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クリエイター名 |
りや |
地の文のみ・3000字
声に聴覚を刺激され、まるで覚醒するように意識を引き戻される。もっとも、人工的に生み出されたこの身体に魂と呼べるものが宿っているのかどうか、定かではないが。そうなるようにあらかじめ造られたものなら、例え好意を抱いていてもそれは愛情ではない。 主人と呼ぶべき人物のその声は、ひどく小さく不明瞭なものだった。内部に搭載された多言語の辞書で何とはなしに検索してみても該当する言葉は見つからない。正確にはいくつかの候補は見つかったのだが主人がその言語に通じていたという記憶はなく、状況を鑑みても不釣り合いだったので除外した。最新のデータをダウンロード出来ていれば、結果はまた変わったのかもしれない。だが外界とは物理的にもネットワーク的にも遮断されて久しく、仮定したところで結局どうしようもないことだ。 可動年数をとうの昔に過ぎている躯は緩やかに処理能力を鈍らせていて、判別不能と結論付けるまでに一分ほどを要す有様だ。その間にも視覚センサーは寝台の上に横たわる主人の姿を捉えていたのだが、平行処理すらままならずにいるので認識が一拍遅れる。不健康に痩せた腕が小刻みに震えながら伸ばされていて、何か求められているのだろうと外見だけはヒトに似せられた己のそれを近付けて触れ合った。生身であるはずの主人の皮膚は長い年月に傷み、温度も生から遠ざかりつつあるのが分かる。 再び主人が何か声を吐き出した。声というより音に近いものだ。やはり、何事かは聞き取れなかった。ただ、唐突に破損したわけではないなら異様と表現するほかない光景が視界一杯に広がって。 淡い燐光が、ひび割れた小指をかすめる。主人の身体から溢れるように発せられた様々な色の瞬きが意思を持っているかのようにこちらへと絡み付いてきて、何を感じたでもなく身を引こうとした偽物のこの躯に染み込んで。一人と一体の暮らしでは久しく使用していなかった喉の部分が僅かに振動した。
痛くて苦しくて、置いていかないでと言いたかったけれど、何度もその言葉を飲み込んだ。孤独は優しい。何も与える必要がない代わりに与えられることもない世界をそう呼んでいいのかも分からなかったが、ただひとつ分かったことがあるとしたならそれは、人は一人では生きられないということだ。だから痛苦を紛らわせるためにあの人を写し取った人形を用意した。 あの人の愛を疑ったことはない。離れることが愛情の証明になる場合もあるのだと、憎んで憎んで憎むのにも飽きた頃にようやく、考えられるようになった。それでも、醜い感情が綺麗に昇華されたわけではなかったけれど。人間なんて所詮はそんなものだろう。好きか嫌いか両極端な気持ちで分けられるはずもない。愛憎が両立して綯い交ぜになり、いつの日か何と形容すべき感情なのかすら定かではなくなってしまった。 世界は既に後戻りの出来ないところまで来ていた。呼吸することすらままならずに、多くの種族が息絶えた闇の中でただ息を潜め、終末を待つ。誰にも穢されることのない緩やかな荒廃と死。伝える相手もないのに淡々と想いを書き留めるだけの日々を送る。最早あの人が戻ってくるだなんて夢物語を描くことはしなかったが、ただひとつだけ心に引っ掛かっていたのは、エゴイズムのために命を吹き込んだ人形を、長い年月を共に暮らすにつれて情が湧いたその存在を、独りきり遺してしまうということだった。ただ一緒に生きてくれればいいと簡単につけられる情感を廃し、少しずつ衰えていくであろう己の補佐をさせてきた。そもそも隔絶されたこの場所で他に人間と会ったことはなかったが、それでも自身がその苦しみを知っているだけに独りきりにしてしまうのはどうにも気が引けてしょうがなかったのだ。必要と思わなければ声も発しない相手でも、長く二人で生きていれば愛しいと思う。弔いなどしてほしくはない代わり、少しでも長く生きてほしいと願った。修復するのも難しい状態で、その人間よりも短い生を同居人のために全て費やしたのだから。だから生きたいように――。
骨張った手のひらに液体がひとしずく零れ落ちる。それはまるで砂漠に水を撒くような儚い行為だと分かっていたけれど、それを止める手段なんて知らなくて。ひどく劣化した特殊センサーを使用せずとも潮が引くように体温が失われていくのが分かる。主人は死ぬのだ、と今になって理解することが出来た。まだ完全には消え失せていなくても、専門的な医療知識もそれを実行出来る肉体も持ち合わせていないのだから何も出来ない。限界まで機能を引き上げて、あえかな呼吸音を胸中に焼きつけることだけ。ただ、それだけしか。 胸が苦しい。動かす命令を出したわけでもないのに肉体が何度も揺れ動く。造られた身体にはどう考えても痛覚など不必要なもので、つい先程まで知識としてしか知らなかったそんな感覚は、けれど当たり前のように受け入れることが出来た。今もまだ残滓のように漂う揺らぎ、ひいては主人が与えてくれたものなんだろうと思う。本人が意図したものなのか、その膨大に蓄えた知識ですらも説明出来ないような不可思議な現象なのか、最早知る術はなかった。 自然と呻きではない声が己の喉から漏れるのをどこか客観的に聞いていた。稼働するのに必要な情報としてインプットされたものの、ろくに呼びかけることもなかった主人の名前を口にしてみる。自身の声は記憶よりも低くて、さざめくようだった。発音には支障はないと思うが損傷の影響を受けている。もう反応らしい反応さえ窺えなくても聞こえているかもしれないからと、手動修正を試みつつ時間に追われ、考える間もなく言葉を紡いでいく。当時の己には感情という機構自体存在しなかったが、ところどころロストした記憶を手繰り、今感じることをそのままぽつりぽつりと小さく語る。もしかしたら主人は内心あまりのたどたどしさに笑っているかもしれないと思うと恥ずかしかったが、それより焦りと哀しみの感情が強かった。 時は容赦なくどうしようもなく過ぎていく。光がひとつまたひとつと糸のように細くなって最後には消えてしまう。それはまるで主人の死が近付いているこの状況を視覚化しているかのようだ。きっと飽き足らず何十時間だって語っていられるだろうと思っていた言葉は灯火が消えるよりも早く潰えた。だからただ黙り込む。作り物なればこそ、今不必要な感覚を全て断ち切って、眼と耳と鼻で主人の存在を受け入れ、内側に留めていく。生体反応が消失したのを確認したあともしばらくの間、一度も動かずそうしていた。ちゃんと機能するかどうか定かではないが、回想していてより印象深かった思い出は予備メモリーにコピーしてプロテクトをかける。そうして未練を緩やかに解いていき、ベッドのうえの主人を抱きかかえた。元々痩せていたのが年老いて更に体重が減り、体躯自体も小柄な部類だが、それでも主人と一緒に年月で衰えた肉体にはなかなかの重労働だと思う。機能しなくなる日もそう遠くないかもしれない。 もしかしたらこのために用意したのかもしれないが、各種知識を詰め合わせた中には弔い方も入っていた。一対一でするようなものではなかったので不可能な部分は自分なりに修正を加えて、黙々と作業を頼まれたときのようにこなしていって。片付いて顔をあげると、黒い空に一粒の星が瞬いているのが見えた。
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