光が遮られているためだ。僅かに覗く床の上には何も見あたらなかった。靴の裏に乾いた感触が張り付く。少しずつ爪先をずらし、自らの体を部屋の奥へと押し込んでいく。
 以前明るい時間にこの部屋を訪れたときは、壁という壁にどす黒い血痕がこびりついていたのを覚えている。住むための部屋なら他にも余っていた。そちらに移動したらどうだ──と勧めのだが、結局男はここから動こうとしない。別に何かの思い入れがあるとかいうわけではないらしい。ただ単に面倒なのだろう。
 闇の中に人の気配はない。どれほど目を凝らしても、男の痩躯を視界に捉えることができなかった。奇妙に膨らんでいく不安に襲われ、弘文は抑えても尚震える声を絞り出す。
「上條……いないのか? おい、上條──」

「──あんたの真後ろにいる」

 唐突に。
 何の前触れもなく、後頭部に突きつけられた冷たさに気付く。細く堅い、ただ人を殺すためだけの道具──拳銃が突きつけられた、その感触に。
(気が立ってるのか?)
 普段の男なら──上條彰なら、決してこんな真似はしない。こうまで殺意を露わにした男の姿は、弘文も初めて見るものだった。
「……どういうつもりだ、坊主」
「他意はない」
 あっさりと言い捨て、彰は拳銃を懐へと仕舞い込んだ。硬直していた筋肉が、一気に弛緩していくのがわかる。大げさに溜息をつき、弘文はいかにも大儀そうに振り返ってみせた。その先に、立ち尽くす彰の姿がある。
 整えられることのない黒髪。ほとんど斜視に近い、鋭く吊り上がった眼差し。痩せこけた体格の割に、筋肉は衰えていないようだった。もとは白だったらしいスーツも、今は埃にまみれ薄汚れている。どこに勤めているというわけでもないのに、何故かこの男はワイシャツにネクタイまで締めていた。年の頃はまだ三十を少し過ぎたばかりというところか。まだそれほど年経てはいない──が、当然若くもない。外見の印象としてもそんなところだった。
 世界がこうなってしまう以前は、有名な進学校で教鞭をとっていたと聞いている。その頃からおかしなところで神経質な性格だったのだろう。全体像としてはひどく大雑把で不真面目なくせに、ある一点だけは決して譲ろうとしない。弘文が知る限り、上條彰とはそんな人間だった。
 そして彼がそんな人間だったからこそ、弘文にとっては馴染みやすかったのだ。
「珍しいじゃねえか。おまえさんが殺気立つなんてな」
「私にも……そういう日があるさ」
 投げやりな口調で答え、暗い室内へと踏み入っていく。その背中を細めた視線で見やりながら、弘文は言葉を続けた。
「《WWW(ウィスパード・ワード・オブ・ウィズダム)》からの伝言だ。春川静奈、明石浩介の二人が死んだ──俺達が出張る番だとよ」
「……そうか」
 闇の中で気配が蠢く。彰が部屋の奥で何かを漁っているのがわかった。
「場所は三石デパートホーム、《天使》の奪取が最重要課題だそうだ。どうする、坊主? 出るか?」
「私に聞く必要もないだろう。上の言うことには逆らえん」
「……本当にそう思ってるのか?」
 投げかけられた言葉に、彰の体が震えるのがわかった。空気が僅かに流動し、漂う冷気が一層深くなるのがわかる。
「……どういう意味だ」
「どういうもこういうもねぇだろう。俺の目は節穴じゃねえんだ……おまえが、あの女を殺そうとしてるのはわかってる」
 がりっ、と硬い音が室内に響いた。部屋全体の輪郭がぼんやりとしたものに成り代わっていくような錯覚を覚える。弘文は、今なら彰が自分を殺そうとしても不思議ではない──とまるで他人事のように考えた。周囲の空間から、現実感というものが殆ど取り去られてしまったかのようだった。
「別にタレ込もうってわけじゃねえよ。わけじゃねえが──腹の底で何考えてるかわかんねえような奴と手を組むのは御免だ。俺の気持ち、わかるだろ?」
「……まあ、な」
「なら答えろ。おまえは《天使》奪取 にかこつけて、あの女を殺そうとしてる……違うか?」
「違わない」
「万が一、あの女を殺せたら……少なくとも、このホームには帰れねえ。なにせボスが入れ込んでるからな──まず間違いなく、俺達は殺される。それもわかってるか?」
「理解しているつもりだ」
「よし」
 両手の平をうち合わせ、弘文は喜色満面の笑みを作り上げる。
「それならいいさ。手伝ってやるよ……あの女のところまで、しっかりレールを敷いてやるぜ」
 弘文から向けられた言葉に、彰は静かに一礼を返した。暗闇を引き連れて部屋を出ると、矍鑠(かくしゃく)とした老人とともに歩みを始める。二人とも互いに紡ぐ言葉はない。やつれ果てた体を引きずるように歩く彰の後ろを、しっかりと押してやるような形で弘文がついていく。時折彰が何事かを呟き、軽く頭を振る以外、彼らがとった行動というのはただ両足を前方へと投げ出すことだけだった。
 ホームを出て、そして致命的な過ちに包まれ世界の空気を肺に満たす。鈍磨した嗅覚をかろうじて刺激するのは、どこか遠くから漂ってくる死臭だった。血と、汚らしい体液の混じり合った臭いが全身に染みこんでいく。それを厭う精神は既に捨て去っていた。多くの人間を殺し、そしてその糧を奪って生きてきたような者に、そんな道義を語る口はない。彼らはただ前へと進むだけだ。
 残された生命の、遙かその先へと歩いていく。
 何故なら、
「……そういや、聞いてなかったけどよ」
 彼らの心は曲がってしまっているから。
 曲がった心の持ち主は、前にしか進めない。
「おまえ、なんでそんなにあの女を恨んでるんだ?」
 何の気もない問いかけ。答えがあるという期待すらしていない。空虚な時間を埋めるだけの役割しか持たされていない、意味のない大気の鳴動。
 しかし弘文の予想を裏切って、確かな答えは返ってきた。
 深く。
 強く。
 それは何者にも揺らぐことのない殺意となって。

「あの女は──香椎由香は私の娘を殺した。それだけだ」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「……おまえらは、なんだってそう緊張感がないんだ?」
 苦虫を噛み潰したような表情の選手権などというものがあったとしたら、上位入賞は間違いないと断言できる表情で呟き、恵一は疲れきったふうに両肩を落とした。着込んだ濃緑のコートが隙間風に揺れ、自身の間抜けさを強めているような気すらしてくる。その場にいることへの違和感──とでも表現するべきなのだろうか? どうしようもなく自分が場違いな存在であるような、そんな感覚が恵一の体を包み込んでいた。
 都市の墓標にも見える外観を持つ、三石デパートホーム──その中で、恵一は呆然と自らの立場を再確認していた(さらに言うなら、再確認に失敗していた)。熱された空気が頬を撫で、こもった暑さが汗を引き出す。当たり前の話だが、コートを脱ぐだけで体感温度は大きく変わるのだろう。だが、恵一にはそれができなかった。そうし続けることに、何かの意味があるわけではない。ポリシーというわけですらなかった。ただ、恵一のコートには、いつも使っている金属製のバットが収められている。抜き身──と表現するのかどうかはわからないが──のままで持ち歩くのは、ホームに暮らす人間達を怯えさせるから止めるようにと注意され、仕方なく暑い最中にもコートを着込んでいるというわけだった。
(まさか、素手でいるわけにもいかないしな)
 恵一のような、いわゆる白兵戦向きの《覚醒者》は、そのほとんどが何らかの道具を媒介にして能力を発動させる。恵一自身ならば金属バットが、そして同じホームの芹沢亜希子なら医療用のメスがそれに該当する道具だ。そして──彼ら自身が持つ最大の弱点は、『媒介となる道具がない限り、絶対に能力を発動することはできない』という点にある。恵一がコートを脱げないでいる、最大の原因がそれだった。素手の恵一は、そこらにいるただの人間と何ら変わりはない。そして、抜き身で持ち歩くことが禁じられた以上、バットはコートの中に収めておくしかないのだ。
(……何で俺だけ、こんな暑い思いをしなきゃならないんだ?)
 カレンダーを見たわけではないので確実ではないが、今が時期的に夏であるということは間違いない。常人から見たならば、今の恵一の服装は間違いなく“変人”に区分されるものだろう。当人が好きでそうしているわけではないにせよ──むしろ意志に反しているからこそ、自分自身に対する理不尽な苛立ちは強かった。
 そして、その苛立ちを助長するように水音が跳ね、飛沫が恵一の頬を濡らす。
 どんなに強く願っても、目の前の現実を一瞬で切り替えることなど不可能だ。もしかしたらそういう能力があるのかもしれないが、少なくとも恵一には備わっていない。つまり、彼にはただ全てを受け止め、さらに苛立ちを募らせるぐらいしか採るべき選択肢が用意されていなかった。
 割合丁寧に清掃されていたらしいコンクリが、ちぐはぐに繋がれている。無数の立方体をでたらめに組み合わせたかのようなそれは、なんとか大量の水を塞き止めるという役目を果たしてはいた。大きさは二十メートル四方といったところか。その役目から想起される名前に照らし合わせて考えれば、特別大きくもなければ小さくもない。出来映えに関しても、見てくれが悪いというようなみとはなかった。だいたい、外観で機能が左右されるような類の代物ではない。
「……なんで、わざわざコンクリを“繋ぎ治して”までプールなんか作ったんだ?」 
「暑いからに決まってるでしょう?」
 水の中からすげなく即答され、言葉に詰まる。普段ならばここで二言、三言は返せたかもしれないが、今の恵一にはそうできない理由があった。
 無意味に思考が暴走する。頬が紅潮しているのが自分でもわかる。鼓動が早鐘を打っている。違和感は時を追うごとに膨らんでいく。そのくせ、恵一はこの場から離れようなどとは思えなかった。認めたくはないが──そして全く同じ方向性の問題として、認めざるを得ないのだが──恵一は、この状況を少しだけ喜んでいるのだ。もちろん、それを表に出すような真似はしないのだが。
「……水は《天使》が補給したのか。……いいのか、こんな無駄遣いして」
「《天使》の創造能力は、私達が知る限り限界がないもの」
 再び即答し、水面に揺らいでいた女性が姿勢を立て直した。濡れた髪が夏の日差しを受けて輝く。容貌は十分に“美人”に分類されるのだろう──だからどう、というわけでもないが。
「それに、やっぱり夏はプールだと思わない?」
 その問いかけを無視し、恵一はからかうような眼差しをこちらに向けてくる女性から視線を外した。芹沢亜希子──別段親しい間柄というわけではないが、険悪というほどでもない。一度何の警告もなしに切りかかられたことはあったが、それを恨みに思うような神経は恵一に備わっていなかった。特に今のような状況下においては、それは無視しても何ら関係のないことだったろう。
 ただ──恵一にとって、どうしても無視できない現実がある。
 当たり前の話だった。そうでなければならない、というレベルの問題でもある。
「……まったく……世界がこんなふうになっても、猛暑っていうのはきちんと来るわけね……」
 つまらなそうに呟き。
 何故か──ブルーの生地、ホールターネックスタイルの水着に白衣を羽織って。
 芹沢亜希子は、ゆったりとした調子で水面に浮かんだ。
「……なんで白衣なんか着てるんだ?」
「メスが仕舞ってあるからよ」
 何を当然のことを──とでも言いたげな表情で、亜希子が胡乱な視線を投げ返す。一度だけ微かに頷くと、恵一はそれ以上の追求を諦めた。何をしても無駄だという、漠然とした確信が恵一の中に芽生えている。それを否定することは簡単だが、簡単すぎるためにまるで意味がなかった。叶わない願いは抱かない。現実から、ほんの少しだけ目が逸らせればそれでよかった。
 だからというわけでもないが、恵一は既にこの状況を受け入れ始めていた。これはきっと、このままが正しい状態なのだと無理矢理自分に言い聞かせる。無駄に水を張ってプールを作り上げたのも、亜希子がその中で泳ぎ回っているのも、きっと全てはそうでなければならないことなのだろう(何の役に立つのかは知らないが)。
「暇そうね」
 プールの縁に状態を預け、亜希子が何処か眠そうな瞳で呟いた。緩く視線を巡らせて、恵一の返答を待っている。
「まあな」
 どちらかと言えば暇そうなのは言った本人の方だろうという気はしたが、敢えて恵一はそれを口に出さないでおいた。余計なことを言ってはいけないと、頭の一番奥の辺りで警戒音が鳴っている。もともと無口な質なのだから、わざわざ相手の気に障るような真似をすることはない。
「頼み事、してもいいかしら?」
「内容による」
「別に、今すぐプールに入りなさいとか言わないから安心していいわ」
 明らかにこちらをからかっている。だが、自分の意志とは無関係に顔が熱くなるのがわかった。もとより女性には免疫がない。友人にも、そういった関係の話題では散々馬鹿にされていた。
「……なんなんだ、いったい」
「香椎さんの部屋に行って、浮き輪とってきてくれない? 確か、机の上に出しておいたとか、そんな話をしてたから」
「……」
 深く重い溜息を吐く。諦観の強く滲み出たそれが空気に混じって消えると同時に、恵一はひどく疲れたような表情で首肯した。最初から、ロクなことではないだろうと予測していたのだ。それが裏切られなかった分だけ、運が良かったと思うべきなのだろう。亜希子の性格から考えると、本当に「一緒にプールに入るように」などと言い出しかねない(もちろんそのときは断固として拒否するつもりではいたのだが)。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 軽い調子で手を振ってくる亜希子に背を向けて、恵一はゆっくりと両足を前方へと投げ出し始めた。後ろで、水の跳ねる音が聞こえる。異様な熱さに汗が流れ、コートの下に着込んだシャツが背中に貼り付いていた。
(……なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだ?)
 答えが返ってくるはずもない問いを玩び、恵一は目指すべき場所へと歩みを進めていく。

 香椎由香。三石デパートホームにおいて、実質的なリーダー役を務める少女だ。彼女がこの建物に目を付け、守るべき多くの《覚醒者》達を集めた。そして今に至るまでただの一人も死者を出すことなく、このホームをたった一人で維持し続けている。
 恵一は、由香が何故ホームを作り上げたのか、その理由を知らない。また、率先して知ろうとも思わなかった。人にはそれぞれに理由があり、そしてそれらは他人がみだりに触れていいようなものではない。
 由香がそれを話したいと言うのなら、素直に聞いてやることもできただろう。だが、そんなことはあり得ないという確信が恵一にはあった。あの少女は不器用な生き方を選択している。不器用にしか生きられないのではない──敢えて自らの選択肢を狭め、そしてそれによって起こる結果の全てを呑み込んでいこうとしている。ならば、恵一がその方法に横合いから口を挟む必要はなかった。助けの手は、求められたときにだけ伸ばせば十分だろう。
(だけどまあ、死人が出てないってのはたいしたもんだな)
 恵一はこれまでに幾つかのホームに立ち寄った経験を持っているが、そのどれもが《覚醒キャリー》の被害を受けて死者を出していた。最も悲惨なところでは、ホーム開設時の十分の一も生き残れなかったというような場所もある。統率する人数にも違いはあるのだろうが、それにしても死者がゼロというのはここが初めてだった。
(……噂には聞いてたけど、な)
 三石デパートホームを守る、二人の《覚醒者》──芹沢亜希子、そして香椎由香は化け物だと。
「普通じゃないだろうな、確かに」
 通常、《覚醒キャリー》一体に対し、最低でも三人以上の《覚醒者》──それも自在に能力を使いこなせるほどの人間がいないと、ホームを存続していくことは困難だと言われている。だが──
(──あいつは、少なくとも七体はいると言っていた)
 つまり、自分達の三倍以上の数を誇る《覚醒キャリー》を相手に構え、完璧にこのホームを守り抜いていたというのだ。この事実だけでも、彼女達の能力がいかに強大なものなのかが知れた。もっとも、それを言うなら一人で《覚醒キャリー》を狩り続ける黒川恵一こそ化け物だということにもなるのだが、何故か恵一は自分がそれほど強い人間なのだとは信じられなかった。これまで生きて来れたのは、ただ単純に運が良かったからだという思いがどこかにある。もちろん生き残るための努力を怠ったことはなかったが、死んだ人間の中にもそれぐらいの心構えをしていた者はいただろう。自らの拠り所である《仮借ナキチカラ》という能力も、それほど強力な代物ではない。金属バットがなければ、彼は満足に力を発揮することもできないのだ。恵一がこれまでに会った中でも、自分より強い能力を有する人間は何人もいた。
(ま、それでも都合良く生きてこれたのが、本当の能力なのかもな)
 そんなことを考え、我知らず唇が緩む。基本的にどうでもいい思考というのは、苛立ちから意識の方向性をずらしてくれる。熱気で頭がのぼせているのかもしれないが、そのぐらいがちょうどいいのかもしれない。
「ま、そんなもんだろうな」
 どうせ、明日に繋がる希望すら薄い世界なのだ。いつまでも気を張りつめていることなどできるわけもない。途絶えることのない命だと、信じて笑い続けるぐらいが関の山だろう。
 考えてもわからないもの。どうあっても手に入れることの叶わない希望。
 そんなものからは遠ざかってしまえばいい。
 由香がどうやってあの小さい体でホームを守り続けてきたのか、そして何故そこまで頑なにこのホームを守ろうとしているのか。本人にすら、わかっているかどうかは怪しいのだから。今はただ、それが事実であるということさえ覚えていればそれでいい。
「……着いたか」
 由香の部屋は、最上階近くのスタッフルームを改造して作られている。もとは大きなしきりの壁があったところを、亜希子の能力──《C.O.T.ディーパーズ》で無理矢理に切断・接合し、一つの大きな部屋へと造り替えてしまったのだ。まだ時間が穏やかにしか流れていなかった頃、マンション住まいだった由香は、自分専用の部屋というものを持っていなかった。その反動──というわけでもないのだろうが、やはり広い部屋というものに多少なりの憧れがあったらしい。別に良い悪いで判断される話ではなく、ただそれはそうであるというだけのことだが。
 何度かは訪れたことのある部屋だった。いつも通りにドアノブを掌の中に押し包み、ゆっくりと回す。何も変わらない、変化の入る余地のない完全な日常動作だった。だからこそ、恵一は油断していたのかもしれない。
 せめて。
 せめてこのときノックさえしていれば──と、後になって恵一は数え切れないほど後悔することになる。しかし、当たり前の話だが彼は神様などではないし、先のことを予見できるほど長い時を経てもいない。異能の力があるというこえ除いてみれば、黒川恵一はあくまでただの少年なのだ。
 だから、責めることはできない。
 できないはずだと、何度言い聞かせても無駄なことも存在するのだと、そう理解してはいるのだけれど。

 最初に見たのは、やけに綺麗に折り畳まれた白のワンピースだった。今朝方見た時、由香が身に着けていたものだ。
(……?)
 部屋の中はやけに閑散としている。小さめのガラステーブル、漫画本ばかりが収められたスチール製の本棚、そしてそれだけが妙に豪華なツインベッド(どうやらデパート内に残されていたものを、無断で拝借しているらしい)。女の子らしい調度品はほとんど置かれていない。かろうじて、かえるを模した目覚まし時計、それに奇妙な形をしたパンダのぬいぐるみが、それらしいと言えばそれらしくはあったろう。
(……なんでだ?)
 人生でも最大級の後悔──というものが本当にあるのだとしたら、今まさに恵一はそれと直面していた。言葉にはできない。何をしていいかもわからない。沈黙し、ただ時間が間抜けに過ぎ去るのを見送る。窓から射し込む真夏の陽光が、一層間抜けな空気を添えていた。
 どうして──という言葉が、喉の奥のあたりでつかえている。それを口にしたが最後、本当に事態は取り返しのつかない方向へと進んでしまいそうな気がした。実際問題として、もはや取り返しがつかなそうな気配はしているのだが──それでも、わざわざ悪化させることはない。
「……」
 硬直している。指の一本も自由に動かない。
 それは、相手もそうだった。
 部屋のほぼ中央の辺り、一人で車椅子に腰掛け、こちらをじっと凝視している。他に見るべきものもないので、当たり前と言えば当たり前の話ではあるのだが。
 細い体に、暑気のためだろう、小さな汗の粒が浮いている。肌は激しい日差しに晒されているにも関わらず、驚くほどに白い。以前、彼女が日焼けしない体質なのだと聞いたことがある。こんなときに何故思い出したのかはわからなかった。恐らく、恵一の中でも最も奥深い部分が、現実を必死で否定しようとしているのだろう。何が変わるわけでもないのだが、そうせずにはいられない。目に見えるものの全てを、視界から消してしまいたい。それが叶わないというのなら、自分が消え去ってしまうのでもよかった。
 とにかく──一刻も早く、この場から立ち去らなければならない。それだけは確かだろう。だが、両の足が凍り付いてしまったかのように動かない。走り出したい。絶叫して、走って、そして見知らぬ場所に逃げ込みたい。
 だが、叶わない。
「…………」
 恐ろしく長い沈黙。二人とも言葉を発せず、ただ互いの視線が交錯している様子を呆然と見遣る。バスタオルが風に揺れ、雪色の肌を僅かに晒した。いくら夏でも寒くはないか──と、完璧に場違いな心配をしてしまう。優しさから来る心配ではなかった。どうしようもない居心地の悪さを、なんとかして軽減したかったのだ。
 弁解しなければならない。
 相手が何かを言うより早く、誤解なのだと叫ばなければならない。
 《覚醒キャリー》を相手にしたときの数倍にも匹敵する生命への危機感が、恵一の心臓を鷲掴みにしていた。
「……け……」
 小さく零れる呟き。
 車椅子の車輪を押さえていた掌が、手近にあった目覚まし時計を掴み取る。その動作がまるでスローモーションのように引き延ばされるのを、恵一はどこか他人事のような面持ちで感じていた。
「……恵一さんの……」
 咄嗟にバットを取り出したくなる衝動にかられ、必死でそれを押し止める。命の危機が迫っているときに馬鹿らしいとは思ったが、どうしてもそうしなければならない理由が恵一にはあった。
 非は明らかにこちらにある。
(浮き輪、香椎さんの机の上に出してあるみたいだから)
 その言葉を、『由香は部屋にいないから、行って浮き輪を取ってこい』という意味だと勘違いしていたのだ。だからノックもせずに扉を開けた。いつもなら、由香は恵一が部屋に来ることを歓迎する。食事の誘いなどのくだらない用事でも、少女はやけにはしゃいで恵一の後をついてきた。
 だから──油断していたのだ。
「恵一さんのっ……」
 取り返しはつかない。弁明にも効果はない。
 もし意識を失わずにいられたら、絶対に亜希子を怒鳴りつけに行こうと決意した、次の刹那。

「恵一さんの、馬鹿──────ッ!」

 水着に着替えようと、服を脱いでいたその姿のままで。バスタオルを抱えた腕を震わせて。

 由香は、手に持っていた目覚まし時計を、全身全霊を込めて投げつける。

(……最近、俺のキャラが変わってないか?)
 誰にともなく、そんなことを考えながら──

 ──額に凄まじい衝撃を覚え……恵一の視界が暗転した。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 “列車”の中はうすら寒い沈黙に覆われていた。ただ、車輪がレールを前へ前へと蹴飛ばす音しか聞こえない。窓枠を通り過ぎる闇が、視界の端に入っては消えていった。この列車が光に包まれて走ることはない──そう理解してはいるものの、気分が陰鬱になることは否めない。もっとも、これから彰(あきら)が向かおうとしている場所のことを思えば、この程度の暗闇など取るに足らないことの一つではあったろう。
(……復讐に、意味はない)
 誰の言葉だったか、正確に思い出すことはできなかった。何かの文学作品に載っていたのかもしれない。だとすれば、それは陳腐なことだった。文学は人に何ももたらさない。文学者はさもそれが人の役に立つようなことを言うが、そのくせ自身が一番文学を理解していない。文章を組み立てるわけでもないのに、やたらと文章を批判し、批評し、駄作だ良作だと決めつける。それが──役に立つはずがないと、わかっていないのは文学者だけだ。
 だから彰は文学を信用しない。その記憶にも頼らない。意味がないとわかっているのに、わざわざそれを信用してやる義理を感じないからだ。
 意味がない。その真実にこそ意味がない。もとより、人間は形のないものには頼れないのだ。心を支える材料にはなるだろうが、肝心の心にすら形はない。いつでも不変のものこそが人間を守り、その儚い命を受け継がせてきた。
 命には形がある。それぞれ固有の形──それは例えば上條彰という形であり、例えば香椎由香という形であるのだろう。命は、自衛が可能な間はその形を保っていられる。やや安定性に欠けるところはあるものの、他愛のない心や感情といったものよりは遙かに役に立つだろう。
 それを、弾丸にしてしまうという役割すらも、きっと果たしてくれるに違いない。
(これは……信頼だ)
 無機物に寄せる信頼。殺人のためだけにしか役に立たない兵器へと寄せる信頼。鉄と火薬、その集大成に寄せる信頼。もしも命を守るものがあるとしたら、結局はその程度の代物だろう。少なくとも人間を信頼するよりは裏切られる可能性は低かった。人間の心は移ろう。故に、信用できない──決して。
(数学講師でなくとも、そのぐらいのことは理解できるはずだ)
 数学を学んでから、さらに上條は人間を信頼しなくなった。そしてその失った信頼を、全て無限の数式へと注いだ。まるでそれは愛情のようだった──いや、それは確かに愛情だったのだろう。数式は愛情に答えて解を生み、そしてその解は新たな謎を生み出していく。数学は常に冷徹で、そして探求する者にどこまでも優しい。解を見つけ出す行為に終わりはなく、失敗もまた幾度となく繰り返される。だがそれでも、上條にとって数学は“もっとも優しい学問”だった。だからこそ彼は無限の愛情を注ぐことができたし、世界が滅んだ今でも他愛のない参考書に目を通しては心の安らぎを得ている。
 数学者は、数学が役に立つとは決して口にしない。口にした時点で、その人間は数学者である権利を奪われてしまうからだ。何かに、数学の欠片が応用されてしまうことはあるだろう。例えばそれは化学や物理といった分野であるかもしれないし、もっと別の分野にも使われているのかもしれない。だが……数学は、単体では決して役に立たないのだ。複雑な方程式も微分積分、等差級数、フラクタル幾何学すら、実生活においては誰の頭をも悩ませることはない。統計、確率に関数、帰納と演繹……これらが導き出してくれるものの欠片ほども、人間が生きていく上では必要とされない。
 だからこそ。
 数学は役立たずの学問だからこそ──上條は、信用しているのだ。どの角度で銃弾を撃ちだし、それがどれほどの速度で目標に到達し、どれだけの衝撃を発生させるのか……そんなことまでいちいち計算しているわけでもないが。
(だが、考えることもある)
 つまりそれは、敵を殺せる可能性だ。彼我の実力差を見極め、予測できない能力に可変数を代入し、そして計算する。できないことではない。時間さえかければ、その精密さは現実に近付いていくだろう。そして、不可能ではないからこそ、あてにもならない。人間にできることなど、たかが知れているのだから。
「それが言い訳にならないように──というのが、あたしに送れる最大の忠告だね」
 ふとかけられた声。発した主に視線を向けようともせず、上條は手慣れた動作で鞄の中から拳銃を引き抜いた。銃口を声の主が居る方向へと突きつけ、そしてようやく唇の端を動かす。順序が狂っているとは思わなかった。
「……何の用だ、《WWW(ウィスパード・ワード・オブ・ウィズダム)》」
 いつの間にか彰の真正面に腰掛けていたのは、一人の少女だった。敵ではない。だが、彼女はただ“敵ではない”というだけの存在だった。率先してこちらの妨害をすることはないが、代わりに助力の手を差し伸べてくれるようなこともない。
 長い髪を伸びるままに放置し、異常な痩躯をだぶついた布きれで覆っている。癖の強い髪の毛を収める帽子は大きく、絵本に出てくる魔法使いのそれによく似ていた。奇妙な格好だとは思うが、別に文句を言う筋合いもない。なにより彰自身がたいして気にしていなかった。
 この世界において、ありとあらゆる情報を“検索”できる《覚醒者》。既知、そして未知を問わず、その気になれば人の心すら容易く読み解くことの出来る少女。情報というものに関してのみならば、間違いなく現存する《覚醒者》の中で最高を誇る存在──《WWW(ウィスパード・ワード・オブ・ウィズダム)》。誰も彼女の名前を知らない。それで不都合が起きるわけでもなく、皆彼女を能力の名前で呼んだ。それが賛辞なのか侮蔑なのか、判別のつきにくい事例ではあるだろう。
「何の用か……それをあんたに教えに来たんだ、もうちょっと愛想よくしてくれても構わないんじゃない?」
「おまえとくだらない言い合いをする気はない。用件を言って真っ直ぐ帰れ」
「……愛想が良い、って言葉の意味、辞書で引いたらどうかと思うよ」
 皮肉げに顔を歪め、それでも少女は言葉を続けた。
「あんた達のやろうとしていることが“囁かれた”──あたしの立場としては、これをあの変態ロリコンのストーカー野郎に報告しなきゃいけない。言っている意味、わかるんだろうね?」
「簡素な日本語だからな」
「……あんたさ、遠回しな言い方しかできないわけ?」
「理解した。異論もない。先を続けろ」
 ふう、と何かを凄まじい勢いで諦めるかのような表情で、少女は小さく肩を竦めた。
「……とにかく、こんな馬鹿なことがあいつに知られたら、あんたら無事じゃいられないよ。香椎由香はあいつのお気に入りなんだからね」
「そうだ。そしてそのお気に入りが、私の娘を殺した」
 引き金にかけた指に、ほんの微かな力がこもる。あともう少しだけ力を加えれば、飛び出した弾丸は狙い過たず少女の眉間を貫くだろう。それがわかっているのか、少女は大げさに頬をひきつらせた。
「あのねぇ、復讐に意味はないって、よくアニメなんかで言ってたじゃない」
「そうだな」
「わかってるんでしょ? 香椎由香を殺しても、変態野郎があんたを殺したって、あんたの娘は生き返りなんかしないよ。生命を逆に戻すなんて《覚醒者》、世界中探したっていやしないんだ」
「……世界中、どこにもいないのか?」
「いないよ。そんな存在がいたら、間違いなくあたしは“囁かれて”いるはずだ」
 恐らく、少女の言うことは真実なのだろう。嘘をつく理由もない。
「だから──馬鹿な真似はやめるんだ。あんたほど強力な《覚醒者》を失うのは、今のあたしらにとっちゃ相当キツイんだからね?」
「……復讐に意味はない。だからやめろと?」
「そうだよ。わかってるんなら《天使》奪取を最優先に──」
 少女の言葉は、終わりを迎えることができなかった。
 乾いた銃声が響き、そして何の余韻も残さずに消える。後に残されたのは、弾丸の掠めた少女の頬と、割り砕かれた硝子窓の破片だけだった。車両中に空気が渦巻く。服は四方に暴れ回り、姿勢を保つひとすら困難になっていた。近くにあった手すりにしがみついて、少女が何事かを喚き立てている。
「……復讐に、意味はない」
 呟く。
 そんなことはわかっている。
 わざわざ指摘されるまでもなく、そんなことはわかっているのだ。娘が生き返るなどということも期待していない。万が一、あるいは億が一の確率でこれからやろうとしていることが成功したとして、その後に生き残ることなど不可能だ。彰が暮らすホームをまとめる男──《WWW(ウィスパード・ワード・オブ・ウィズダム)》の言葉を借りるなら、変態ロリコンのストーカー野郎──は、その性質はともかくとして、非常に優れた《覚醒者》なのだ。まともにやりあって、勝てる見込みはほとんどない。それは香椎由香にしてみても同じだろう。
 両方化け物だ。そんな相手に命のやり取りを申し込むことにこそ意味がない。
 だが、彰はそんなことを気に掛けているわけではなかった。
「一つ、教えてやる──」
 意味がない。
 だからこそ誇れることもある。
 意味も──正しい答えすらないような難問に立ち向かうことの悲しさを。自分が絶望するだけだとわかっているのに、尚挑んでしまうその愚かさを。
 そして、それらの行為の美しさを。
 数学者だけが知っている。

「──意味がないから高等なのさ」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「──それで、恵一君はどうしてるわけ?」
 くつくつと笑いを押し殺し、壁面に寄り掛かって亜希子が尋ねる。その問いには答えずに、由香は勢いよく水の中に沈み込んだ。長時間荒廃した世界の埃にまみれていた髪の毛が、これ幸いとばかりに拡散し、汚れを振り落とす。数秒ほどして息が続かなくなると、再び勢いをつけて水面を割った。水温が暖かいために、夏の陽気すら涼やかに感じられる。もちろん錯覚であることは間違いないので、ものの十秒も経たないうちに感覚は正常さを取り戻していたが。
 意識を失った恵一を自室のベッドに寝かせ、由香は亜希子と二人で室内水泳を楽しんでいた。少しして亜希子が「恵一君が来ないけど、どうしたの?」と尋ねてきたのがそもそもの始まりだ。本来なら、この質問を無視するべきだったのだ──そうすれば、今のような事態を招き入れることはなかったのだから。
(後悔は先に立たないのです……)
 不自然に頬が紅潮している。由香はそれを自覚していた。なにかを振り払うかのような心持ちで、口の上まで沈み込み、底面に掌をつく。吐き出す呼気が泡となって水面に弾けるのを見るともなしに見つめながら、目を細めて眼前の女性を睨み付けた。亜希子は、値踏みするような眼差しで、こちらをじっと見つめている。
(ようするに……)
 芹沢亜希子という女性は、掛け値なしの美女だということだ。少なくとも由香はそういう評価を下していたし、本人にそう言っても否定はされなかった。代わりに大笑いされたが。
 中途半端に伸ばした髪は、意図的にそうしたというよりは、ただ単に整髪しなかったらそうなったというようなものだった。艶やかな黒に彩られ、同じ女性の目から見ても素直に綺麗だと思える。切れ長の、どこか焦点あわせをさぼった硝子玉のような瞳も、無垢の新雪のような肌も、全てのパーツが「美しい女性とはかくあるべき」とでもいうような配置でもって構成されていた。華やかに咲く大輪の花ではない、陰にひっそりと咲く小さな花──そんな雰囲気の持ち主だ。細々とした身体的な問題──身長やら、ある意味もっと大事なものやら──に関しては、なるべく気にしないようにしていた。きっと時間がなんとかしてくれると信じている(そのために、嫌いな牛乳も飲んでいるのだし)。
 なぜか水着の上に白衣を着込んでいるが、そんな風変わりな格好すら亜希子にはよく似合っていた。水に濡れた髪を緩く掻き上げ、小さく息を吐く仕草からも、人を惹きつける不可思議な魅力が溢れ零れている。計算されていない──どこまでも自然であるがために、彼女が持つ儚さ、涼やかさは幾分ほども失われてはいなかった。
「……どうかした?」
 全てを見透かすような微笑みを湛え、亜希子が軽く小首を傾げる。無邪気な少女のような振る舞いすら、この女性は手軽に着こなしてみせる。どんな雰囲気にも違和感なく溶け込み、完璧に自分の空気にしてみせる。そういう強かさが、芹沢亜希子の持つ特性の一つだった。
「べ、別にどうもしないのです」
「ふうん?」
 なにかを期待するような気配を濃厚に漂わせ、亜希子は頬に貼り付いた髪の毛を指先に絡め取る。
「……お嫁に行けない気分でしょ?」
「なっ、なにを言ってるのです!?」
 照れるべきことではないはずなのに、顔が火照るのを抑えられない。一気に全身が発熱したような感覚だった。
「あの子、見た目通りの朴念仁だから、香椎さんも苦労するわね」
「なんの苦労ですかっ!」
「まあ、色々と……あ、避妊はしておいてね。私、母子看護の成績悪かったから」
「……もう、知らないのです」
 今鏡を見たら、自分は本当に真っ赤になっているのだろう──そんなことを考え、さらに頭へと血が上るのを自覚する。
 ようするに、相手にするのが悪いのだ。もとより退屈な時間を食い潰すことだけが目的の会話でしかない。適当に話を受け流していれば、亜希子も別の話題に流れていくだろう。
 それはわかっている。
 嫌というほど、理解してはいるのだ。
 だが、無視できない。この話題を放置しておけば、取り返しのつかない事態になるという確信が由香にはあった。取り返しのつかないことをする者を馬鹿と評するのだ。自分は馬鹿ではない──だからこそ、この話題から目を逸らすわけにはいかない。弁解するような心持ちでそんなことを考える。実際、誰か聞いてくれる人間がいれば、由香は猛然と弁解を始めただろう。ただ、自分が馬鹿なのだと認めたくないだけ。それだけだと。他に意味はないし、もちろんのこと意義もない。
 果てしなく重い溜息をついて、再び水の中に沈み込む。両腕を思い切り前へと突き出し、筋をほぐす。なにがどうというわけでもなく、それは由香の癖だった。プールに入るたびにそうしていたし、誰かから禁止されるようなものではない。亜希子もそれに関してはなにも言って来なかった。
 代わりと言うのかどうかも判然としないまま、悠然とした様子でこちらに向かって泳いでくる。水泳選手のような優雅さで隣にまで泳ぎ着くと、不意に首筋へと腕を回された。逃げ遅れた、と思ったときには、既に彼女の唇が耳朶のすぐ側にまで近付いてきている。
「今までプールを作ろうなんて言っても、全然興味がないってふうだったのよね、確か……?」
「うっ……」
 言葉に詰まる。伝えるべき言葉は無数にあるのに、結局由香に選択が許されたのは沈黙を固持し続けることだけだった。
「それが突然水着まで用意するなんて、どういう風の吹き回しなのかしらね?」
「そ、それはっ……その、思ったよりも気温が高かったからなのですっ」
「へえ……? 私が最初にプールを作ろうって言った日より、今日の方が気温は低いんだけど?」
「……〜っ」
 半眼で睨み付け、犬歯を剥いて威嚇する。が、当然のこととでもいうような仕草でそれを無視すると、亜希子は軽い調子で口笛などを吹いてみせた。
「見て欲しいけれど見せたくない──乙女心は複雑ね?」
「……先生、今、もの凄くおじさんくさいことを言ったのです」
「あら、私はもうそういう年だもの」
 なにを言っても手応えがない。稀薄な怒気を振り回したところで効果は薄いと、会話を重ねるごとに思い知らされている気分だった。さすがに年齢に伴う経験の差が厚すぎる。
 ふう、と溜息の回数を増やし、亜希子の腕をほどくと、由香は即席プールの縁に手をついた。勢いをつけて体を引き上げる。水の重みが腕に悲鳴を上げるのを感じながら、渾身の力を込めて水の中から抜け出した。
「……恵一さんが心配だから、見てくるのです……」
「一時間しても帰ってこなかったら、《天使》にお赤飯を注文しておくわね」
「そういうことはしなくていいのですっ!」
 振り向いて怒鳴ると、会話を打ち切る合図としてかぶりを振る。明確な意図が伝わったのかどうかはわからないが、亜希子はそれ以上言葉を投げかけてくることはなかった。
 白いパーカーを羽織り、車椅子に座り込む。ベルトを腰に回して固定すると、車輪に手をかけた。金属同士が擦れ合う微妙な不協和音を立てて、由香にとって掛け替えのない“両足”が歩みを始める……

 ホームの中はある程度片付けたつもりだったのだが、やはり完璧というものは望めないものだ。床に転がる微細なコンクリの砕片が、車椅子に断続的な振動を与える。既に慣れきったことではあったが、それはつまり耐えられるというだけの話だった──不快であるという事実に変わりはない。
 車椅子での生活というハンデを背負う以上、香椎由香の行動範囲は絶対的な制限を受ける。このデパートをホームへと改装する上でもっとも不安だったのが、縦に伸びた建物自体の構造だった。縦に長い──ということはつまり、階段を上がる必要性がどうしてもある、ということだ。普通ならばなんの障害でもないだろう。《天使》による二十四時間体制での電力供給には反対意見も多いため、エレベーターを使用することはできない。である以上、階段を使うという選択肢は当たり前のものだ。
 しかしそれは、由香にとってはどうしようもない障害となった。事態をいち早く察知してくれた亜希子が、半月ほどの時間をかけて全ての階段になだらかなスロープと手すりを“繋ぎ治して”設置してくれなかったら、今でもまだ由香は1階から上へと行くことができなかったに違いない。もちろんスロープの上り下りもそれなりに疲弊はするが、階段を使用することにくらべれば、その程度の苦労は気になるようなものではなかった。
(お世話にはなっているのです)
 それは間違いない。亜希子の判断力、実行力ともに、由香にとってなくてはならないものだ。彼女という存在がなければ、このホームもとうの昔に《覚醒キャリー》の手によって滅ぼされていただろう。恩人として──そして当然友人として、芹沢亜希子は掛け替えのない存在になっている。
(わかってはいるのですけれど……)
 理解しているからこそ、受け入れられない事実もある。つまりはそういうことだ。
 このことを恵一が知ったらなんと言うのか、少しだけ気になった。見たところ、亜希子と恵一の間に、以前ほどの険悪さは窺えない。もちろん互いに譲れない一線はあるのだろうが、そういったものに触れでもしない限り、互いに不干渉の立場を採るつもりらしかった。結局、落ち着くべきところに落ち着いたということだろう。
 彼をだしにして他愛ないお喋りに興じていると知ったら、あの無愛想な少年はどうするだろうか?
「……」
 しばらく考え、おそらくは無視するだろうという結論を導き出してしまい、我知らず肩を落とす。もともと、自分が他人からどう思われているかなど気にもしないような人間だ。自分が話の種にされていると知ったところで、恵一の生活態度になんらの変化が現れるとも思えない。少しだけ寂しくはあったが、それは間違いなく確かなことではあったろう。
「……せめて、気にするぐらいはして欲しいのですけれど……」
 呟きながら、自室に通じる扉を開き──

「……なっ……!?」

 ──香椎由香は、暗闇の中へと放り出された。

 視界が空転する。映し出される景色が奇妙に歪み、そして急激な明るさが瞳を焼いた。車椅子が金属的な音を立てて固いなにかの上へと叩き付けられる。衝撃に息が詰まった。
 全ての出来事は、一瞬のうちに発生し、一瞬のうちに終結した。何度かかぶりを振り、混乱した意識を変化に対応させる。もちろん、そう簡単に行くわけもなく、恐らくはなにもしなかったところで対応に要する時間は大差なかったろう。それこそ気分の問題だ──その気分こそが、なにより重要になる場合もある。
 恐る恐る瞼を開く。一番最初に瞳が捕らえたのは、天井からぶら下がった裸電球だった。接触不良でも起こしているのか、激しく明滅を繰り返している。眩しい光だと思ったのは、その電球が灯すものだった。瞬間的な光量の変化に眼球が対応しきれなかったのだろう。とまれ、なにもわからないままに死んでいる──といったようなことがなかっただけでも運が良いのだろう。
「ここは……」
 呟き、周囲を見渡す。見慣れない木の床、時間の猛威を窺わせる錆びた壁、ところどころに穴の空いた古い座席。光と闇とを交互にくべる電灯によって照らされたのは、そういったものの集合体だった。軋む窓硝子の向こうには、到底自然のものではあり得ない深淵の暗闇が広がっている。外の夜が歪み、そして引き延ばされている。どうやらこの空間そのものが、高速で移動しているらしかった。外観を見ていないので断言はできないが、それは間違いなく“列車”──しかもかなり古い年代に設計されたものに違いなかった。線路を踏み潰し進みゆく轟音が、硝子を震わせ車内に飛び込んでくる。長く閲した時間のせいか、それとも元からの構造のためにそうなっているのかはわからなかったが、列車は激しい音と振動とによって揺さぶられ、決して快適とは言い難い走行を繰り返していた。
 車椅子が木の床を転がり、時折襲いかかる激しい横揺れにバランスを崩しかける。由香は自分の位置を固定しておくために、掌で強くゴム地の車輪を掴んでいなければならなかった。腕の筋肉が突っ張るのがはっきりとわかる──だが、どうしようもない。自分を包むこの異常な変化の正体を掴むまでは、不用意に無防備な体勢をとるような真似はしたくなかった。
 生死を分かつ重大な問題が、たかが警戒していた程度で回避できるなどとは考えていない。ただ、警戒しておくことに意味がないわけではなかった。前もって不測の事態までを頭に入れておけば、実際にそれが起きたときに迅速な反応がとれる。生き残る可能性を、限りなく九十九パーセントにまで引き上げていくことが可能になるのだ。そして──この世界においては、可能なことの全てをやり尽くして度が過ぎるということはない。それは両足を失った由香が誰よりも強く理解している。
(電車──、いや、もっと古い……)
「これは、機関車だ」
 唐突な、にわか雨のように降り注ぐ声に、由香は弾かれたように車椅子を回転させた。ゴムが擦れる独特の音とともに、景色が綺麗に反転する。差し向けた視線の先に、一人の男の姿があった。ぼろぼろに破けた座席へと腰を下ろし、どこか胡乱な眼差しをこちらへと送ってきている。
 長身痩躯──まさしくその言葉通りの外見だが、決して薄弱な印象を持たせるようなものではない。背筋は柱のように真っ直ぐ伸び、両の足はそれが打ち込まれた楔であるかのように床と接地している。やぶにらみの瞳は、お世辞にも愛想がよいとは言い難い。むしろ、自分以外の全てを拒否する冷たさが浮かんでいた。それを不快だと感じるほどの余裕はない──冷厳な眼差しの矛先が、明確にこちらへと向けられていたからだ。
(《覚醒者》……!)
 《覚醒キャリー》ではない。あの、全てを圧倒するような狂気を持ち合わせてはいない。だからといって安心できるかというとそんなわけもなく、由香はいつでも車輪にかけた手を滑らせることができるよう準備を整えていた。掌に汗が滲み、ゴムに体温が伝わっていく。この機関車が男の手によって作り出されたものかどうかはわからない──だが、恐らくは違うのだろうという予測はあった。眼前の男からは力を振るう《覚醒者》独特の、あの空気を圧迫するような感覚が感じられない。間違いなく、相手は二人以上──しかもこれほどの巨大な物質を作り出し、擬似的な空間の中を走行させている以上、相当に強い力の持ち主と見て間違いないだろう。
(私を狙って、能力を使用している……)
 その他に目的があるとは思えなかった。《天使》の奪取を狙うのなら、わざわざ由香になど構ってはいないだろう。わざわざ自分の姿をさらけ出し、相手の危機感を煽る必要性はどこにもない。
(殺しに、来ているのです……)
 純粋に──透き通る水のような殺意が、由香の体を貫いている。
「……数値化の可能な自然現象というのは、存外に少ないとは思わないか?」
 不意に──男は、そんなことを呟いた。暗澹とした表情から真意を読み取ることはできない。沈黙を守ったまま、由香は男から視線を逸らすことができなくなっていた。
「例えば、人間の持つ愛情もその一つだ。百個の愛情などというものは存在しない。だが、確かに個人間の愛情というものには明確な差異が存在する──まるで数値化されたようにな」
 男の言葉は、由香の返答を待ち望むような類のものではなかった。ただ淡々と言葉を宙に投げ出し、それが消えるとまた別の言葉を投げ捨てる。それを自分でも理解しているのか、ひどく間の抜けた発声になっていた。もっとも、本人がそんなことを気にした様子はない。表情はどこまでも平坦で、感情というものをことごとく凍らせてしまったかのようだった。そのくせ、吐き出す言葉自体には奇妙な熱がこもっている。
 懸命な姿勢のくせに、男はどこか醒めていた。
「家族に対する愛情と、恋人に対する愛情と……この二つは質が違うわけではない。質が違うなら名前もまた違って当然だ──原子量168.93421、地殻存在度0.48ppm、線膨張係数13.3、熱伝導率16.8、電気抵抗率79.0……これは、どんなに大きさが違おうが、確実に元素番号69──ツリウムだ。加熱すれば酸化ツリウムになり、酸にたやすく溶け、熱水と反応して水素を発生する。質量が増加しただけで、いきなり酸素に化けたりはしない」
 項垂れた様子のまま、男は早口で言葉を繋げていく。
「これが示唆するものは、数学の限界だ。私達が外界にある物を見る場合、物には大きさと形があるが──数学で取り扱うことができるのは大きさだけだ。形を取り扱う数字の研究も進められてはいたが……数そのものを取り扱う数学にくらべると、幼稚もいいところだったというのが実情だ。数学では形を定義し、捉えることはできない──それこそが数学の限界であり、また数学者にとっての憂鬱だった」  
 かん、と音が響いた。
 男は座席から立ち上がると、大きく両腕を広げるような姿勢をとった。
「愛情に形はあるか? これは、様々な事象を大らかに捉えるならば、形はある──と言える。恋人、親子、夫婦……様々な形で愛情は結実している。だが、それらの量を数として捉えることはできない。形はあるのに、大きさはない……数学者にとって、もっとも厄介な存在の一つだ。数値に換算できないということはつまり、自在に操ることもできないということに他ならない。知識に変換し、頭の中で系統立て、そして思うとおりに操るということはできない」
 由香の頬に一筋の汗が伝う。
 背筋からうなじのあたりにかけて、異常に冷たいなにかが這い上がってくる感触があった。車輪がほんの少し後ろへと滑り出している。腕の筋肉で押し止めようとしているのに、どうしても自分の思うとおりに動いてくれない。
 恐怖を、感じていた。
 立ち尽くし、滔々と語るこの男に、由香は言い様のない恐怖を感じていたのだ。
 ただ、それは死の恐怖とは全く異質なものだった。確かに、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感はある。鼓動が早鐘を打ち、全身を理由のない震えが襲っている。だが、それらの全ては、死への予感というようなものに対してではない。
 なにかを見落としている。
 とても大切な、忘れてはいけないなにかを忘れている。
 由香が感じているのは、そういった類の恐怖だった。
「私には娘がいた」
 呟きは宙に投げ出され、そして由香の耳朶へと確かに届く。しかしそれは届いたというだけのことで、なにかの返答を励起するようなものではなかった。
「……恐らく、愛していたのだと思う。先程から言っているように、それを数値化することは不可能だが……私は、父親として注ぎ得る最大限の愛情を注いだつもりだ。娘がそれを理解していたかどうかは怪しいところだが」
 かん、と再び響く硬い音。男の革靴が、強く床を蹴りつける音だ。
「つまり──私と娘とは、ごく一般的な家族を形成していたことになる。父親というものは、特に娘に対して過度の保護欲を持つものだ……娘が傷つけられるような事態になれば、なにを差し置いてでも必ず復讐を遂げる。おまえにも覚えがあるんじゃないか?」
「……あるかもしれないのです」
「そうだろう。そういうものなのだ、父親というのは」
 男の表情が──歪む。
 笑っているような、
 憎んでいるような、
 不思議な眼差しでこちらを見つめている。
 瞳の中に、どろりとしたなにかが浮かんでいた。
 真っ青な月光が照らす、湖の底に沈んだ鯰の眼球のように、どろりと濁ったなにか。
「香椎由香。こうは思わないか?」
 濁っている。
 それなのに、殺意は恐ろしく透き通っている。
 由香の体を通り越して、その後ろの空気に対して語りかけているかのように。
「《覚醒キャリー》だろうと人間だろうと、どんなにその内部を形成する要素に変化が認められようと、外面の形を保っている限りは変わりはないのだと──私の娘は、なにも変わらないままだったのではないかと、そう思わないか?」
 全身に緊張が走る。
 今すぐこの場を逃げ出さなければならない──体の最も原始的な部分がそう叫んでいるようだった。
「だから──」
 一瞬の時間が圧縮され、そして展開する。
 男の口調が揺らぐ。その頬に、一筋の涙が伝う。いつの間にか手に握っていたのは拳銃だ。銃口ははっきりと由香の体を捉えている。殺意が銃身に込められる。
(……!)
 車輪に掌を擦らせ、由香は車椅子を走らせた。目指すのは、男の立つ方。逃げることはできない。この機関車そのものが敵の能力なのだとしたら、決して由香を解放するはずがない。ならば、残された選択肢はたった一つだ──男を殺し、能力そのものを解除させるしかない。
「だから──」
 男の指先に力がこもる。
 由香を見据える眼差しに、複雑な感情のうねりが走った。
「だから、私の娘を殺したおまえは死ね」

 車内に響く──乾いた音。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

(まさか、とは思っていたのだがな)
 流動しない空気。硝煙の臭いが鼻腔を突く。慣れ親しんだはずのその臭いは、しかし彰にとって特に安息をもたらすような類のものではなかった。むしろ純粋に不快ですらある。忌避するほどではないと諦め、受け入れているだけのことだ。
 窓の外に覗く闇は凄まじく深い。渦を巻くような暗黒の果てに、望遠鏡か何かを向けてみたいという欲求がわき起こる。擬似的な空間に走らせている列車だ──所詮、車窓から風光明媚な景色が見えるわけでもない。見えたところで得をするとは思えなかった。
(こういう人間が、存在する……)
 全ての現実から目を逸らしてしまいたくなる。もしも悪夢が具現化するような事態が起きるのだとすれば、今がまさにそのときなのだろう。
 決定的な命の危機。それは最早、死の覚悟にすら直結するような恐怖だ。銃の引き金にかけられた指が震える。掌を湿らせる汗は冷たい。化け物と相対した気分だった──という表現はそのまますぎるだろう。
 彰が殺そうとしているのは、まさしくその“化け物”なのだ。
(こういう《覚醒者》が存在するんだ)
 轟々と直進を続ける列車が揺れ、彰は数歩たたらを踏んだ。握りしめた拳銃を叩き付けるようにして壁に手を突く。ともすれば脱力してしまいそうになる両足を叱咤するには、予想以上の精神力が必要だった。後戻りはできないという悲壮な覚悟だけが、今の自分を支えてくれる唯一の柱だと理解している。だからこそ、彰はなおも眼前に起きている現実を直視することができた。
「それが……おまえの、能力か」
 呟きは虚空へと投げ出され、どこへともなく消えていく。相手に届いたのかすら疑わしい。聞こえていたとしても、相手が答えを返してくるという確信はなかった。
 木の床がタイヤのゴム地と擦れ合って甲高い音をたてる。多少錆びついてきているのか、車椅子は列車が揺れるたびに金属的な軋みを上げた。何の感情も宿さない冷たい眼は、彰を真っ直ぐに捉えていた。ただそこにいるというだけで、あまりにも圧倒的な力を感じさせる。鼓動が急激に速度を増していくほどの、気を抜けば意識まで奪われそうになるほどの恐怖──黒い気配としか形容できない空気を身に纏い、少女は冷厳とした姿を晒していた。
 その細い体を包み込むのは、翼のようにはためく黒のインバネスだった。それと同色のズボンとフロックコートで体を覆う中、シャツだけがその存在を誇示するかのように白い。首元を飾るアスコットタイは赤黒く、乾ききった血液のようにも見えた。白い手袋をし、黒のシルクハット、首から白絹のマフラーを垂らしている。しかし、少女歌劇の男役のような気障な男装を、さらに奇異な印象で飾り立てるものが他にあった。

 幼い顔の右半分を冷たい輝きで覆い隠す、黄金色の仮面。

 僅かに覗く瞳が、冷厳な眼差しを放っている。血の気の失せた表情で、深紅の唇が微かな溜息をこぼす。大きく突きだした腕から緊張が抜け、だらりと車椅子の脇へと垂れ下がった。それと同時、何かが床に転がり落ちる。彰はそれが何なのかを理解した瞬間、少女の──香椎由香の能力がどれほどに圧倒的なのかを、改めて強く認識した。
 列車が再び大きな横揺れに見舞われる。バランスを崩すでもなく、由香は傲然と通路の真ん中に位置を構えていた。その足下に投げ出されたものだけが、間の抜けたからからという音を引き連れて彰の方へと転がってくる。
「……どんなに人を殺しても──私は、死にたくないのです」
 僅かに開いた唇から、小さな言葉が紡ぎ出される。
「わがままかもしれない、ろくでもない人殺しの戯言かもしれない……それでも、生きていかなければいけない理由はあるのです」
「それはそうだろうな」
 何とはなしに答え、時折襲い来る揺れを警戒しながらも通路に立つ。再び拳銃を構えた瞬間、それまで彰の体を縛り付けていた恐怖が嘘のようにかき消えた。信頼を寄せていた鉄の塊が、ここまで自分に安定を与えてくれることに驚きを覚える。物に愛着を覚えることはない方だと自覚していたが、もし生きて帰れたら丁寧に手入れしてやるぐらいの恩は感じた。
 もしも──生きて帰れたら。
 そんな仮定には、どうせ意味などないのだろうが。
 靴先に固い何かが当たる。視線を落とすこともなく、彰はそれの正体が理解できていた。
「私も、罪の償いなどを求めてはいない。そうしたところで娘が生き返るわけでも、ましてや私の心が晴れるわけでもないしな」
 大きく足を開き、体勢を固定する。死ぬことへの恐怖は当然あったし、何より死ぬことを求めてこんな場所まで足を向けたわけではなかった。どんなことがあっても、香椎由香だけは殺すという決意が自分をここまで歩かせたのだ。ならば、その目的だけは達成しなければならない。鋭く敵を貫く弾丸となって、唯一の意味を──自らが敵と定めた少女を殺すという、シンプルな意味を手に入れる。
 そうしなければ、今まで生きながらえてきた意味すら失ってしまうから。
「だから……抗いたければ、抗え。私の弾丸が備えた殺意は、おまえの腕より遙かに長い──おまえの意志より遙かに速い」
 言い聞かせる言葉を真実にすり替えることは、実のところそう難しくはない。困難だと思われているのは、最後の瞬間まで自分すらをも騙し通す意志の力を持つことだ。
 彰は、これまでの人生で幾度となく自分を騙してきた。
 娘が《覚醒キャリー》になったときも──そして香椎由香に殺されたと知ったときですら、彼は自分を騙し通すことができた。涙を流さずに、悲しみに溺れずに生きてきた。
 今更、その殺意を曲げることなどできはしない。
「止められるものなら止めてみろ」
 彰の足下に転がるもの。
 食い止められた、殺意の象徴──吐き出された弾丸。
 そんなものだけが自分の武器ではないのだから。
「止めて──見せるのです」
 由香が呟き、白い手袋に隠された掌を彰へとかざす。
 生き残るための意志が衝突する。時間と空間が圧縮される、異様な熱気が車内に渦巻く。
「おまえの、その力で……」
 構える拳銃と、
 大きく振り上げられた由香の腕と、
 そして二人が編み上げる底のない殺意が、
 衝突を始めている。

「全ての物質から、ある一つの意味を盗み出す力で──《黄金仮面》の力で、この弾丸を止められるものなら止めてみろ!」

 絶叫と同時、銃口が大きく上へと跳ね上がった。乾いた音が響き、撃ち出された弾丸は真っ直ぐ由香へと向けて駆けていく。それらの行方も確かめず、彰はその場から走り出していた。少しでも由香から離れるために、車両の後方を目指す。
 視界の端で、怪鳥の如くにひるがえされた黒のインバネスが弾丸を包み込み、呆気なくそれらを床へと落とすのが見えた。直進するという意味を盗まれたそれらの物体は、もはや彰の殺意を届けてはくれない。最初から届くとも思っていなかった。《黄金仮面》の能力に触れたあらゆる攻撃は、間違いなくその効力を無効化されてしまう。少なくとも由香は、視界の中に入る全ての攻撃に対応できるだろう。
(対象の視界に入らない攻撃というものは、通常ではあり得ない)
 敵意は常に相手を振り向かせる。
 困難な手法。凄まじく遠い到達点。そこに目がけて、的確に弾丸を撃ち込まなければならない。彰の中にいる攻撃的な人格が、急激な計算を開始した。どこに銃口を向けるのか、由香の動きをどの程度まで予測すればいいのか──現実を数値に置き換え、最適の公式に当てはめていく。そうやって導き出された答えを、そのまま現実へと映し込むのは不可能だろう。人間の思考と自然界の間には、それほどの大きな隔たりがある。その隔たりを乗り越えることは、人間の身には許されないことだ。彰に許されているのは、ほんの少し、自然に融通を利かせてもらうことだけだった。
(それ以上の自由は、必要ない)
 現実を踏破する力を与えられ、それでも尚正気を保っていられると思うほど、彰は自分の自制心に期待していなかった。そのまま狂ってしまうことを受け入れるほどの勇気もない。
 だから、彼は銃を手にして駆けている。
 目指すのは、ほんの小さな抜け道。
 針の穴を通すような慎重さだけが、彼に残された唯一の武器だった。
「……!?」
 由香の腕が大きく車輪を回転させる。瞬間、車椅子が凄まじい速度で視界から消え去った。次いで、彰の眼前に突き出されたのは純白の手袋──頭で判断するより先に、体が勝手な反応を返す。大きく背を反らし、ブリッジするような姿勢で掌をかわすと、彰は強く地を蹴って、反動で後ろへと飛んだ。それを追いかけるように、由香の操る車椅子が高速で走り出す。あり得ない速度にあり得ない挙動。自然界に進むべき道を切り開く、幼い少女に与えられた異能の力──

「──摩擦を“盗んだ”のか!」

 叫び、狙いを定めずに銃を乱射する。接近されることだけは避けなければならなかった。彰が相対しているのは、その気になれば容易く人を絶命させられる力の持ち主なのだ。そんな手合いを目の前に控えて、まともに戦うのは馬鹿げている。あまりにもリスクが高すぎた。そんな行為を敢えて選択するほど、彰の頭は鈍っていない。
(戦う必要はない……)
 勘違いしてはいけない。
 こんなところまでわざわざ足を運んだのは、なにも由香と真正面からぶつかり合うためではない。裏をかいて、汚い手段を幾らでも使って、そして彼女の命を奪い去ることだけが目的だ。
 四角四面に立ち向かう必要はないのだ。彰の手には、まだ切れる札が残されている──あとは、それらを最高のタイミングで場に出すだけなのだから。
 追撃から逃れために吐き出された弾丸は、全て《黄金仮面》の手に絡め取られて勢いを失い、少女の足下へと転がった。防御のために一瞬止まった少女の脇をすり抜けて、今度は車両の前方へと走り出す。
「逃がさない──のです!」
 伸ばされた手がスーツの端を掠めた。恐怖が走り、一瞬にして体温が下がるのを自覚する。それでも尚、彰は立ち止まらない。不意に生み出された時間の空白を縫って、ただひたすらに足を投げ出す。靴の裏から伝わる感触が膝に伝わり、次いで背筋のあたりで鈍痛に変わった。もとより体力がある方ではない。年齢を経てしまった自分が、長時間激しい運動をすればどうなるか、まさか予測していないわけでもなかった。
(あと、少しだ……!) 
 由香が、ありのままの現実を見失う、その一瞬まであと僅か。
 その瞬間まで生き残ることができれば、確実に弾丸を撃ち込むことができる。
 再び列車が大きな横揺れに見舞われた。左右に振られる視界に戸惑いながらも、彰は隣の車両へと繋がる扉へと突進した。その反動で体を反転させ、背後へと振り向く。揺れでバランスを崩したのか、由香は先程から位置を変えてはいなかった。
「……都合が良い、ということだ」
 呟き、目を細める。差し向けた銃口は、真っ直ぐ由香の体を捉えて離さない。少女も何かを察知したのか、その場で動きを止めてこちらへと探るような視線を送ってきていた。
(これで……殺せるのか?)
 その確信が心を通り抜ける。
 意志を無視して、貫こうとする。
 振るわなければならないのは、最大級の自制心だと感じた。
(私は──弾丸だ)
 撃ち込み、動きを封じ、そして止めを刺す。行動としてはひどくシンプルで、悩む必要などどこにもない。あとはただ、それを実践できるか否かというだけの問題になる。
 どんなに複雑な問題でも、解は必ず用意されている。それこそが数学者の慢心だ。解が用意されているからといって、誰しもがそこに辿り着けるわけではない。目の前の答えを見逃すことなどざらにある。だからこそ、解が求まるその瞬間まで、数学者は決して隙を見せないのだ。
 どこまでもシンプルに。
 たった一つの目的のために。
 どんなに複雑な公式も、結局はそうやって紐解かれていくものだから。
「だから……次の弾丸は、確実におまえを貫く」
 冷えていく意識を持て余すように、低く小さい呟きをこぼす。
「……そんなこと、やってみなければわからないのです」
「いや。確実にそうなる。何故なら、今おまえは現実を見失っているからだ」
 こちらの言った意味を捉えかねたのか、由香は僅かに首を傾げた。その動作には構わず、彰は淡々と言葉を続けていく。
「弾倉には、もう一発しか弾は残っていない。これでおまえを仕留められなければ、間合いを詰められて私は死ぬ」
「……関係、ないのです──そんなことは」
 きぃ、と軋んだ音が、間の抜けた空気の中に拡散していく。
 由香の手が、僅かに車椅子を押し進めた。
「私の《黄金仮面》は、あらゆる意味を盗み出す──あなたの攻撃は、決して私には届かないのです」
「……いや、無関係ではないな。やはり、おまえは現実を見失っているのだから」
 言葉が引き金を引く。
 由香の車椅子が跳躍した。向かってくる少女に目がけ、彰の放った弾丸が直進する。
「《黄金仮面》ッ!」
 叫ばれた音声が意味を持ち、高速度で迫る弾丸を絡め取る。何の躊躇も見せず、少女は車椅子の勢いを増加させた。鋭い視線が彰を貫く。背筋に大量の冷や汗が浮き出た。黙ってその場から逃げ出してしまいたいという欲求を必死で抑え、彰は引き金にかけた指へと意識の網を投げかけた。
 もう一度。
 もう一度だけ強く──引き金を、引く。

「《さまよえる──》!」

 一斉に炸裂する音の群れ。耳をつんざく空気の流れ。
 視界の中で、全ての物質がその動きを停滞させる。自分がこの場を支配する神であるかのような錯覚を覚え、彰は唇の端を器用に歪めて笑みを浮かべた。 
 現実が、予測した通りの結果を見せていく。正答を探り当てたその喜悦が、彰の精神をひどく高揚させた。紡ぎ出す言葉が減速しているのを確かに感じながら──それでも、最後まで続ける。
 それが、何の意味もないことを知っていながら。
 意味がないことにこそ、真実は隠されていると知っているから。

 由香の体が震えた。
 全身を──背後から襲う銃弾に貫かれて。
 鮮血が、視界を紅く染め上げる。

「《──蒼い、弾丸》」

 空の弾倉。
 しかし、弾丸そのものが失われたわけではない。何の結果も期待せずに攻撃していたわけではないのだ。
 自らの能力に、
 弾丸に任意の推進力を加えることのできる能力に、
 期待していたのだから。
「この私の《さまよえる蒼い弾丸》は、どんな障害もくぐり抜ける」
 転げ落ちた弾丸から目を逸らし、由香が無防備な背中を晒したその瞬間に、彰は全てが有利に展開していると確信していた。望んだ答えが提示され、そして新たな問題が提示される。

「ま、だ──まだ、なのです……!!」

 流れ出る鮮血に体を染めて、それでも立ち上がる少女に視線を向けて。

(止めは──どうする?)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 恐ろしい勢いで鮮血が体外へと溢れ出していく。全身を赤く染めたそれらは、体を伝い落ちて足下に溜まっていった。車椅子のタイヤを握る掌から急速に力が抜けていく。まるで血液とともに体力までが流れ出していくようだった。
(痛い……っ!)
 油断していなかったといえば嘘になる。男の能力は、この列車を顕現させることだという思い込みがあったのだ。しかし──現実は凄まじい痛みを伴って、自身へと叩き付けられた。相応の報いだと思い込むことすら困難になるほどの激痛。体が震え、呼吸が荒れる。一瞬前の記憶すらおぼつかない。何があったのか、迅速に理解することだけが求められているそのときに、由香は僅か二、三秒前の出来事を想起することすらできなくなっていた。
 舌打ちし、次いで軽く頭を振る。全力で叫び出したい衝動を、さらに別の衝動で抑え込んだ。衝動とはつまり、意志の力だ。正反対のベクトルを持つ意志の力さえ持っていれば、それを自ら封じることはそう難しくない。
(弾丸、が……)
 跳ねた。実際にそうなのかはわからないが、少なくとも視界の隅に捉えた弾丸は、本当に跳ねるような勢いでこちらへと向かってきた。完璧に推進力を失い、転がり落ちたはずのそれらに、全く異質の力が加えられた。
(《さまよえる蒼い弾丸》……銃弾を、自由に操る力……)
 任意に推進力を発生させ、目標へと“発射”する。亜希子や由香のように、小細工をするには向いていない。
(そして、それだけ防ぎにくいのです……)
 単純に進み、押し潰す──そういう意味では、恵一の《仮借ナキチカラ》にも似た能力だと言える。目的がシンプルに絞り込まれているために、それはかえって防御が難しい。殺意を届けるには最も適した力だろう。
(それでも……諦める、わけには、いかない──のです!)
 手を握り、そして開く。五指の一本一本を開くのにも全力を費やすといった風情で、由香はその行為を繰り返した。筋肉がぴくりとでも動くたび、瞬時に意識を奪っていきかねないほどの痛みが全身を駆け巡る。それでも、由香は揺らぐ視界を無理矢理に現実へと引き戻し、逃避しようとする意識を繋ぎ止めた。そうして得をすることなど何もない。おとなしく死んでしまった方が楽だということは、この世界に生きる者なら誰でも知っている。
 人間は、救われないとわかっている絶望には立ち向かえない。
 叶わないとわかっている願いには何も期待しない。
 この世界を覆うのは、つまりはそういったものの群れだった。あまりにも深い絶望と、直視するには辛すぎる儚い願いと。自ら命を絶つ者も多い──そして同時に、そんな世界であって尚、最後の瞬間まで生き抜こうとする者もまた多い。由香は明らかに自分が後者なのだと自覚していた。どんなに浅ましくとも、どんなに虚しく悲しい抵抗だとしても、生き抜くことには価値があると信じている。生き抜いていくことでしか見えない意味があると信じている。
 辛すぎる生は、どんな美辞麗句でも正当化はできないけれど。
「だからこそ……どんな言葉でも、否定は──できないのです!」 
 唇の端をひきつらせ、半ばやけくその笑顔を作る。こうしたら男が嫌がるだろうという、その程度の理由で浮かべられた笑みだった。案の定男はひどく不快そうな顔になる。沈黙が友だとでも言うように口元を引き結び、静かな動作でこちらへと銃口を突きつけた。もっとも、弾倉は空なのだから、実際に銃口を向ける意味はなかっただろう。恐らくは、狙いが少しだけ正確になるとか、その程度の役割しか持たない動作に違いなかった。
「……おまえの能力は──私には、届かない」
 淡々と紡がれる言葉。
 こちらを圧倒する、質量すら備えていそうな空気の振動。
「慢心するわけではないが……何故おまえが絶望しないのか、私には理解できない」
 ほんの一瞬──男が笑ったように見えた。それは恐らく気のせいだったのだろうが、気に掛かることは否めない。笑う理由が掴めない。そもそも誰かの行動に理由を見つけられた試しなど皆無ではあったが。
 圧力すら感じさせる視線を放ち、男は一度靴の爪先を床へと叩き付けてみせた。かん、という乾燥しきった音が響く。一歩こちらへと近付き、男は論文を発表する講師のような口調で先を続ける。
「おまえ達は──芹沢亜希子も、香椎由香も……どちらもが化け物だと呼ばれる。能力としてはそれほど警戒すべきものでもないのに、だ……それが何故か、おまえ達には理解できないのだろうな」
 どこかで聞いたような言葉だった。
 やはり、こちらが何も言えないでいるうちに、告げる。
「普通の人間ならば……普通の《覚醒者》ならば、死から逃れるために痛みを迎え入れることは……できない。死ぬ気になればどんなことでもできる、というのはまやかしだ。漠然とした死より、痛みはあまりにクリアな恐怖となって襲ってくる。人間には──耐えられるはずがない」
 突きつけられた銃口が、微かに上下に震えた。
 伸びるままに放置された前髪の奥で、瞳が異常な光を宿し始めているのが見える。
「私は、おまえが怖いよ」
 男は──恐怖していた。
「何発の銃弾がおまえの体を貫いたと思っている? どれほどの血が流れ出たと思っている? おまえが今どれぐらい死に近い場所にいるのか、理解しているのか?」
 早口でそこまで言い切ると、男はさらにその場から一歩踏み出した。朦朧とする意識の中で、それでも由香は男の姿をしっかりと見据える。
「おまえ達は、痛みを恐れない。死を乗り越えるためなら、受け入れすらする。そんな存在を、化け物と呼ばずになんと呼ぶ?」
「……私に聞かれても、知ったことじゃないのです」
 赤黒く染まったインバネスを跳ね上げ、大きく腕を広げる。ただ確かなのは、今ここで殺されるわけにはいかないということだった。
 手袋に包まれた掌をかざす。力を編み上げ、思い浮かべるのは男を殺すための手段だった。命が持つ意味を盗み出し、男の生きてきた道に閉幕を告げさせる。それだけのことだ。
 男の能力は防げない。
 目的をシンプルに絞り込まれた異能の力は、どんな対策を練ったところでそれごと叩き潰してくるだろう。
 もしも有効な自衛策があるとしたら、それは自らもまた目的を単純化するということに他ならない。由香に防げないというのならば、男もまた同じなのだから。あとはただ、どれだけ迷いなく実行するかにかかっている。
 死にたくない。そう願っているわけではない。
 生き抜いてやるという誓いだけが、由香に痛みを抑え込む精神力を与えてくれる。
「……絶対に、諦めてなんかやらないのです!」
 車輪を回転させる。周囲の風景が急速に歪み、そしてまた急速に停止した。男の指は既に引き金を数度引いている。音もなく迫る弾丸が肩を貫き、次いで下腹のあたりに突き刺さった。傷口に直接熱湯を注ぎ込まれたような激痛に、我知らず泣き喚いている。喉元にせり上がる血を吐きかけて、由香は大きく腕を伸ばした。ほんの少し触れるだけでいい。それが目的なのだから──それだけが達成されればいいのだから。
 急激に浪費されていく体力が、限界を訴え始めている。ここで踏み止まるわけにはいかなかった。腕を伸ばし、男に触れるために体を前傾させる。銃弾が幾度となく叩き付けられ、肉が裂けようとも。目的に達するまでは、死ぬわけにはいかない──既に理屈にすらなっていない理屈を頭の中で玩び、由香は男の服の裾に指を伸ばした。
 掴んだ。確信する。
 能力を導き出そうと決意した、その刹那。
「……!?」
 指が──縮んだ。
 錯覚ではない。確かに、指が縮んでいる。
「ようやく効果が現れたか」
 見上げる男の背は高い。先刻よりも更に高い位置から見下ろす視線に、由香は重苦しい溜息を吐いた。
(こ、んな……)
 男の能力は、弾丸を自在に操ること。
 それならば──この列車を顕現させた《覚醒者》は、どんな能力を持っているのか? ただ、暗黒の中に列車を走らせるだけではなかったというのか?
(このままだと──届かないのです……!!)
 届かない。
 生き抜くために伸ばした手が、届かない。
 縮んでいく。男の背は伸びたわけではなかった。ただ、自分がゆっくりと縮んでいくから、そういうようにも見えたのだ。

「《人生という名のSL》……この列車は、人生をトレースして……乗客の肉体を、過去へと引き戻していくぞ」
 
 こぼれ落ちる言葉に、

「私には……関係ないのです!」

 由香はそれでも──諦めを、受け入れない。
 溢れこぼれる血液を拭い去り、今自分を蝕んでいる変化へと注意を向ける。
 体が縮んでいる。肥大化する違和感とは反比例するように、視界は段々と低くなっていった。一瞬視界の隅に映った自らの手は、驚くほどに小さい。男の言うとおり、肉体が過去へと退行している。それと同時に、しっかりと支えていたはずの意識が急激に混濁を始めた。幼くなればなった分だけ、体力が低下していくためだろう。血液の絶対量が不足する。不規則だった呼吸がさらに乱れる。懸命に抑え込んでいた恐怖が吹き出しそうになるのを自覚する。
 諦めてしまえば。
 そうすれば、少なくとも楽にはなれる。
 その誘惑はあまりにも甘美で、抗う意味などないようにも思えた。
(だけど……)
 無意味だというならば、こんな辛い世界で生きていくことこそが無意味だろう。明日へ繋がる希望もない。願いは叶わず、望みはほぼ確実に裏切られ、未来に向けた予測のほとんどは絶望に押し包まれている。それでも何とか生き続けているのは、特別な理由があってのことではない。由香はただ、死ぬのが怖いだけだ。何もかもが闇の中に閉ざされてしまうというその事実が、あまりにも受け容れがたいというだけのこと。生きるか死ぬかは、消去法で決めたことである。
 不安と絶望しかない世界で生きていくことと、閉ざされた完全な停止を受け容れることと。
 どちらを選ぶかと問われれば、答えは決まっている。
「諦め、ない──の、です!」
 そう言った声は、とても自分の発した声だとは思えなかった。まるきり同じ台詞を、見知らぬ子供に真似されたような錯覚を覚える。口調も妙に舌足らずだ──普段から多少その気があったとしても、より強くそう感じてしまう。思考は千々に混乱して、どうしても一つにまとまってくれない。
(幼児化が、進んでいるから……)
 普段なら耐えられるはずの痛みが、意識へと鋭い針を突き立てる。手を動かそうとしても、意志がうまく伝わらなかった。かろうじて指が小さな反応を返し、それで体力切れだとでもいうように動きを止めてしまう。全身が総動員で戦うことを拒否しているようだった。そうして、幼く弱くなっていく自分とは正反対に、男は若さと体力を取り戻しつつある。
 狙いを定められた銃口が、ほんの少しだけ上下に揺れた。男が動揺しているのか、それともただ疲れただけか。どちらにしろ、由香にとってあまり有益な情報というわけでもない──もちろん、そこから活路が見いだせるというのなら話は別だが。おそらくたいした理由はないだろう。ならば、そんなものに興味を向けていられるほどの余裕はなかった。
「……もう、死んでくれ」
 まるで哀願するような呟きと同時に、男は拳銃を構え直した。さきほどまで揺れていた銃口が、はっきりと由香の眉間を捉えている。弾丸が今どこに落ちているかは知らないが、わかったところで男の攻撃が防げるというものでもない。
 《さまよえる蒼い弾丸》と、肉体を過去へと退行させる《人生という名のSL》と、そのどちらもが恐ろしく強力な能力だ。向こうはこちらのことを化け物と言ったが、全く同じ言葉を返してやりたい。そうすることで相手が嫌がるだろうという、その程度の理由から、由香は本気で言い返してやろうとすら考えた。実行に移さなかったのは、ただ単に体力が不足していたからだ。唇を震わせることにすら、異常なまでの疲労を感じる。相対する男は、静かに拳銃を構えたまま、まるで不動の柱のようにしてその場に立ち尽くしていた。
(本当に……どちらが化け物だか、わからないのです……!)
 これほどまでの殺意を晒せるような者は──もう、人間とは呼べないはずだ。
「……《さまよえる、蒼い弾丸》!!」
 車内に響く叫びに引きずられるようにして、由香は血でぬめる車輪を大きく後方へと転がした。距離を取り、眼前を掠める弾丸の軌道から身を引く。
 男はこちらの能力を知っていた──それならば、確実に接近を警戒してくるだろう。近付けば近付くほどに、弾丸の壁も厚くなる。幼い体のままでは、これ以上の傷は命取りになる。既に手は震え、意識には幾重にも靄がかかっていた。生きて再びホームに戻るためには、近付いて触れる以外の手段を講じなければならない。
(近付けないなら──)
 男から離れて、対抗するための策を用いる。しかもそれは、できるだけ迅速に行わなければならない。“若返り”がどこまで進行するのかはわからないが、これ以上幼くなれば間違いなく男に対抗することができなくなる。そうでなくとも、嬰児にまで戻されるようなことがあれば、それはそのまま死を意味するのだ。
 由香に、躊躇っている暇はない。
 生き残るために──

「《黄金──》」

 ──目の前の男を、殺すしかない。

「《──仮面》!」
 叫ぶ。それ自体に意味はなくとも、折れそうになる意志を支えるにはそれしかなかった。残された手段が一つしかないのならば、どんなに愚かしくとも由香はそれを選ぶ。その後に待ち受ける結果が最悪のものだろうと、甘んじて受け容れる覚悟がある。奪い、奪われる世界の中で生きていくというのは、つまりそういうことだ。
 背後から迫る風を切る音。殺人への鉄の意志が、明確な死を運んで襲い来る。ほんの数秒もかからずに肉を貫き、骨を砕く弾丸──容易に防ぐことのできない、単純極まる直線の攻撃。
(防ぐことはできなくとも……!)
 殺意そのものを、盗み出すことはできる。そしてそれこそが、由香が持つ能力の真髄だと言ってよかった。
 視界に捉えたわけではない。気配などという、漠然としすぎるものに頼ったわけではなかった。それはせいぜい山勘程度の代物だ。直観が閃くほど、由香は能力を使っての殺し合いに慣れていない。
 そしてその山勘は当たった。意識もしない角度から降り注ぐ銃弾の雨を、水飴のように伸び上がった座席シートが包み込む。“硬さ”を奪われた座席の中で、銃弾が激しく暴れ回った。
「一度でも──無効化できれば……!」
「二度目を実行に移すだけだ」
 投げやりな言葉を返し、男は冷厳とした動作で引き金を引いた。足下に突き刺さっていた弾丸が、正確に同じ軌道を通って帰ってくる。ビデオで巻き戻しをかけたような光景に目眩を覚えた。小さな金属の塊は、特に余韻らしい余韻も残さないまま、あっさりと右腕の肉に食い込む。焼けるような痛みが拡散し、全身を大きく痙攣させた。内臓が破裂するような衝撃が弾ける。吹き飛ばされ、視界が空転した。
 そこまでは。
 そこまでは、由香が望んだとおりの結果だった。
 暗転していく意識の中で、馬鹿げた確信を抱く。男の言うとおり──自分達は異常だ。死ぬことを恐れるあまり、どんな激痛だろうと甘受する強さを手に入れてしまった。由香が下した決断もまた、その強さに根差したものだ。世界が崩壊する以前ならば到底あり得なかった決断だ。
 決意した。
 決断した。
 そして実行にすら移した。
 ならば後からついて来るのは、ただの結果だ。現実は目論み通りに動いたのだから、それによって生じる結果もまた適切なものが顕現する。それは希望ではなく、ただの予測だ。そんなことを考えながら、由香は大きく黒のインバネスを翻す。
「《黄金仮面──返還》」
 紡がれた言葉と同時、幾つもの弾丸を閉じ込めていた座席が急激に硬さを取り戻した。溜め込まれていた力が解放され、弾丸は的確に由香の体を貫いていく。男の顔が驚愕に引きつった。何が起きているのか理解できないと言いたげな表情。それが見られただけでも、こんな馬鹿な真似をした甲斐があった──心の底からそう思う。そのためだけに能力を解除したわけでもないが。
 走る衝撃。それが逃げるその一瞬を見逃すことなく、血に染まった自らの胸へと掌を押しつける。

「今から──あなたのもとに、辿り着くのです」

 幼い声音。車椅子の上から覗く視界は恐ろしく低い。疲れ切った肺が異常な収縮を繰り返し、血液を必死で脳へと運ぼうとしていた。だがそれは無駄な努力だろう。血管の中にはもうたいした量の血は残っていない。全て古びた列車の床にぶちまけられてしまった。それでも肺は活動を止めない。そしてその事実は由香を打ち振るわせた。こんな状態になっても止まらない──心臓も肺も、前へ進もうとしかしない無様な心も。それが止まってしまえば、二度と動き出せないとわかっている。
 時間が停滞し、次いで全ての光景と感触を吹き飛ばした。一瞬で過去へと追いやられていく周囲の風景を見るともなしに見遣り、由香はしっかりと瞼を押し開いた。今ここで瞑目することは、つまり迅速な死を意味する。この危機さえ乗り切れば、傷を癒す手段など幾らでもあった。だからこそ傷を受け容れたのだ。
 自らの体を貫く弾丸。
 そしてそれに引きずられ、宙を舞う自分の体。
「“重さ”を──盗み出したのか! 香椎由香!!」
 男が叫ぶ。もう、拳銃は役に立たない──それとほとんど同じ速度で、由香は男へと接近していた。
「……油断、大敵なのです」
 ほんの小さな微笑みを浮かべ、
「……いや、ダイヤは定刻通りだ──問題ない」
 さらに縮む体は、虚しく床へと叩き付けられた。
(……抵抗、できた……けど)
 だけどもう──それでいいのかもしれない。
 ふと、そんな考えが脳裏を掠める。
 負けはしないと思っているだけで勝てるのなら、世の中そんなに楽な話はない。どう足掻いても勝てない相手というのは存在する。由香にとって、この男がたまたまそうであっただけのことなのかもしれない。
「おまえの肉体年齢は、十年ほど引き下げられている──せいぜい四、五歳といったところか。体力も意志力も限界だ」
 冷たい何かがこめかみに押し当てられる。特に推理する必要もなく、それが銃口なのだと知れた。
「私は今のところ、二十代後半といったところだ。体力的には十分におまえを殺せる。もちろん、こんな列車を使わなくともおまえを殺す目算はあったが」
 それは恐らく嘘だろう。薄れていく意識の中、由香はそれだけを確信した。
 男は自分を恐れている。一人では勝てないと思っている。《人生という名のSL》──その能力による助けがあって初めて、男はこちらと同等なのだと思い込んでいる。
(私一人に、《覚醒者》が二人……なら、勝てると──思ってるのです)
 だからどうというわけでもなく、男の鋭い宣告が続いた。
「私の娘は……上條純子は、《覚醒キャリー》となった後、おまえに殺された。覚えているか? 弁解はあるか?」
「……」
 唇を動かしたつもりだった。しかし肝心の言葉が喉の奥に引きこもっている。
「弁解がないのなら……」
 心臓が早鐘を打つ。
 明確すぎる死への予感が、由香の精神を由々しい脅威に晒していた。
「娘の復讐のために、死ね」

「おまえが死ね」

 瞬間。
 男の体がぼろ雑巾のように跳ね飛ばされた。
 衝撃の余波が列車の内壁を強かに打ち据え、無数の細かな亀裂を走らせる。それに対して一片たりとも負い目を感じていないかのように、彼はただ傲然と立ち尽くしていた。薄くぼやける眼差しに捉えても、はっきりとその少年が放つ威圧を見ることができる。八歳かその前後の、成長しきらない少年の体。棒のように細く、伸びきらない身長は中途半端なところで止まっている。姿勢そのものが悪いわけではないのに、どことなくだらり、くにゃりとした印象が否めない。
 最強の《覚醒者》。
 全てを壊し、進み、押し潰すためだけの能力を備えた、濃緑のコートで身を包む少年。
「……目が覚めて、ドアを開けたらいきなりこんなところに出るとは……つくづく“都合が良い”と思うよ、俺も」
 構えた金属バットは、男の腰の辺りへと叩き付けた姿勢のままで固定され。
 少年へと若返りながら、変わることのないやぶにらみの視線を虚空へと投げ放ち。

「恵一……さんっ!」

「待たせたな」

 黒川恵一が、軽薄な笑顔で立ち尽くす。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「……一つ歳を遡るごとに、この列車は事実上“停車”し──外界へと繋がる。まさかその瞬間を狙われるとは思わなかったわ」
 ぶっきらぼうに投げ出された声が、狭苦しい室内を満たす。震える窓硝子から、列車の走る轟々とい音が飛び込んできていた。足下は揺らぎ、一時たりとも落ち着いて立っていられない。それは運転手である彼──神崎弘文にとっても同じことだ。壁から突き出た計器に掴まり、かろうじてバランスを保っている。自分の能力で若返っていなければ、床に倒れ込んでいたかもしれない。かつてこの列車を職業として運転していた頃は意識しなかったが、機関車の振動というのは思いの外激しいものだ。
(しっかし、ほんと……洒落にならねぇわな)
 首筋に突きつけられた、冷たい刃。短いメスが、室内灯の光を受けて鈍く輝く。いつの間にそこにあったのか、正直弘文にすら特定はできなかった。ただ、まるでその状態が自然であるとでもいうように、メスは僅かに震えることもなく構えられている。
 ぎこちない動作で振り向き、背後に立つ少女を視界に捉える。こちらの動作に注意を払うでもなく、少女は冷淡な瞳でこちらを見返してきた。
「《C.O.T.ディーパーズ》──芹沢亜希子さん、かい?」
「大当たり。賞品は特にないけどね」
 黒く長い髪を背中に垂らして、少女がつまらなそうに言い放つ。年の頃は十四、五か、どこか醒めた表情でこちらを見上げている。だぶついた白衣がそれでも滑稽にならないのは、彼女が持つ独特の雰囲気のためだろう。妥協のない姿勢で、真っ直ぐ一本の柱のように立っている。投げ出される視線は涼やかで、残酷な世界の風にも微動だにしない強さが窺えた。自分が他人と違うことを知っている──そしてそれを誇るでも、卑下するでもなく、ただありのままに受け容れている。
 切れ長の瞳と、整った鼻梁。唇は小さく開かれ、いかにも溜息をつくのに適していそうだと感じさせた。痩せぎすとも言える体を長い両足で支え、ほのかに浮かぶ笑顔はどこまでも静かな殺意を湛えている。
(なるほど……こりゃあ、まさしく化け物だ)
 どこか上條にも似た、自分の持つ役割を極端に簡略化するような気配。自分のように、心の何処かで生きることに執着してしまっている人間とは違う。目的を達するためなら、命すら簡単に投げ出してしまうような──そんな危うさが、冷厳とした眼差しに浮かんでいる。
「恵一君の《仮借ナキチカラ》が作用している間に、私もこの列車内に続くドアを開いた。どうも、そういう道理みたいね──彼が後ろの方に歩いていくのが見えたし」
 ぽつりと呟き、小首を傾げる。向けられる幼い笑顔に、弘文は軽く肩を竦めてみせた。どちらにしろ、ここまで接近されれば勝ち目はない。それならば、できるのはせいぜい軽口を叩くことぐらいだろう。
「いわゆる王手ってやつか……どうする? 俺を殺すか?」
「それでこの列車が止まるの?」
「いいや。運転手を殺せば列車は暴走する。いつの時代もそういうモンさ」
「でしょうね」
 同意の頷きを返し、亜希子はあっさりとメスを引いた。壁に寄りかかり、深い諦観を含んだ溜息を吐く。何かとてつもなく大切なものを、少しずつ失っているかのような表情だと弘文は思った。実際そんな表情を見たことはないので、完全に当てずっぽうだが。
 どこか胡乱な眼差しを投げ放ち、亜希子はもう一度溜息を吐いた。小さく息が零れ、淀んだ空気を流動させる。列車が減速し、加速する──さらに一つ、年齢が遡った。少女の外見に大きな変化はない。だからどうというわけでもなく、亜希子はただ半眼でこちらを見上げてきている。表情にはありありと同情の念が浮かんでいた。さらに穿った見方をすれば、哀れみも汲み取ることができたかもしれない。
 三度目の溜息を吐いて、ぽつり、と少女は言葉を零す。
「……そろそろかしらね。何かに掴まってないと危ないわよ?」
 無感動な調子で言葉を終えると、亜希子は運転席にしっかりと両腕を絡ませた。恐らく本人は真剣なのだろうが、その動作にはどこか軽薄な雰囲気が付きまとっている。
「何してるんだ?」
 こみ上げる笑いを喉元で抑え込み、弘文は奇妙な体勢の少女に問いかける。
 対して、亜希子は淡々とした眼差しだけを返してきた。考える必要もないだろうと、その視線が露骨すぎるほどに語っている。既にメスは白衣の中に仕舞い込んであった。弘文を全く脅威だとは感じていないようだ。
(ま、確かに勝ち目なんかねぇけどな)
 髪を掻きつつ、認める。弘文の能力は、列車内に乗り合わせた者全ての年齢を退行させることだ。彼自身の意志で運転を止めない限り、その効果は永続する。外部からの侵入者が弘文を殺したとしても、それだけで列車が止まるわけではない。運転手を失った列車は暴走し、乗客達の年齢をゼロに戻す。現に、一度彼が運転席を離れたときには、凄まじい速度で“若返り”が進行したのだ。
 だが、それは決して自身の強さを保証するようなものではない。生き残るために《覚醒》したはずのその力は、しかし自らが生き残るためには何の役にも立たない代物なのだ。今、目の前で椅子にしがみついている芹沢亜希子にすら勝ち目はない。彼女が本気でこちらを殺そうとしていたならば、弘文はその存在に気付くことすらなく死んでいただろう。
「……役立たずだよな、ほんとによ」
 深い疲労を滲ませた声音で呟く。乾いた空気の中に放り出された言葉は、自分で思っていたよりも遙かに力がなかった。手すりに掴まり、激しい振動を繰り返す窓硝子へと背中を預ける。
「役立つことに意味があるのかしら?」
「……そう言うなって。この歳になって落ち込んでんだからよ」
「この歳になって……っていうのは、私に対しても言えるわね」
「そりゃあそうだわな」
 陰気な調子で応じる亜希子を見るともなしに見遣り、弘文はどことなく腑に落ちない心地で身じろぎした。何か意味があって陰気なのかと詮索したくなる。少なくとも、この状況で陽気になれという方が無理な注文ではあったろうが。現時点でより陰気になるべきなのは自分の方だという確信から、人差し指を立て、尋ねる。
「……なんか嫌なことでもあったのか?」
「これからあるのよ。絶対にね」
 深く──恐ろしい深度まで潜った溜息と、やりきれなさを象徴するような溜息と。
 それらが構成され、そして拡散する。
 手に取ることの出来る現実はあまりに少なかった。景色の流れが停滞し、耳に入る声が歪み始める。それがおかしなことだとは思わなかった。芽生えていた疑問が一度に花開き、結実し、そして枯れ果てる。つまりはそういうことなのだろう。人によっては、そういった感情の動作こそを評して諦めと言うのかもしれない。
 目の前で、亜希子が椅子にしがみつき、振り解かれないように必死で耐えているのも。掌から力が抜け、手すりを離してしまったことも。急激に視界が空転し、額を強かさに計器類へと打ち付けてしまったことも。
 全てはつまり、ただ漠然と起きた現実だ。
 激痛を激痛と意識できないままに、弘文はそんなことを考えていた。
 きぃん、という空気を固化させ擦り合わせたような音が響き、

 そしてそれが轟音と化すのに、一秒の時間も必要とはしなかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 香椎由香は、黒川恵一という人間を信頼していた。
 ひどく無愛想ではあるが、それは積極的に人と接するのが苦手というだけのことだ。こちらから話しかければ、彼はそれなりの応対をしてくれる。そのときに彼が浮かべる面映ゆいような笑顔は、由香のお気に入りだった。
 恵一は大抵暇そうな顔で、おさまりの悪い黒髪をくしゃくしゃと掻き回している。やるべきことがないときの彼は、ひどく決まりが悪そうだった。自分がこの場にいるのは間違いなのだと、どこか一歩引いた視線で周囲を見ている。環境に溶け込むことをせず、孤立していることを苦痛とも恥とも感じていないようだった。何をするでもなく、ホームの人間達が集まる輪にも加わらない。たまに階段を利用してジョギングなどをしていたが、それにすらたいした意味があるようには思えなかった。今更体力をつけたところで、その使い道があるわけでもない。《覚醒キャリー》などの外敵に襲われた場合、最も役に立つのは無駄に余る体力などではない──どんな傷を負ってでも相手を殺すのだという、揺るぎのない信念こそが武器になる。由香は体験的にそれを知っていたし、彼女以上に多くの死線をくぐり抜けてきた恵一にとっては自明の理だろう。
 恵一はいつだって何かを見ている。見ているだけで、近付くことはしない。何かを考えている。考えているだけで、実行しない。それらを行動に移さないことに、さしたる理由があるとは思えなかった。彼はただそこにいるだけの男なのだ。深い緑色のコートに身を包み、いつでも隅にうずくまり、何もせずにただそこにいる。ジョギングも、バットの素振りも、暇潰し以上の価値はないとでも言いたげな顔で、ただ黙々とこなす。それだけだ。ろくに食事もとらず、沈黙を色濃く浮かべて待っている。
 そう。
 由香はときどき、恵一は《覚醒キャリー》の訪れを待っているのではないか──と思ってしまうのだ。
 それらしい気配があったと報告されたとき、恵一はほんの少しだけ嬉しそうな顔をする。この退屈な時間から解放されるのだと、そう言いたげな微笑みを浮かべる。極限の地点で命のやり取りをすることが、彼にとって最も大切な時間の一つなのかもしれない。それが良いことかどうか、由香には判断がつかなかった。命を粗末にしているわけではないのだと思う。むしろ彼は、人一倍傷つくことに臆病なのではないかとすら思えた。臆病だから戦わないというのであれば、この世界では生きていけないと──それがわかっているから、彼は《仮借ナキチカラ》を振るうのだろう。たった一本の金属バットで、全ての暴力を踏み潰すように。  
 だから、由香は黒川恵一を信頼しているのだ。
 どんな現実も都合良く乗り越え、誰よりも強く在る《覚醒者》。彼は強く在ろうとしているわけではない。他の多くの《覚醒者》と最も違うのはその点だった。
 恵一は、自分よりも強い人間が数え切れないほどに存在していることを知っている。そしてそれを認め、だからどうというわけでもなく、ただ横暴なまでに自分の在り方を崩さない。どこまでも自分だけの道を進んでいこうとしていく。
 強く在ることに意味はない。
 例えば、ただの一撃で敵を粉砕する強さ。
 その一撃を、相手に知覚すらさせない強さ。
 自らが傷を負うことと引き替えに、絶対確実に敵を絶息させる強さ。
 それらは全て等価だ。
 皆等しく、価値がないといった点で。誰もそのことに気付いてはいないのかもしれない。誰も自分の思索にまで解答を用意してはくれない。誰も自分の導いた解答には満足できない。
 つまるところ、考えたところでどうしようもなく無駄ではあるのだが。
 無駄だとわかった上で命を賭けるのならば──奇跡のような確率で、意味が生まれてくるのかもしれない。
 強さとはつまり、そういうものなのだろう。
「その男の能力で若返っている──わけではなさそうだな。この列車の方が問題か」
 バットを振り下ろした姿勢のまま、恵一は軽薄とも慎重ともとれる声を出した。指で軽く頬を掻き、半眼で由香を見下ろす。
「とりあえず、あの男はおまえに任せるからな」
 言い放ち、幼さを押し隠すような微笑みで再びバットを振り上げる。そこから一本の直線で繋がるようにして、打ち倒された男──上條彰が立ち上がっていた。手に構えた拳銃はだらりと垂れ下がり、引き金にかけられた指からは力が抜け落ちている。額からは鮮血が溢れていた。壁に頭を打ち付けたためだろう、立ち尽くす両足はどこかおぼつかない。
 しかし──それでも尚、見開かれた瞳には透き通った殺意が満ちていた。
「……《仮借ナキチカラ》か。もう少しおまえが来るのが早かったら、今ので死んでいたろうな」
「そうかもな」
 ひどくつまらなそうな口調で同意し、恵一は爪先で床を蹴った。苛ついているというわけでもないのだろう。動作自体に意味があるとも思えない。
 つまり、ただそれだけのこと。
「だが……不意打ちで殺せなかったのだから、もうおまえでは私に勝てない。私の弾丸は、おまえの能力を鋭く貫くぞ」
「……確かに、相性は悪いだろうな」
 呟き、振り上げたバットの先が窓硝子に触れた。かん、と甲高い音が、間の抜けた響きを立てる。
「だけどな、おまえの相手をするのは俺じゃない。由香がおまえを殺すんだ──勘違いするなよ」
「……それでは、おまえは何のために現れた?」
「さてね。由香はもうわかってるみたいだけどな」
 言葉が終わるより早く、上條の視線は由香の上へと引き戻されていた。銃口が跳ね上がり、確かな狙いが定められる。だが、その場にいた誰もが、既に手遅れだということを理解しているようだった。
 大きく振り上げた両腕に力を込めて。由香は、自身の能力を編み上げる。傷口から間断なく伝わる痛みも、今は関係ない。痛いということはつまり、生きているということの証だ。それを喜びにすり替えることに何の疑問もない。
 疑問がないということはつまり、無視しても構わないということだ。
 ほんの少しだけ思い悩む。恵一がこれからしようとしていることを、止めるべきなのではないかと。
(……最善な方法なんか、わからないのです)
 誰も傷つかず誰も傷つけず、それで生きていけるなら確かに最善だろう。だが、そのための選択肢などとうの昔に消失している。
(だから、悩む必要はない……!)
 異なる二つの選択肢があって、そこに初めて悩む余裕が生まれる。
 だが、結局のところ残せる現実など一つしかないのだ。どんなに苦心したところで、選ぶか選ばないかという結果だけが残される。余韻も何もなく、まるで放り出されるようにして。
 残せる結果が一つしかないのだから、いちいち悩む必要すらない。目指すべき一つを選ぶ、それだけでいいのだ。ほんの少しの決意があれば事足りる。人間の一生とは、つまりそうやって組み立てられていくものなのだから。
 だから、力を。
 閉じた思考の中で、求めるものはそれだけだ。
「《黄金仮面──返還》!」
 叫び、これまでに盗み出した全ての“摩擦”を解き放つ。
 目指すべき対象へと──車椅子の、車輪へと向けて。
 ぐぎゅっ、というゴム同士が擦れ合うような音が響き、車輪が一瞬で床へと接着した。上條が異変に気付き、矢継ぎ早に引き金を絞る。
 だが、弾丸が発射されるより早く。
 恵一の体が、跳んでいた。

「今から覚悟を見せてやる」

 不出来な生徒にものを教える教師の口調。
 淡々と紡いだ言葉に、背中を押されるようにして。
 金属バットが硝子を打ち壊し、無数の破片を飛散させる。室内灯の頼りない明かりに照らされ、破片は細かい輝きを散布した。全ては繋がっているとでもいうかのように。暗闇の中へと飛び出す小さな体が、まるで手品のようにしてかき消える。あっさりと──音もなく。
 上條が窓際に駆け寄る。由香は車椅子にしっかりと体を固定し、目を閉じた。神に祈るような心地で、小さく呟く。

「……死んだら──許さないのです!」

 それに答える声も、笑顔もない。
 ただ由香は、今その瞬間に、間違いなく恵一が微笑んだのだと確信していた。
 力の奔流が列車を叩く。豪風が車内に渦巻いた。
 そう。
 全ては繋がっているかのように。
 二人はただ、シンプルな役割を果たすために、それぞれにそれぞれの希望を託した。
 ただそれだけのこと。

「《仮借ナキ──チカラ》ッ!」

 力を伝え、
 金属バットを車輪の間に挟み、
 線路へと楔の如くに打ち込んで、

「……死んだら──洒落じゃ済ませないぜ?」

 そして残される微笑みと同時、
 
「馬……鹿、なぁッ!?」

 列車が──横転する。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 その少年は、間違いなく最強の《覚醒者》だった。誰に問うてもそう答えただろう。真実の形がどんなものであるにしろ、少なくとも上條彰が知り得る情報では、それこそが確かな真実だった。あの《WWW》ですら否定はしなかった──学習院大学跡ホームを統括する男の強さを知る、彼女ですら否定しなかったのだ。
 黒川恵一は、最強の《覚醒者》だということを。
 彼に何か、明確な驚異となるような力があったわけではない。むしろ彼が目覚めた異能の力は、彰達に比べて明らかに劣っていた。金属バットがなければ戦えない──そして当たり前の話として、バットの届く範囲内にしか攻撃の手は伸ばせない。しかも、その能力はひどく効果が曖昧で、本人にすら制御のままならない代物なのだという。
 だがそれでも、彼は多くの人間達から唯一の希望と噂され、また同時に恐れられてもいた。
 無数の《覚醒キャリー》と戦い、そしてこれまでに生き延びてきたという事実が、恵一の力を何よりも強く象徴している。彼の力は、余計な目的に振り回されない。ただ生き延びるためだけに働き、少しでも命を長らえさせるためだけに敵を殺す。
 真っ直ぐに進み、立ち向かい、押し潰すためだけの力。どこまでも我が侭で、傍若無人な暴力の発露。それこそがまさしく黒川恵一の持つ《仮借ナキチカラ》だった。
 敵を殺す。
 そのためだけに恵一が手に入れた、まさしく異能と呼ぶに相応しい力。彰も噂では聞いていた。
 しかし、心のどこかでそれを噂だと侮っていたのかもしれない。
 あまりにも強いその力を、真実だと認められなかった。
 だから今、彰は瓦礫の中にその身を埋めている。否定しようのない、それは事実だった。
 立ちこめる埃は視界を遮り、今自分がどこにいるかすらわからない。少なくとも言えるのは、ここが三石デパートホームの中だということだ。
(まさか……《人生という名のSL》を破壊するとはな)
 車輪に打ち込まれた金属バットは、そのまま仮初めの地面に突き刺さり、列車の疾走を妨げた。線路から外れた列車はあっさりと横転し──能力は、打ち破られたのだ。
(あんな……あんな人間が、いるのか)
 彰には到底認めることができない。彼は生き残ることを最大の目的にしてきた。一見無謀に思えるようなことでも、それは全て生き残れる確率を計算し尽くした結果のことだ。だからこそこれまで生きてこれた。
(だが、あれは……黒川恵一は、違う)
 生き残るのではない。
 あの少年は──生き抜くための力を、備えている。
「お互い……満身創痍か」
 無機質な声を投げかけて。
 幽鬼の如くに立ち尽くし、少年は本来ならばあり得ない方向へとねじ曲がった腕を差し向けた。全身が自身の流した血液で赤く染まっている。車輪の回転に巻き込まれたのか、左腕は肩口でかろうじて繋がっているといった有様だった。傷跡から黄色い脂肪がこぼれている。両足は骨が砕け、肉を割って飛び出していた。
 立っていられるはずがない。人間は強すぎる痛みには耐えられない。血液を失い、骨を砕かれれば、後に待っているのは容赦のない死だけだ。
 その、はずなのに。
「化……け、物ぉぉ!」
 叫ぶ。喉が破れそうになっても、迸る声は止まってくれなかった。髪を振り乱し、痛む四肢を叱咤して、彰は強く両の腕を跳ね上げた。貼り付いたように手から放れない拳銃が、恵一の体に狙いを定める。ただ引き金を引くだけで、何の感動もなく人を殺す武器。何発撃っても当たらない可能性はある。ただの一発で敵を殺せることもある。単純だからこそ、生まれる結果に信用は置けない。それでも彰が敢えて使い続けていることに、さしたる理由などありはしなかった。ただ、便利だと思ったから使っている。自分に目覚めた異能の力は、この黒い拳銃を用いてしか発動させることはできない。
 だから使っている。そこに信用はない──だからこそ、どんな結果でも受け入れることができたのだ。
 世界が滅びてから、幾多の命を奪い続けてきた武器。
 定めた狙いを僅かに逸らすこともなく、彰は瞳を薄く閉じる。視界が狭まり、暗闇の支配する領域が広がった。目に入る情報など、もう必要ではない。どこまでも横暴な力を振るう少年に対抗するには、自らもまたその役割を単純化させるしかないのだから。
 余計なものは何一つ必要ない。
 指先に込めるのは、一握の殺意だけで十分だった。
「今から……おまえを、殺す」
 震える声。
 恐怖を隠す余裕もなく、続ける。
「おまえは……おまえ達は、化け物だ」
「……だから、どうした」
 右手に構えた金属バットを杖代わりにして、恵一が胡乱な声を返す。濁った眼差しは何も映していない。この世界の全てに興味がないのだとでも言うように、少年はひどく曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「勘違いするんじゃねえよ……あんたの相手は、あっちだろ?」
「……」
 バットの先端で指し示すその先に、
「……あなたの相手は、私なのです」
 冷たく響く宣言を引き連れて、香椎由香がそこにいた。
 背後に芹沢亜希子を従えて、少女はその細い体を真っ直ぐ彰に晒している。《黄金仮面》の能力を解除したためだろう、白い水着の上に同色のパーカという服装は、しかしこの場に妙に似合っているような気がしていた。何かが少しずつずれている。恐らくは、何もかもが少しずつずれているのだろう。
 車椅子はところどころがひしゃげている。車輪のフレームは歪み、到底本来の機能を果たすことができるようには見えなかった。その上に座る少女も同様だ。亜希子の能力で繋ぎ直されたのだろう、かろうじて傷口は塞がっている。だがそれも満足ではないはずだった。痛みは決して取り除くことはできないし、失われた血液までは補充できない。そもそもが亜希子に備わっているのは、殺人のための力なのだ。他人を治すことに特化されてはいない。
「……無駄だ。香椎由香……おまえの能力では、私に抵抗できない」
 ゆっくりと、教え諭すような口調で言葉を紡ぐ。定めた狙いを移し替え、いつでも能力を導き出すことができる姿勢は崩さない。
「深く傷つき、既に能力も維持できていない。そんな姿で何が出来る?」
「あなたを殺せます。それで終わりなのです」
 淡々と、それがつまらないことであるかのように呟いて。
 由香はゆっくりと、右手を上げた。彰の背後を指さし、射抜くような視線を投げ放つ。震える空気が一帯を包み込み、甲高い共鳴を発させた。外界から差し込む光が急速に薄れ、夜の暗闇がその手で全てを覆い隠す。
 右手を大きく引いて、弓を構えるような姿勢を作り、由香は自らの双眸に貫く意志を編み込んだ。視線の延長にあるもの全てを押し流す、圧倒的な力の奔流を導き出す。
 純白の閃光が溢れ出し──由香の掌へと収束する。

「……早く離れた方がいいわよ」
 不意に、そんな言葉をかけられる。声のした方向を振り向く余裕すらなく、恵一は微かに頭を揺らした。頷こうとは思ったのだが、体がうまく言うことを聞いてくれない。間断なく神経を刺激し続ける痛みから意識を逸らしながら、かろうじて喉の奥から声を絞り出す。
「……どういうことだ?」
 時間を早送りにするように広がっていく暗闇を見遣る。深く優しい黒が、何もかも忘れさせてくれるような気がした。そんな闇しかない。外界に広がっていたはずの街並みも、空を照らしていたはずの太陽もない。
 ずっと外を眺めているわけにもいかないだろう。そんなことを考え、恵一は視線を動かし、いつの間にか隣に立っていた亜希子へと首を巡らせた。
「香椎さんが《黄金仮面》を解除したっていうことは、攻撃の指向性をカットしたってことよ」
「……?」
 わからない、と言いたげに首を傾げる恵一に、亜希子はひどく落胆したような溜息を吐いてみせた。緩くかぶりを振り、一切の問答を無視してこちらの襟首を掴み、容赦なく対峙する由香達から離れていく。抵抗の素振りを見せることなく、恵一は黙って引きずられていった。白けた思考を玩びながら、何とはなしに尋ねる。
「……指向性ってどういう意味なんだ?」
「そのままよ。《黄金仮面》は由香さんがその手で触れて力を伝える、私やあなたのものと同じタイプの能力。そして今度の能力は──まとめて全てを薙ぎ倒す能力」
 乾ききった声音でそれだけを告げ、亜希子はあっさりと恵の体を床に放り投げた。舞い上がる埃に目を細め、抗議の眼差しで睨み付ける。それを意に介した様子もなく、亜希子は彫像のように固まったまま動かず、ただ向かい合う二人の人間を見据えていた。その頬に一筋の汗が走る。
(……どういうことだ?)
「どういうことだ?」
 こちらが考えていたことと全く同じ台詞を囁かれる。倒れ伏した体勢で何とか首を巡らせて、似たような体勢でこちらを睨んでいる老人と目を合わせる。時代がかった濃紺の制服は、ところどころが破けてぼろぼろになっていた。皺に覆われた皮膚に無数の傷が刻まれている。右腕はどうやら折れているらしく、そこだけがだらしなく弛緩していた。
「……あんた、誰だ」
「神崎弘文。さっきまで列車を運転してたモンだ」
「……ああ。あんたが」
 頷き、大きく息を吐く。自らが打ち破った能力の持ち主は、その外見には似つかわしくない挑むような光をその双眸に湛えている。
「こっちの質問にも答えろよ、兄ちゃん。どういうことなんだ? 仲間から聞いた話じゃ、香椎由香の能力は《黄金仮面》なんだろ?」
「多分な」
「じゃぁ、まとめて全てを薙ぎ倒す能力ってのはどういう意味だ?」
 と、老人──弘文という名前らしい──が投げかけた問いに、
「意味なんかないわ」
 亜希子が短い答えを返す。
「恵一君。あなたの能力は《仮借ナキチカラ》と呼ばれるわよね?」
「それがどうかしたのか?」
 ぼんやりとした声で応じる恵一の視界の端に、凄まじい光量の紫電が走った。それに遅れて轟く雷鳴──白く染め上げられた世界に、由香と、拳銃を構えた男の影が浮き上がる。突如として外界を包み込む暗闇が膨れあがり、建物の内部にまで侵入してきた。外界では凄まじい嵐が吹き荒れるかのような轟音が鳴り響き、大雨が騒然と降りしきる。矢のような勢いで叩き付けられる冷たい雫から恵一達を庇うようにして立ち、亜希子は大きく唇の端を歪めた。
「……《門》は開いた──《城》が、その姿を現すわよ」
 壮絶な笑顔とともに吐き出された言葉とともに。
 恵一は、その光景を瞳に焼き付けた。
 忘れようとしても忘れられない。言葉を失い、次いで思考が完全に凍結する。
 事実が空疎になっていく。寒い──そして当たり前の話だが、雨粒は容赦なく傷口に染みこんでいった。気を失いかねない痛みが脳を絶え間なく攻撃する。
 だが、それらはそうであるというだけの事実だった。空疎な事実。その中を現実が埋めていく。
「……まさしく──化け物」
 そう呟いたのは誰だったか。ともすれば自分だったのかもしれないが。
 そんなことはどうでもよかった。
 黒々とした空の合間から鈍く響いていた音が、一段と高まったのが始まりだった。壊れた窓硝子からは微かに妙な悪臭が漂っていたのだが、それが強烈になり、やがて耐えられないほどの不快なものへと変容する。続いて何かが裂けるような音がして、ちょうど恵一達の真正面に位置する壁の一部に波紋が走った。水面に垂らされた水滴のように空間が歪み、波紋はさらなる波紋を呼んで自身を巨大化させていく。千々に乱れる空間の中に、何か巨大なものの影が浮かんだ。
 その直後、耐え難い悪臭が見えない高みから湧きだして、呆然と現実の行く末を見守る恵一達の息を詰まらせ、胸をむかつかせた。弘文などは何が起きているのかすら把握できないような有様で、ただ目を見開いて荒い息を吐いているだけだった。同時に、翼がはためいたかのように大気が震え、凄まじい突風が周囲に存在する全てのものを打ち据える。かろうじてコンクリに爪を突き立て、恵一は何もかもを押し包むような暗闇の中を睨み付けた。光のない世界で何が見えるわけでもない──だが、それでも彼は、確かに感じていた。形を持たない何かが、隅を流したような闇の中へと引きずり出されつつあることを。そしてそれが煙のように四散し、まとまりながら、次第に一つの形を得ていくことも。
 何が起こりつつあるのか。
 その場にいる誰にもわからない。
 だが一つだけ、誰もが理解していることがあった──
「……これが由香の、本当の能力なんだな」
 呟きは──耳を聾せんばかりの大音響を伴って落ちかかる稲妻に、あっさりとかき消された。

 両手に灯る仄かな燐光が、世界を照らす唯一の光であるかのようだった。
 対峙する少女は静かに両手を振り上げ、歪んだ空間へと大きく指を伸ばす。求めるように差し向けられた白い五指は、黒ずんだ虚空に複雑な紋様のようなものを描き連ねた。虹色に輝く閃光がひらめき、気を抜けばそのまま体ごと吹き飛ばしてしまいかねない空気の流動が彰を襲う。拳銃を構える余裕もなく、彼はしっかりとコンクリの床に深く爪を突き立てた。硬い感触に指先が悲鳴を上げ、細かい血の跡を残していく。四つん這いの体勢をとり、彰はそれでも顔を上げ正面に立つ少女を見据えていた。視線を逸らすことに恐怖を覚える。稲妻を通して何らかの感応力が働いているかのようだった。由香が世界に向けて投げかける威圧の全てを捉えてしまう。雨、風、雷が猛り狂い、耳の奥には気に障る残響がこびりついていた。
 目の前の現実が錯綜している。以前まで見えなかったはずのもの──見えなかったと記憶しているものが見える。我知らず、彰は短いあえぎを洩らしていた。階層全てを侵食した暗闇が、痙攣を繰り返して蠢いていた。常軌を逸した大嵐に突き動かされるかのように、虚しく大気を引っ掻いていた。
 そして──

「……《羅生門》、開門」

 ──深々と紡ぎ出される言葉に呼応するようにして、彰は小さく悲鳴を上げていた。畏怖を露骨に滲ませた悲鳴が、喉をついて洩れだしていた。揺らめく大気の皮膜に覆われて、由香の五指に灯った光が群がっていた。奇妙な色の閃光は、もはや輝いているような生易しい状態に置かれているものではなかった。迸っていた。
「……死者から能力を“引き剥がし”、自分のものにする能力──それが、香椎さんが持っている本当の力よ」
 誰かに説明するかのように亜希子が呟き、言い様もない色の無定形の流れを呆然と見送る。
 誰にも止められない。
 誰の手でも止まらない。
 自らの意志を異常な執着で叶えるその力が、解き放たれる。
「そして……あれが、この世界に起きた現象を“保管”し、自由に“取り出す”ことのできる能力──」
 掠れた声音を耳にしながら、恵一はただ黙って全てが終わるのを待っていた。
 香椎由香の瞳に宿る殺意に、抑えきれない微笑みを浮かべながら。

「《羅生門》を開いて──」

 未知の色彩に彩られた光の群が、空間に走る無数の波紋へと飛び込んでいく。
慄然たる光の束が収縮し、闇の中を不気味に照らし。
 そしてそれは、現れた。

 巨大な、鈍色に輝く木造の門。
 その彼方には、ねじくれた枝を遙か高みで音もなく揺らす、蔦の絡む木々からなる大森林が広がっていた。無限の色彩を帯びる雷光が閃き、そして消える。黒々とした森の更に奥には、古色蒼然とした、言い様がないほどに恐ろしげな気配を湛えた城が建っていた。樹海から抜きんでて、暗黒の大空を目指して突き立つ巨大な尖塔が一つそびえ立っている。そしてその尖塔に突端に灯された蒼い炎が、一瞬その身を大きくよじらせた。

「──《祈願城》より、力よ……轟くのです!」

 解き放たれた叫びと同時、

「……ッかぁっ──ぁああ!!」

 不可視の打撃が──まるで強大な力で殴りつけたかのように、彰の全身を叩き付けた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「あんな奥の手を隠してたとはな」
 と──呟いた内容の割に、恵一はあまり興味のなさそうな表情をしていた。亜希子に負傷した箇所を繋ぎ治してもらうと、全身の動きを確認するように数度その場で飛び跳ねる。特に痛む部位はない。動きも以前と変わりはなかった。大量に出血したせいで意識は朦朧としていたが、それまで亜希子に頼るのは我が侭というものだろう。彼女自身もそう軽くはない傷を負っている。とりあえず、放っておいても死ぬことはないという状態まで回復してくれれば、それでもう十分だった。
 胡乱な動作で首を巡らせ、周囲を見回す。既に空は明るく、立ちこめていた悪臭と暗闇はまるで嘘のように消え去っていた。《門》も《城》もその姿を消し、今見えるのはただ疲弊しきった人間達の姿だけだ。聞こえる息遣いはどれも荒い。沈黙の粉を撒かれたように静まり返る一帯を眺めやり、恵一は深く長い溜息を吐いた。
「……終わった、か」
「いいえ。まだ終わってないわ」
 亜希子が顔を上げ、強い語調でそう言い切る。恵一の訝しむような視線を真っ直ぐに受け止めて、彼女は軽くかぶりを振った。終わっていないと、もう一度繰り返すかのように。地面に転がる、打ち倒された男二人を指さして、亜希子はゆっくりと唇を動かした。
「まだ、こいつらは死んでない……それならば、終わってはいない」
「……先生」
「殺すのでしょう? 香椎さん」
 冷たい問いに、由香は言葉もなく俯いた。その目の中に、先程までの殺意は微塵もない。今の由香は、どこにでもいるただの少女だった。こんな世界の中でも殺すことに怯える──ただの、何の変哲もない《覚醒者》。
(それが悪いわけじゃない)
 恵一には理解できない。だが、理解できないものが全て悪いことだと思っているわけではなかった。思考の形は無数にある。亜希子と自分は似通っていて、由香のそれはほんの少し違っている。つまりはそれだけの差なのだろう。そのどちらもが正しく、そしてどちらもが間違っている。正常な判断などはとうの昔に失われてしまったのだから──誰もが、自分でその正しさを証明していくしかない。重くのしかかるような沈黙の中、そんなことを考える。
「先生と会う前に……私は、《覚醒キャリー》を殺しました」
 ゆっくりと顔を上げ、由香は痛みに耐えるような面持ちで言葉を続ける。
「……名前を聞いて──わかりました。上條純子……私が殺した《覚醒キャリー》なのです」
 小さく震える声が投げ出される。その場にいる誰もが、由香の言葉の続きを待っていた。
「……だから、この男達を生かしておく、と?」
「責任は私にもあるのです。だから……許して、欲しいのです」
 恐ろしく深い溜息がこぼれる。亜希子はひどく不機嫌そうに両目を閉じ、爪先で軽く地面を蹴った。恵一にもその気持ちは理解できる。由香が言っているのは、つまりこれから自分達にとって驚異になる人間を放っておけ、というのと同義だ。普通の人間ならば許容はできない。由香の言うことには基本的に反発することのない亜希子ですら、承諾しかねると言いたげな表情を浮かべている。
 確かに──この男達は、優秀な《覚醒者》なのだ。もし再び襲ってくるようなことがあれば、そのときもまた追い返せるとは限らない。結局、生きるか死ぬかの差は紙一重だ。ほんの少しの衝撃で、どちらに傾くかわからない。正直な気持を言えば、恵一も亜希子と同意見だった。殺せるときに殺しておく。常に死と隣り合わせのこの世界では、取り立てて珍しいことでもない。
(だけど……あいつには、負い目がある)
 由香は、自分の責任でこんな事態を招いてしまったと思っている。そして、この男達が襲ってきたのは、全て自分のせいだと信じ込んでいる。そんなことはあり得ないのだ──向ける殺意の矛先は、いつだって自分で狙いを定めるのだから。由香がそうさせたわけではなく、男達が決めたことなのである。ならば、その責任も負う覚悟があったということだ。
(だけどあいつは、その理屈が理解できない)
 良くも悪くも、香椎由香という人間は優しすぎる。この世界で生きていくには最も向いていないだろう。
 だが──それでも生きていくのだという意志の強さは、恵一には少し羨ましい。
「そんなに目くじら立てるほどのことじゃないだろ、芹沢先生」
「……恵一君」
「見逃して、懲りずにまた来るようなら、そのときは俺が責任持って殺すよ」
 こちらを見上げ、由香が表情を輝かせる。なるべくそちらを見ないようにしながら、恵一はなるべく無愛想に聞こえる声で言葉を続けた。
「ただ、見逃すだけだ。帰り道で《覚醒キャリー》に襲われたって、それは俺達の知ったことじゃない。それでいいだろ?」
 淡々と投げ出される言葉を受けて、亜希子は深く肩を落としてみせた。冗談とも本気ともつかない、どこかふざけたような声で呟く。
「いつから博愛主義者になったわけ?」
「俺はずっと前から博愛・平和主義者だよ」
「……唇を火傷しないようにと言っておくわ」
「ご忠告痛み入るね」
 他愛ない掛け合いを中断し、恵一は不意に男達へと向き直った。バットの先端を突きつけて、告げる。
「そういうわけだ。今回は見逃す──次に来たら殺す。早くどっか行けよ」
 特に深い意味はない。そのまま言葉通りの事実を述べているだけだった。再び襲ってくるようなら、再び倒せばいい。ただそれだけのことだ。何が困難なわけでもない。
「……私は甘いと思うけど」
「そう言わないで欲しいのです……」

「あははー……確かに甘いですねーっ」

 瞬間。
 世界が、変容した。

 絶叫──そして、飛び散る赤い液体。それらを全て認識するより早く、恵一は導き出した力を込めてバットを振るった。意識が反応したわけではない。体が無条件の反応を返していただけだ。自分でもどう動いているのかわからないまま、縦横に衝撃を拡散させていく。衝撃が立て続けに襲いかかり、腕の筋肉に痺れが走った。次いで、全身の感覚が急激に消失していく。血液がまるで一つの物体のようにして皮膚と共に剥離し、地面へと落ちていった。
「恵一さんっ!!」
 叫んだのは誰だったのか。わからない。声が耳の奥に潜り込むと同時、意識の場に上がることなく消えていく。一瞬前の記憶も捕らえてはいられなかった。
 痛みはない。ただ、肉体が凄まじい速度で腐敗し、崩れていく。酩酊したように意識が歪み、思考力が奪われていった。何も考えられない──何かを考えようという意志すら枯れていく。その崩壊は、ある意味では甘美ですらあった。死を喜んで受け入れてしまうような力──そして、到底推し量ることすらできない恐怖が体を縛る。陶然と見下ろす両腕の皮膚は灰色に変色し、死を間近にした老人のように萎れていた。
「《宇宙からの色彩》……!」
 倒れ、かろうじて顎を上げた姿勢で男──娘の名前から考えれば上條という名前なのだろう──が呻く。声の全てが絶望で埋め尽くされていた。
「やっぱり駄目でしたねーっ……ま、時子的にも駄目っぽい感じ満タンでしたけど」
 晴れ渡る青空のような声。少なくとも恵一の耳にはそう聞こえていた。どんなときでも、青空とはどこかそこが抜けているものだ。
 長く無造作に伸ばした髪。背中のあたりまでを覆い隠すそれは、しかし不思議と流れるような艶やかさを備えていた。幼い容貌は弾けるような笑顔に彩られている。頬は丸みを帯び、単調な鼻梁と重なって、その少女の印象をひどく素朴なものにしていた。見開かれた瞳は大きい。睫毛が長く、顔全体を構成するパーツの中で、そこだけがやけに大人びていた。ベージュのノースリーブと紺色のスカートが、ともに間の抜けた風に揺られている。
 悪意のない微笑み。上品な角度で曲げられた唇にそれが浮かんでいる。何も異常なところはない。どこにでもいるただの少女だった。
 だが、その少女が、

「……あ、きら──逃げろ……」

 列車を走らせていた老人の体を腐敗させ、まるでそこから養分を得たかのように現れたのでなければ。

 少女は、どこまでも普通だった。

「あ、どうもーっ、初めまして。私、那珂時子(なかときこ)っていいますー」
 場にそぐわない明るい声でそこまで言い切り、勢いよく頭を下げる。どことなく子供じみた、幼稚な動作だった。体の動きと意志が食い違っているかのような、ちぐはぐな印象を受ける。
 亜希子と由香が全く同時に腕を振り上げ、それぞれの能力を編み上げた。メスの刃が冷たく輝き、黒のインバネスが切り取られた夜の闇にも似たはためきを見せる。脅威だと感じたわけではない。少女は無警戒そのものといった表情で、茫洋と立ち尽くしている。どこも警戒には値しない。だというのに、二人は全身から激しく汗が噴き出すのを自覚していた。腕が震え喉が渇く。抑えがたい恐怖がべったりと背中に貼り付いて離れない。
「あれれーっ……ひょっして時子、嫌われてますかーっ?」
 髪を掻き、時子と名乗った少女は苦笑いを浮かべた。亜希子と由香の間を往復させるような視線を送り、軽々しい調子で手を振ってくる。
「そんな心配しなくても平気ですよ? 時子、今日は伝言を伝えに来ただけですから……あなた達を殺せっていう命令が出たらそうしますけどーっ」
 瞬間──
(……ッ!?)
 恵一の呼吸が、一瞬止まった。肺が勝手に独自のリズムを刻み始めたかのような痛みを覚え、全身の筋肉を硬直させる。落ち着けようとしても落ち着かない息遣いは、秒を追うごとにその激しさを増していくようだった。心臓が早鐘を打つ。少女の浮かべる微笑みは、滲むような悪意に彩られていた。
(いや……違う)
 彩られているのではない。
 少女は──那珂時子は、悪意そのものだ。
(俺達なんか……ゴミだ)
 時子が本気になれば、こちらは一瞬の余裕すら与えては貰えずに絶息するだろう。そう確信させるほどの恐怖と悪意を身に纏い、少女は曲がった背筋を僅かに整えた。
「えっとですねぇ……上條彰さん。学習院大学跡ホームから追放する……好きなだけ野垂れ死ね、とのことですー」
「……有り難くて涙が出ると伝えておけ」
「あ、それ、皮肉ですかーっ?」
 無意味に明るい笑い声。誰も動かない──誰も動けない。恐怖に鷲掴みにされた心臓は、不規則なリズムを奏で始めている。
「他の皆さんも……えっと、香椎さんを除いて、すぐに皆殺しにするとのことです。時子的にはそこまでやんなくてもいいかなって思いますけど、命令が出たらやっぱり殺さないといけませんし……なんていうか、運が悪かったものと思って諦めてくださいねーっ?」

 色が弾ける。
 不可思議な層を幾重にも重ね、彼方からの印象を汲み上げるその色は時子の体を覆っていった。

 誰も動かない。
 誰も動けない。
 ただ──見守るだけ。
 時子の体が色の中に溶け、沈み込み……たちの悪い冗談だったとでもいうように、あっさりと消え去っていくのを。
 ただ、見守るしかない。

「……誰が──化け物ですって?」

 忌々しげに吐き捨てる亜希子の言葉だけが、その場に虚しく放り出された。
 
 
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