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クリエイター名 |
shura |
月への回帰?U:三人称による表現
月への回帰?U 三人称による表現
爆音を伴った一瞬の強い風の中でも、その男は着物をはためかせ、真っ直ぐに立っていた。夜の闇より黒い髪は逆巻き、くわえた煙管から出る紫煙は糸をひくように夜空に向かって長く長く伸びていたが、男はただ目を細め、身じろぎもせずにそこに佇んでいる。まるでこの世に怯えるべき物などないとでもいうように彼は、目の前の”現象”を揺るぎない瞳でじっと見守った。 ”それ”は創生神の鍋からすくい上げて宙に落としたような、混沌とした一つの塊であり、絶えず姿を変えては光ったり音をたてたり、風を吹いたりしている。 「お前は逃げ出したいのか、この街から?」 ”それ”から強く吹きつける風にかき消されそうな――だが、落ち着いた揺らぎのない声で男が”それ”に向かって言う。 「風ならば何処へでも行けると思ったのか。だが、風は壁に遮られる。街に吹く風は淀む――こんなごちゃごちゃとした所ではな。また、風は凪ぐこともある。そしてまた、強い風は人をはねつけ、時に傷つける。」 淡々と言う男とは逆に、”それ”はひるんだのか、はたまた躊躇っているのかせわしなく形を変えては風を吐き出し続け、時々発せられる光は明滅を繰り返す。”それ”に耳などという器官は当然ないはずだったが、どうやら男の言葉は通じているようで、男もまたそのことを疑っている様子はなかった。というのも、こういったものを相手にするのが彼の生業であったから。 「――だが、いいか。命じる肝もないだろうが、知っておくといい。」 と彼は、声を張り上げるでもなく、おもむろに切り出した。 「俺はお前の風ではひるまないし、傷つかない。俺は”そういうふうに”できている。だからお前が俺を振り切ることはできないし、よしんばそれができたとしても、お前はこの街からは出られない。何故なら俺が”こんなふうに”生まれついたように、お前はこの街で迷うために生まれたからだ。……いや、迷う人の心がお前を生んだ、と言う方が正しいのかもしれないが――どちらにせよ、同じことだ。しかし、お前にいつまでもこの街でふらふらされては迷惑でな。」 男はそう言って一度言葉を切り、紫煙と共に胸の奥から深い息を吐いた。 「生まれた場所に戻れと言いたいところだが、一度生まれたものはどれほど望んでも母体には還れん。それが自然の摂理というやつだ。よって、俺はお前に別の居場所を提供しよう。――いや、”還る”以外の解決法を、と言うべきか。お前にとってもこの街の住人にとっても益のあることだ。俺にとっては、まあ、腹の足しになる。悪い話じゃないだろう?」 傍から見ればまるで独り言のような男の言葉に、”それ”は何事かを訴えるように姿を変えてみせる。それが通じているのかいないのか、あるいはどちらでも構いはしないのかもしれないが、男はふいに手を打って、 「よし。」 と短く言って頷いた。そして、ひときわ長く煙を吐き出すと、くわえていた煙管を口から離し、口をめいっぱいに開いたかと思うと鋭く息を吸い込んだ。 その途端、まるで空間に高低差でもできて彼の口がその最底辺になったかのように、”それ”が恐ろしいほどの速さで宙を転がりその中へと吸い込まれてゆく。やがて混沌とした風と、明滅を繰り返す光は、瞬きの間にすっぽりと男の口の中へおさまり、跡形もなくその場から消えてしまった。風がやみ、辺りは本来の夜が持つ静寂に包まれる。 一人その場に残った――もともと彼一人であったとも言えるが――男は、手に持っていた煙管を再びくわえ、物憂げに溜息でもつくようにして息を吐き出した――その煙が、明るい色の光をきらめかせながら、丹念に磨かれた鏡のように眩しく鮮明に輝く月の浮かぶ空へと立ち昇っていく。 「ご馳走さん。」 男はそう言って、夜空に音もなく消えていく煙に微笑みかけた。それからすぐ近くで狼の咆哮を聴いたように思い、「遅い到着だが、迎えだと思えば悪くもないか。」と、今度こそ他愛もない”独り言”を呟いた。
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