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クリエイター名 |
涼木 洋 |
サンプル
Wonderful tonight.
「星の光は、みなに平等に降りそそぐ」 † なんて、誰が言ったか知らないが、そんな風に思える、忘れなれない夜が誰にでもあったりす る。 僕には憧れの女性がいた。それは、憧れという揺るぎない岩のようなもので あって、それ が転石の果てに愛やら恋やらに変わりうるものでもなく、 僕ができることと言えば、ただ彼女 を美しい 街明かりの如く、漠然と、焦点の定まることのない視点を投げかけることだけだった。 話しかけることもない。いや、話しかけたところで、一般にコミュニケーションと定義さ れるようなものを 僕が彼女との間に構築できるとは思えなかった。 僕と彼女を隔てるものは、 部屋と部屋をはさむたった一枚のコンクリートだったが、それは一枚のコンクリート 以上に、 重く、厚い存在だった。 † ある日の夜だった。友人が遊びに来て、飲んでいた。僕はあまり酒が強いほうではなく、 そ の日はあまり気分ものらなかったので、なんともなしに外出した。といってもゆくあても ない ので、アパートの入り口で持ち出してきたウォークマンを耳にかけ、花壇に腰掛けた。 冬の夜 空は、澄んでいて、きれいだった。 そのとき、あの人が外に出てきたのだ。彼女はタバコを取 り出して、慣れた手つきで 火をつけて、最初に大きく吸った。僕はそわそわしていたので、そ の存在感はすぐに 察知されることとなった。彼女は僕を見て、そらし、再び見た。 「ねえ」 「はい」 「なに聴いてるの?」 「ロック」 「へえ、古風なのね」 「そうですかね」 「ロックなんて、死んだと思ってたわ」 † その後、他愛のない会話がはじまった。なにが好きで、嫌いでなんていう、野良犬でさえ鼻に もかけないような 話題だったが、そこには微かにリズムがあった。浜辺で拾い上げたふたかけ らの 貝殻が偶然合わさったような、なにかがかみ合っているような、そんな気がした。 ††† |
「ねえ、エリッククラプトン好き?」 † 会話が途切れたところで彼女がふいに聞いてきた。† †††
「いや、あまり聴かないです」 「そう」 彼女はそれっきり黙ってしまった。そしてたばこを吸い終え、それを踏みつけた。なにかから醒め たように、 彼女の行為は急に義務的になった。今まで二人の間に流れた同じ時は、一瞬の風によっ て、ぱっと散って しまったようだった。 †「じゃあね」 †そういって彼女が中へ戻ろうとしたその瞬間、 †「あの」 † 僕は彼女を呼び止めた。 †「僕、エリッククラプトン、一曲だけ好きなのがあるんです。題名知らないんですけど」 † 僕はぎこちなくメロディを口ずさんだ。それはメロディと呼べるものだったか、今でも自信がな い。 彼女はそれを聴いて、僕のほうに振り返り、 † 「“Wonderful Tonight.”私もその一曲しか知らないの。でもそれが大好きなの」 † 彼女はそのあと一息いれて、最後にこう残した。 †「一緒だね」 †そしてゆっくり微笑んでから、去っていった。 その後、彼女とは何度か顔を合わし、挨拶をした が、それだけだった。 だが、あの夜、確かに僕と彼女の間には、暖かいものが通い合った。それ は、泡の如く 形の残らないものだったかもしれない。しかし、ときには形なきものが、形あるもの] 以上 に人の脳裏に焼きついてしまうこともあるのだ。 † “Wonderful Tonight.”そんな夜もあるのだと、今もこの曲を聴きながら思う。
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