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クリエイター名 |
池澤まゆり |
サンプル「レイヴン・ウィシュ」
夜空の下のバルコニーで、彼女は一人溜め息をついていた。 明日はエドッグ伯爵家の息子と彼女の婚約披露パーティが開かれる。伯爵の息子は道楽息子だとの噂があり、顔を合わせたことのある彼女もその噂は正確だと思う。当然のように彼女は婚約に乗り気ではなかった。だがこの没落しかけた家を立てなおすには、力のある貴族と結婚せねばならない。 ありがちな理由だが、これが婚約を決めた最大の理由ではなかった。彼女の家の家宝が何故かエドッグ伯爵家の手に渡っていたからだ。数年前に彼女の屋敷から盗まれた黒い宝石レイヴン・ウィシュ。行方知れずだったその宝石を、エドッグ伯爵は明日のパーティで披露すると公言したのだ。最大の家宝だったレイヴン・ウィシュを取り戻すために彼女は婚約した。 (レイヴン・ウィシュ……どうして私の手元にあってくれないの?) 彼女は自問した。レイヴン・ウィシュには言い伝えがある。それを所持する人間を幸福へと導くという言い伝えだ。実際、その言い伝えは正しいものだったように思う。レイヴン・ウィシュが盗まれる前は彼女の家も力ある公爵家として国の重要な地位にあった。だが盗まれてからというもの、彼女の家は突如態度を翻した宰相によって陥れられ、父はその騒動に巻き込まれ命を落とし、母はその一年後に流行り病で亡くなった。数年で彼女の家は没落寸前にまで追い込まれたのだ。 レイヴン・ウィシュが盗まれさえしなければ、今も彼女は両親と共に幸せな生活を送っていたのかもしれない。そんなことをぼんやりと考え、彼女は再び嘆息した。父と母が大切そうに飾っていた黒い宝石。それを最後に見てから、もう数年の時が経っている。 (どうしてエドッグ伯爵なんかの手に渡ってしまったの) エドッグ伯爵家は彼女の家と入れ替わるように力を手に入れて成り上がってきた貴族だった。もしかすればそれもレイヴン・ウィシュの力なのかもしれない。 と、彼女の背後に人の気配がした。 「お嬢様、そろそろお休みになられませんと」 老いた男の穏やかな声。この屋敷にたった一人残った使用人、執事のジョンノだ。彼女は振り返らないまま口を開いた。 「このまま明日なんて来なければいいのに」 数秒の沈黙が降りた。ややあって、ジョンノの声が聞こえてくる。 「お嬢様のお気持ち、お察しいたします。ですがこれ以上外におられますとお風邪を召されるかもしれませんので……どうかお休みになってください」 温もりのある執事の声を聞きながら、彼女は振り返った。ランプを持ったジョンノが、彼女のガウンを手に頭を下げている。 ジョンノは彼女が生まれる前からこの屋敷で働いていたらしい。父親よりも年老いたこの執事を、彼女は祖父のように慕っていた。 「……分かったわ」 また一つ溜め息をついて、彼女は部屋の中に入った。ジョンノが扉を閉め、わずかな風の音が聞こえなくなる。彼女はバルコニーを振り返った。厚いカーテンが閉められ、もう夜空も見えない。 ゆっくりとベッドに入りながら、彼女はぽつりと呟いた。 「シルヴァーノ、来てくれないかしら」 部屋の明かりを消そうとしていたジョンノが、彼女のほうを振り向いた。不思議そうな顔をして尋ねてくる。 「シルヴァーノ、ですか?」 「あら、知らないの? 最近噂になってる義賊の男よ」 彼女は笑顔を浮かべた。義賊シルヴァーノは盗賊から家宝を取り戻してくれ、不本意な婚礼に臨む娘を助け出してくれる。 「彼なら、レイヴン・ウィシュを取り戻してくれるかもしれないでしょう?」 そしてエドッグ伯爵家の息子との婚約から彼女を助け出してくれるかもしれない。 言いながら彼女は苦笑した。そんな不確かなものにしか頼ることができない。 「そうなのですか……ではもしその義賊殿が来られたら、お茶を出して差し上げましょう」 ジョンノはにっこりと笑って、部屋の明かりを落とした。薄闇の中で彼女に一礼し、部屋を出て行く。 その後姿を見送って、彼女はベッドに潜り込んだ。次に起きれば不本意な婚約パーティに臨まねばならない。溜め息をついて、彼女はゆっくりと目を閉じた。
こつり、と窓硝子を叩く小さな音が聞こえた。彼女ははっとして上体を起こした。再びこつりと音がする。カーテンの向こう側、バルコニーからだ。 普段ならこんな小さな音には気付かないのだろうが、眠れなかった彼女はそんなことも気になってしまう。 彼女はベッドを降りてバルコニーに向かった。だが彼女が辿り着く前に、バルコニーへの扉は音を立てて外から開け放たれた。微風に乗った花弁が部屋の中に舞い込む。扉の外には人影があった。 「誰?」 一歩後ずさり、彼女は問うた。開け放たれた扉の向こうから人影は歩いてくる。背が高い。男のようだった。人影は無言で彼女に向かってくる。彼女はそれ以上後ずさることもできず、凍りついたように人影を見ていた。 薄闇の中、彼女の前で男は足を止めた。月明かりでわずかにその姿が見える。黒いシルクハットとタキシード。顔は口より上が仮面に覆われていて、よく見えない。彼女は思い当たった――これは噂に聞く義賊シルヴァーノの格好だ。 「お嬢さん……君はとても悲しい目をしている」 男がそう言った。確かに男の声だが、年齢は分からない。若いようにも聞こえるし、老人の声だと思えばそうとも聞こえる。彼女はただ男の顔を見上げた。仮面の奥は見えないが、その瞳は柔らかな光をたたえているのではないか。何とはなしにそう思った。 「あなたは、もしかして」 彼女は小さな確信を持って口を開いた。だがその唇を、手袋をはめた男の人差し指が塞ぐ。男が口を開いた。 「君はわたしの名を知っているのだね。それ以上言わなくてもいい」 仮面から覗く男の唇が笑みをかたどった。狡猾な笑みではなく、穏やかな微笑み。男は優雅な仕草で、懐から何かを取り出した。そして彼女に差し出してくる。彼女はしばしその仕草を見つめてから、ゆっくりと手を差し出した。その手に冷たい塊が乗せられる。硬い、磨かれた石のような感触。男の手が引かれる。 月明かりに浮かび上がるそれを見て、彼女は目を見開いた。 「これ……」 彼女は男を見上げた。男は唇に笑みを浮かべたまま口を開く。一瞬彼女は懐かしさを感じた。何故かは分からないが、男の仕草に懐かしさがよぎったのだ。だがそれはすぐに消えていった。男の言葉が耳に入ってくる。 「そう、それは君が持つべきものだ」 彼女の手の上できらきらと月明かりを反射するそれは、間違いなくレイヴン・ウィシュだった。最後に見たのは数年前だが、見間違えるはずはない。 「お嬢さん、君に幸せが訪れるように……」 言葉の直後、男は勢いよく後ろを向いた。そのままバルコニーへと走り出し、手すりを乗り越えて飛び降りる。彼女も慌ててバルコニーへ出た。だが下の庭園に男の姿はない。 彼女は驚きに息を吐きながら、一歩後ずさった。手の平に乗せられた宝石を見やる。美しい黒い宝石は冷たく、月光を反射して輝いている。だがその冷たさの中にシルヴァーノの温もりがあるような気がして、彼女はレイヴン・ウィシュを抱きしめた。 (それにしても……ジョンノが気付かないなんて) 男が扉を開けたときに派手な音がしたはずだが、ジョンノは気付かなかったのだろうか。老いているとはいえ彼は耳がいいというのに。 (それとも、シルヴァーノが魔法でも使ったのかしら) 彼女はシルヴァーノの顔を思い浮かべた。半分仮面に覆われた顔だが、唇に浮かぶ微笑みはとても優しかった。どこかで見たような気がする穏やかな笑み。だがどこで見たのか思い出せない。 (でも、いいわ。レイヴン・ウィシュが戻ってきたのだから……) 彼女は再び宝石を抱きしめた。理由は分からないが、明日の婚約パーティも何とかなる気がする。幸福を呼ぶ黒い宝石が戻ってきたのだから。
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