|
クリエイター名 |
有川 |
サンプル
【スタート】
南中陸上部の朝練は七時に始まる。大島明はその三十分前に校門をくぐると、時期を過ぎた桜並木を駆け抜けた。 深緑色のトンネルの出口、陽と風を遮るものがないグラウンドの中央に、小柄な少年が立っていた。白いトレパンから伸びる長い脚には、瞬発力に特化した筋肉がついている。その右膝には、彼のトレードマークともなっている白いサポーター。 部長の伊藤陽一だ。 「おはっす、伊藤部長」 声をかけたが、伊藤は前を見すえたままだ。明は頓着せずに歩を進め、八十五歩目で彼と同じステージに立った。 「伊藤部長リベンジOKスか?」 シャレで伊藤と百のタイムを競ったのは昨日だ。まさかの敗退。明は悔しくて昨晩は一睡もできなかった。 「試合形式ならいいよ、副部長」 伊藤の切れ長の目は、グラウンド上の白いラインをなぞっている。 明は返事代わりに、ジャージの上着を脱ぎ捨てる。半袖のTシャツからむき出しになった太い二の腕には、鳥肌が立っていた。 「寒いならアップしろよ」 見当違いな伊藤の忠告に、 「いらないって。あ、伊藤部長はスパイクOKだから」 軽い調子で明は答えた。 とっさにつけたハンデは、柄にもなく緊張している自分への罰だったが、伊藤の顔からは血の気が引いていく。 「副部長は余裕だね」 スタートの体勢を取る伊藤の横に、明も腰を落とした。並ぶとよくわかる。伊藤は高校生と間違われる明よりひと回り小さい。公式で自分に勝てたことがない格下の相手。だが、うなじがピリッとする。嫌な感じだ。 「余裕は伊藤部長だろ。もうすぐ受験生のくせに」 「高校では陸上やれないから。今のうちに、やれるだけやろうと思ってね」 明は反射的に伊藤の白いサポーターを見た。故障した膝がそこまで悪かったとは――吐息と同時に、小学時代に使っていたあだ名が口をついて出た。 「いっちゃん、昨日は勝っただろ」 「明が油断したからだよ」 「今日はマジでやる」 低くうなって、伊藤を横目でにらみつける。 顔も頭も自分よりワンランク上。という幼馴染みに圧勝できるのは、陸上だけだ。 「マジでやれよ、明。俺が勝てたら、陸上はやめないつもりなんだ」 負けてもやめねぇだろ、いっちゃんは。 明は渋い顔のまま、スタートラインに指先をつく。朝露に湿った土の感触が気持ちいい。何があろうと、明は全力疾走するだけだ。ぐっと下腹に力を溜める。 「後で泣き入れるなよ」 「明が勝ったら、俺を泣かせた罰として次の部長だよ」 「…………っ!」 くそ、やられた。と思ったときには、伊藤のスタートの合図に地面を蹴っていた。
|
|
|
|