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クリエイター名 |
緋村豪 |
三人称形式、短編小説
『蝉の鳴く季節』
昨日の朝、曾祖母が死んだ。 享年九十八歳。 老衰だった。
病室に入っていくと、ベッドの上に起きていた愛美が輝くような笑顔で迎えてくれた。 この笑顔を見るだけでも、ここへ来る価値はある。 ここへくるたびに、いつもそんなふうに思う。そしてそんなふうに思う自分を、われながら恥ずかしく思うのだ。 そういえば、近ごろずいぶん顔つきが変わってきたようだ。 三カ月前に初めて会ったときは、顔色は異様なほど白く、ほおもひどくこけて、元気とか健康とかいう言葉とは無縁に思えたほどだ。 今でも顔色はあまり変わらないが、顔の輪郭が丸みをおびてきて、疲れを感じているようには見えなかった。少なくとも、見てる限りでは元気にふるまっている。 「やあ、元気にしてた?」 「おかげさまで」 通い初めたころ、こんなふうにあいさつをするたびに、愛美は変な顔をしたものだ。毎日きてもおなじあいさつをするものだから、口に出していわれたこともある。 しかしそんなことも気にせずに続けていると、愛美もなれてしまったらしく、近ごろは変な顔をすることも口にだすこともなくなっていた。 「おばさんは?」 「洗濯しに家に帰ってる」 「あ、そ」 ベッドのわきに置いてあった丸いすにすわり、教科書のつまったカバンを床におくと、だまったまま窓の外へと視線をむけた。 ガラス一枚へだてた窓のむこう側から、蝉の鳴く声が聞こえてくる。傾きはじめた陽が、ベッドのむかい側の壁にさしこんでいる。 額縁のような窓に浮かぶ木々の揺れるようすを、ただ、じっとながめていた。 「どうしたの?」 「ん……、いや。……そうだ、アップルパイ食べる? カバンの中にほうりこんできたから、つぶれてるかもしれないけど」 愛美の返事はなかったが、気にせずにカバンの中からとりだした。 「これ、百五十円のくせにリンゴがいっぱい入ってるんだ。こんだけいれてれば、二百円か二百五十円ぐらいはとられてもいいぐらいなんだけどね」 どうしたの、ともう一度おなじ言葉を、愛美は遠慮がちにいった。 「正紀くん、いつもと……ちがうね」 手にもったパイの包みに視線を落として、黙りこんでしまった。 愛美もそれ以上はなにもいわなかった。 蝉の声と木々のさざめきが、ガラスをはさんで遠くに聞こえている。 そうしてふたりとも、しばらく黙ったままだった。 「……ひいばあちゃんが、死んだんだ」 「……え?」 ひと呼吸おいてから、愛美にほほ笑んでみせた。 「昨日の朝、ひいばあちゃんが死んだんだ。老衰でね。九十八歳の大往生さ」 愛美の目がかすかにゆれたことを見逃さなかった。 愛美はこちらへむけていた顔をふせ、遠くに聞こえる蝉の声にもかき消されそうなほどの声で一言だけ、ごめんなさい、といった。 「いや、いいんだ。別にあやまらなくても。ただ、君にこんなことをいっていいかどうか迷ってただけなんだ」 アップルパイをサイドテーブルにおいて、愛美のほうへむきなおった。 「……不謹慎かもしれないけど、あんまり悲しいっていう気持ちじゃないんだ。なんていうか、ああ、こんなもんか、っていうあっけない感じなんだよ。むかし飼ってた犬が死んだときは涙がぼろぼろ出てきたのに、今回はぜんぜんそんな感じじゃないんだ」 また、窓の外へと視線をむけた。 「おれ、ここへくる途中、電車の中で一人のばあさんを見たんだ。……いや、まったくの他人なんだけど。高島屋の手提げ袋をかかえて、わきに杖をおいて、シートにすわってた。それで、むかい側にすわってる親子連れの騒いでるガキをじーっとながめてるんだ。おだやかな笑顔っていうのはこういうものだ、って顔してな。そんとき、なんの脈絡もなくふと思ったんだ。ああ、このばあさんにも人生ってものがあるんだな、って。……それでさ、ひいばあちゃんはどうだったんだろう、幸せな人生だったんだろうかって、考えてたんだ」 あいかわらず、蝉は鳴き続けていた。 「でもま、慣れないことはするもんじゃないな。いくら考えたってそんなもん、本人以外にわかるわけないもんな」 照れ隠しに時計を見ると、六時半を少しまわっていた。 「さて、そろそろ帰るよ。……今日は悪かったな。暗い話ばっかりで。んじゃ、またくるから」 そういって腰を浮かしかけたとき、愛美が正紀の手をとった。 「まって、正紀くん。……しばらく、会えなくなるの」 「……え? 会えなくなるって、どうして?」 「うん、わたしね、骨髄移植を受けることになったの。それでね、しばらくのあいだ、無菌室っていうところに入らなくちゃならないの」 「それじゃあ、治るんじゃないか! で、いつ退院できるんだ?」 「無菌室から出られるのが、経過がよかったとして、だいたい二カ月ぐらいだって。だから、退院はそのあとになると思う」 「そうかぁ、あと二カ月かぁ。やったなぁ。……そうだ。退院したら、ふたりでどっか遊びにいこう。な」 いつのまにか握っていた愛美の手を、われ知らず自分の両手でつつみこんでいた。 愛美はうつむきかげんになってこたえた。 「……うん」 「二カ月なんてあっという間だ。気合いいれてがんばれよ」 愛美の手をはなし、勢いよく立ちあがってカバンをひっつかんだ。 「無菌室からでたらまたくるよ。大丈夫、いつでるかはかあさんに聞けばわかるから。じゃあな」 ドアを開けて愛美に笑顔を渡すと、はいってきたときとはうってかわり、軽い足取りで病室をでた。
火葬場の白い建物は宇治の街を見下ろす山の中腹にあった。 今、曾祖母の遺体は棺ごと高熱の炎に灼かれているはずだ。 親族たちは建物の中の待合室兼談話室のような広い部屋で話でもしながら、遺体が灼き終わるのをまっている。 正紀は一人で、白い建物の横にある墓地として分譲するために整地されたらしい丘の上から、中央に川が流れる宇治の街を見下ろしていた。 スーツの上着と黒いネクタイが、風にあおられてたなびいていた。 汗ばむというほど暑いわけではない。しかし、風は妙に心地よかった。 ここから見下ろす宇治の街は、普段と変わりがなかった。 車は砂時計の中を落ちる砂のように宇治橋の上を流れている。 電車が水で満ちたホースの中を走る気泡のように流れていく。 車や電車、工事の音が混じりあってできる轟音が遠くに聞こえる。それは遠雷にも似て、奇妙に静かに感じられた。 ふと足元を見ると、蝉の死骸が落ちていた。 しゃがみこんで観察してみると、腹部に大きな穴があいている。 無数の蟻がたかっていた。 蝉の腹の穴から小さな肉片をくわえてでてきた蟻は、近くの巣穴らしき暗闇に消えていく。 しばらくの間、飽きもせずにながめていた。 不意に蝉が鳴きだした。 ふりかえって、名も知らぬ山を見上げる。 木々が風にゆられている。 山から下りてくる音に、じっと耳を傾ける。 蝉の鳴き声は、とても力強く感じられた。 一瞬吹いた強い風で我に返った正紀は、もうそろそろ終わるころだろうと見当をつけ、建物へむかった。 中へ入っていくと、又従弟がからかうように声をかけてきた。 正紀はこたえるのが面倒だったので、別に、の一言で片づけようとしたが、邪険にされたことに気づいてか気づかずか、又従弟はさらになにかをいおうと口をひらく。 しかし又従弟の口がなにかをいうまえに、火葬場の職員が現れた。 「津村ミヨ様のご家族の皆様。只今よりお骨を拾いますので、こちらにお集まりください」 改めて見まわせば、正紀たちの親族のほかにふたつの親族がきているようだった。 職員の方へと正紀の親族たちが集まってきた。 今ここに集まっている曾祖母の子孫は、津村家長男夫婦とその一人娘(正紀の母)及び配偶者(正紀の父)、次男夫婦とその息子ふたりにそれぞれの配偶者と子供(正紀の又従兄弟、兄夫婦に息子ふたり、弟夫婦に娘ふたり)、津村家末娘(配偶者及び子孫なし)、の計十六人。ちなみに正紀に兄弟はない。 「皆様おそろいでしょうか。ではこちらのほうへどうぞ」 職員に案内された部屋はそれほど広くはなく、職員と親族たちだけで一杯になってしまう程度で、出入り口が二つあるきりの、白いコンクリートに囲まれた無味乾燥な部屋だった。 棺をのせていた白いコンクリートの台にまだ熱が残っているのだろう。部屋は乾燥した熱気で満たされていた。 熱もさめやらぬ台の上には、真っ白な人骨がのっている。 燃えつきてしまったのか、全身あますところなく、というわけではなかった。 頭骨、頸椎骨、脊椎骨、肋骨、右上腕骨、左大腿骨だけが残っていた。ただし、頭骨は顎の部分が燃えつきており、肋骨は右側の第八、九の二本のみで、右上腕骨の肘関節と左大腿骨の膝関節は残っていなかった。 骨の形をとどめていない部位は、新聞紙を燃やしたあとに残るものと似たような灰になっていた。 「きれいなお骨ですね。これほどの高齢者の方ですと、お骨がほとんど残っていないという場合もよくあるんですよ」 職員はあらかじめ用意していた、両手におさまるほどの白い壷をとりだし、適当にみつくろって、ひとつずつ骨を入れていく。 大きすぎて入りきらないものは、形を崩して入れていた。骨は乾燥しきっていて、少し力をいれると簡単に崩すことができるようだ。 職員はその間も骨についていろいろと話をし、愛想よく受け答えもしていた。 あとになって思い返してみると、職員の話のほとんどを聞き流していて、内容は記憶に残っていなかった。 ただ、骨の白さと、骨壷の小ささだけが、目に焼きついていた。
一週間もすぎるころには、すでに平生の生活をとりもどしていた。 そんなふうに感じるのは、日々の暮らしに流されているからかもしれない。 すくなくとも、両親はそのように見えた。二人とも仕事においまわされ、仕事以外に心を砕くゆとりがないのだろう。 しかし、正紀はそうではなかった。それどころか、曾祖母が死んだ日を境に、胸のうちになにかが居座りだしたように思えてならない。 特別大きなものではない。 ひとりで自転車に乗っているときなど、ふとしたはずみに思いだす程度のものだ。 あくる日も、そんなふうにして帰途についていた。 空が暗くなってからずいぶん時間がたっていた。それもそのはず、家についたときにはすでに十時をまわっていた。 また母に小言をいわれるのかと、少々げんなりしながらも玄関をくぐる。 自分の部屋にカバンをおいてから、着替えもせずに台所につながる居間に入っていくと、父がテレビを見ていた。母の姿は見当たらない。 「えらく遅かったじゃないか。どこへ行ってたんだ?」 「ちょっとカラオケに。かあさんは?」 「まだだ。制服のままでか?」 「うん」 父がさらになにかをいおうとしたとき、黒い電話がけたたましく鳴り響いた。 父は電話をひきよせる。 「晩飯、テーブルの上にあるぞ」 テーブルについて夕飯をかきこみ始めると、応対の声が聞こえてきた。どうやら母からの電話らしい。 口と手を動かしながら聞くともなしに聞いていると、父の声が急に低くなった。不審に思って顔をあげると、父と目があった。 「正紀、かあさんからだ。ちょっとかわれ」 口を動かしながら、はしを置いて受話器をとりにいく。気のせいか父の声は暗かった。 「もしもし?」 「ああ、正紀?」 電話の声は父の声よりも暗かった。 「かあさん? どうしたの」 「……よく聞きなさい、正紀。……愛美ちゃんがね、今さっき、……亡くなったわ」 「はぁ? なくなったって、なにが?」 「死んだのよ」 「だれが? ……愛美が?」 「……ええ」 「……うそ、だろ? 骨髄の移植で無菌室にいたんじゃなかったのかよ?」 「……とにかく、すぐにこっちへきなさい」 それだけいって、電話は切れた。 しばらく受話器を握ったまま呆然としていたが、父に声をかけられてわれに返った。 「どうするんだ?」 「あ、ああ。……病院へ、行ってくる」 ようやくそれだけいうと、制服のまま家を飛びだし、ほとんど貸し切り状態の電車に飛び乗った。 病院につくまでの一時間弱が、やけに長く感じられた。 冗談だろう。冗談であってくれ。 電車に乗っているあいだ中、それだけしか考えられなかった。 やっと病院までくると、入り口で母がまっていた。 近くまでいくと、母は無言で歩きだした。正紀はそれにならってついていく。 連れていかれた部屋は、通い慣れた部屋ではなかった。 部屋の真ん中にベッドがひとつ置いてあるきりで、他にはなにもなかった。 ベッドには人がひとり寝かされ、大きなシーツがかけられてあった。 無言で近づき、シーツをめくる。 女の子がひとり、横たわっていた。 いつも笑顔で迎えてくれた女の子だった。 ここまできてもまだ信じられなかった。 たちの悪い冗談だとしか思えなかった。 ふだんとかわりがない。 顔色もいつもとかわらない。 違うところといえば、笑顔で迎えてくれなかったということだけだ。 ただ、それだけだったのだ。 顔に触れようと、手を伸ばした。 頬は暖かく、やわらかい、ということを心の底から願った。 頬は硬く、冷たかった。 体中の体温がすべて吸い取られるのではないかと思えるほど、冷たかった。
「正紀くん? 正紀くんでしょう」 「あ……、どうも、おひさしぶりです」 夏の暑い街の雑踏の中でハスキーな声をかけてきたのは、四十前後の中年女性、愛美の母親だった。背の低い体をシックなワンピースにつつんでいる。 平均よりも身長が高い正紀は、自然と愛美の母親を見下ろすかたちになる。 「ほんと、ひさしぶりね。……お葬式の時以来だから、三年ぶりになるのかしら」 愛美の母親は逆光をかわすように手でひさしを作り、正紀をまぶしそうに見上げている。 「そうだ。今、いそがしいかしら? ちょっとお茶でも飲まない?」 「まあ……、いいですよ」 正紀は誘われるままに、手近な喫茶店に入った。 クーラーのきいた店内の冷気が、汗ばんだ体に心地よかった。 愛美の母親は注文をとりにきたウェイトレスにアイスコーヒーを二つ注文したあと、おしぼりを手にとった。 正紀は目の前におかれたグラスをとり、乾いたのどに水を流しこんだ。 「元気そうでなによりだわ。どう、おかあさんは元気にしてる?」 「ええ、四月から役持ちになったとかで、休む暇がないって愚痴ってます」 「それはそれは。じゃあ、おめでとうって伝えておいてくれる? ……ところで、全然話は変わるんだけど、正紀くん、なんかかっこよくなったね」 「……そうですか?」 「うん、ずいぶん落ちついてるわ。そうそう正紀君、大学に行ってるんだってね。学校は女の子もたくさんいるんでしょう。もてるんじゃない?」 「まさか、そんなことないですよ」 「そう? じゃあ、あなたのまわりの女の子は、見る目がないんだわ」 「あはは、よしてくださいよ」 「ほんとよ。おばさん、思ったことはすぐ口にだしてしまうんだから。……ところで正紀くんは、いま二十歳?」 「ええ、来月で二十一になります」 「そう。……あの子が生きてたら十八ね。なんだか、あなたのおかあさんがうらやましいわ……」 「……すみません」 「あら、ごめんなさい。そんな意味でいったんじゃ、ないのよ」 テーブルにおかれたアイスコーヒーにミルクをたらし、ストローでゆっくりかきまわした。 「そうそう。おばさんね、いま、生命保険の勧誘員をやってるのよ」 「へえ、いろいろと大変なんじゃないですか? いやな目で見られたりとか……」 「……どういう意味?」 「いや、うちの学校にそいうふうにいってるやつがいるんですよ。命を金で買うようなまねをしたくないとかって」 「ああ、なるほどね。……そうね。あの子が生きてるうちは、おばさんもそんなふうに考えてたことがあったわ」 愛美の母親はアイスコーヒーを一口飲むと、小さく息をついた。 「だけどね、違うの。なんていうか、それとこれとは全然別の話。次元が違うのよ」 店内に流れるクラシックが、潮騒のように聞こえる。 正紀はグラスをテーブルの上にのせたまま、わずかに傾けてみた。コーヒーに浮かぶ氷が、澄んだ音を響かせた。 「……そう、ですよね。なんとなく、わかる気がします」 そういってから、今度はグラスを口元に持ちあげた。特有の苦みと安っぽい甘さが、口の中に広がる。 「……ところで、正紀くんはこれからどうするの? もうすぐ卒業なんでしょう?」 「ええ、まぁ……いろいろと考えてはいるんですが」 それからひとしきり正紀のことを話題にされた。自分のことを話すのに多少の気恥ずかしさあったが、なにやらまぶしそうに目を細めている愛美の母親を見ていると、それ以上の抵抗はあまり感じなかった。 三十分ほど話をしてから、喫茶店をでた。 外はあいもかわらず灼けつくような暑さだった。 「それじゃ、これで」 「ええ、またお話したいわね。じゃ、またね」 暑い雑踏の中へ消えていく愛美の母親の背中をしばらく見送っていると、ふと、愛美の笑顔を思いだした。あれから三年がたっていたが、少しも色あせてはいなかった。 振り仰いだ空には、灼けつく日差しに照らされた雲がまぶしかった。 正紀は人の流れに踏みだした。 今日もまた、街の雑音のむこう側に、蝉の鳴き声が聞こえる。
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