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クリエイター名 |
松本優 |
サンプル
左手首に巻かれたIDナンバー入りの、白いビニール状の腕輪がふと視界に入る。
<ID 02573655>
少なくとも、この空間には二百五十七万三千六百五十五人以上の人間が暮らしているということだろう。 このIDナンバーはざっと百二十年以上もの間、彼女の手首に示されている。 ふつう、IDナンバーを付けられた状態で八十年から百年もすると、いわゆる<感情>や<記憶>というものを忘れてしまうらしい。そして、これを手首に巻いている以上、その人間の体が年老いていくことはない。 IDナンバーを手に入れ、この地球の底辺に暮らす者たち。みんな、選ばれた者だ。この百二十年以上の間、ただ楽しく生活してきた。おそらくはこれからも、そうやって暮らしていくのだろう。 百二十年以上、としか、彼女にはわからない。選ばれた人類がこの地球の底辺生活を始めてからいったいどれぐらいのじかんが経ったのか、覚えていない。具体的な年数がわからない。そして、彼女自身がどうして「選ばれた」のかさえも。 <記憶>の忘却が始まっているのだ。 けれど、たとえばこのIDナンバーについて、とか、一部の人類が地球の底辺で暮らすようになった、つまりずっと昔はちがう場所で暮らしていたのだ、とか。そんな<記憶のかけら>は、ぼんやりしているとは言え、少なからず残っているようだ。(「ちがう場所」がどこなのかは、わからないのだけれど。)
彼女が他の人間とちがう点は、それだけではない。 おそろしいことに、彼女は<感情>を忘れる、ということが出来なかった。 「百二十年以上」の間、同じ肉体で、同じ情景を眼にし、発展することもなく後退することもない文明の中で、彼女はひとり生きてきた。
ずっと昔に遊んだ(はずの)女友達は、もう<記憶>や<感情>を失ってしまっている。街ですれ違っても、友達は何も言わない。眼も合わさない。最初、彼女にはそれが不思議でたまらなかった。じぶんが何かいけないことをしたのだろうか、と不安になったりもした。 それから数日経って街の大通りでまたその友達を見かけたとき、彼女は走って追いつき、せっかく久しぶりに会ったんだからカフェに入ってコーヒーでも飲まないか、と話しかけた。友達が怒っているようなら、そして彼女自身に落度があるのなら、謝ろうとも思った。 だけどその女友達は、きょとんとした、あるいは虚ろな眼で彼女をしばらく見つめたあげく、何も言わずに、何の反応も示さずに、立ち去ってしまった。
彼女は喪失感にも似た、言語化出来ない痛みでいっぱいになった。空虚なからだの中心を、痛みだけがどくどくと流れていった。
みんな、忘れてしまうんだ。 過去のことを、<記憶>を忘れ、あの虚ろな眼が表していたように、<感情>さえも捨て去ってしまうんだ。 わたしだけが、取り残される。 この、地球の底辺で。
だけど彼女もまた、すこしずつ<記憶>を失っていっていた。彼女はそれに、気づきはじめている。
だれもが<記憶>を喪失し、わたしを忘れ、そしてわたしも<記憶>を失くしてしまったら。 この世界には、いったいだれが存在するというのだろう。 みんなに忘れ去られて、わたしもわたしを忘れてしまって、そのとき、わたしは存在しているのだろうか。 <記憶>の喪失が世界を蝕み終わるとき、いったいだれが、何が存在するのだろうか。
そのとき、残されたわずかな<記憶>がふと、彼女の脳裏をよぎった。
このIDナンバーを巻いている限り 肉体は老化しない このIDナンバーを巻いている状態で長い年月が過ぎると <記憶>及び<感情>を喪失する
帰宅する途中、まるでにせものみたいな光がきらきらと輝く公園で、桃色の花を一輪摘んだ。花弁にそっと口づけし、急いで部屋に向かう。 部屋の扉を開けると、窓から見える太陽はもう沈みかけていて、部屋にはじわじわと闇が浸透していた。 靴も脱がないまま彼女はベッドにどさりと腰をかけ、そばのローテーブルに置かれてあったウイスキーを淡い橙色のグラスにいれる。そしてゆれるウイスキーの表面に、摘んできたコスモスの花弁を一枚ずつ浮べた。花弁が、どこにも行けない小さな湖で漂う。 どこからともなく、子どもたちの歌声が聴こえてくる。遠い昔に、置き去りにしてしまった歌。 「しゃぼんだま とんだ」 そう呟いた彼女はこくりとウイスキーを飲みほし、すぐそばで悲しげにたたずんでいたハサミを手にした。
金属音が、小さく響く。
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