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クリエイター名 |
黒川 うみ |
シリアス風味
逃げろ、と叫んだのは父だったか、母だったか、それとも兄だったのかは覚えていない。ただその叫びを聞いて弾かれるように走り出したことだけははっきりと覚えている。 恐怖で竦んだ足を奮い立たせ夕闇に背を向けて必死に走る。 必死。 逃げなければ、必ず死ぬ。 考えるまでもなく理解してしまう現実におののく暇無く、獣道を転げ落ちるように駆けて行く。素足の裏に小枝や小石が刺さっても立ち止まれはしない。背後では不気味な雄叫びが複数上がり、同時に阿鼻叫喚の悲鳴が自分を追い越して行く。 姿形は熊に似ていた。 異なるのはその大きさと頭の形だった。まるで熊の体に鹿の頭をくっつけたような巨大な怪物たちを確かに見た。眼に入った瞬間に全身がぞわりと粟立った。本能が危険を感じた。ひと目で殺されると思った。 だから、きっと、逃げても、無駄。 追いつかれて殺されて、きっと食べられてしまう。あの悪魔に。 それでも子供は、その場に蹲ってただ恐怖に震えていることなどできなかった。 死にたくない。逃げなくちゃ。死にたくなんかない。走らなくちゃ。怖い。怖い怖い怖い。 この世のものとは思えない咆哮が追いかけてくる。ドスンドスンと地響きを響かせて、黒い悪魔が子供を追いかけて緩やかな傾斜を信じられない速度で下ってくる。 瞬きをすることさえ忘れて、目から涙を、全身から汗を流しながら、整わない呼吸とあちこちにできた擦り傷に喘ぎながらそれでも子供は走る。限界という言葉があるなら、とうにその範疇を超えていた。 程なく真後ろからおぞましい気配を纏った何かが追いつき、子供の足下を狙って大きな岩を振り下ろした。もう半歩走るのが遅ければ直撃していた。しかし衝撃で前のめりに坂を転がり落ちる。いつの間にかこんなところまで来ていたと傾斜で気が付くが、気が付かない方が幸運だったかも知れない。 その急斜面は川へ続く坂道だった。 川は細く浅く、むき出しの岩場になっている。身を隠す場所もなく、逃げるには岩場の向こうへ行かなくてはいけないが、その先に広がるのは砂漠だ。細かい砂に足を取られ身軽に動けないことは身をもって知っていた。 岩に体を打ち付けながら転がり落ちた先は、湿った土の上だった。川の底だ。もう逃げられない。おそるおそる今落ちてきた斜面の上を見上げ、そして見てしまった。血の色に輝く悪魔の眸を。 全身が居竦んで動けない。空気がまとわりつくように重い。心臓が鷲づかみにされたように痛い。 ――――死ぬ。 子供はそれだけを理解した。
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