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クリエイター名 |
緋川 鈴 |
サンプル
『固執 ―Can you save her?―』
「―――ちがう」 地に倒れ、動かない少女。 「――じゃないよ、わざとだよ」 うずくまる影の傍ら、泣きじゃくる少年。 髪に触れて落ちる薄紅の桜。
私の瞳は、色を失くし、乾ききっていた。
「―――――っ!」 朝。声にならない声を上げながら、私は飛び起きた。湿った肌に服が貼りつき、寝覚めはおせじにも良いとは言えない。シャワーでも浴びようと床に足をついて、くらりとめまいがした。思わず手をついた床の冷たさが妙に心地よく感じる。 ……また、夢を見た。あれから十年も経つというのに。 動かない少女。泣く少年。私。空からは桜。 それは写真のフレームに収まったような景色だった。その中で、少年の瞳と、声が、私を捉えてはなさない。 普段は毎夜寝る前に考える。その時のことを思い出し、自分をきつく戒める。それを欠かしてしまった夜は、私は夢で責められる。
けして忘れたりはしないように。
ぼんやりと考えながら洗面所まで来て、初めて自分が泣いていることに気づいた。鏡の中の私は相変わらずの無表情のまま、頬に残った涙の跡と目の下のクマがいつもと違った。 べたべたした顔を水で洗い、少し硬いタオルで拭く。拭くたびちくちくするタオルは水をあまり吸わなかったが、目を覚ますには丁度いい。そうして涙の消えた後、鏡に映ったのは色あせた私の顔だった。 あとは習慣の行動だ。着替えて、朝食を済ませて、歯を磨いて、中学校へ向かう。つまらない、変わらない日常だ。 とはいえ日々に喜びを見出すことも、私は全く欲してはいないのだけれど。
昼休み。廊下を歩いていて、ふと壁に展示された桜の絵が目についた。そういえば、二年生は春休みに写生の自由課題が出ていたなと思い出す。時節柄か、何十枚も貼られた絵の中には桜を題材としたものが多かった。何となく窓から外に視線を移すと、中庭の桜はもう散りきってしまっていた。 桜を見ると、ことさらにあの夢が思い出される。夢というよりも、私にとって、それは昔の一場面。 それにしても、私は桜の季節には妙についてない。桜に恨みを買われるようなことでもしたかとさえ、思う。完全に思いこむほど自意識過剰ではないけれど。 桜が人を恨むなんて、そんな小さな事にこだわるとは思えない。桜というものはとても大きな存在で、私たちの世界から切り離されたような美しさで、人間のことなんてきっと視界にも入っていないのだから。 そんな取りとめのないことを考えながら、真新しい制服と次々にすれ違う。そろそろ授業が始まるのだろう、一年生のどこかのクラスも教室移動のようだ。その人並みがまばらになった辺りで、視界の端の光が弱まる。教室の電気を消し、出てきたのは黒い学生服に身を包んだ小柄な少年だ。彼は私を目にして、表情をこわばらせた。
あの子だった。
その瞬間、フラッシュバックする夢。 動かない少女。泣く少年。私。空からは桜。 その日まではずっと楽しかった。私と、少年と、その姉。三人は幼馴染だった。来る日も来る日も一緒に遊んでいた、その日々はもうおぼろげだけど、とても楽しかったことは覚えている。そして悪夢の起こったその日も、姉弟の家で三人は鬼ごっこをして遊んでいたのだ。 そんな中だった。 鬼の少年が追って来る。私は袋小路に追い詰められていた。だけど打つ手なしではない。私は知っている、小路の奥に門があることを。そこから逃げるために、私は大きな門のカンヌキと闘っていた。鬼の少年はまだ遠いが、声はだんだんと近づく。焦りを抑えながら作業に集中し、そして、カンヌキを外すのと、少年が私のいる小路に入ったのは同時だった。 後ろを振り向くと、桜の花びらを踏みつけながら走ってくる少年。何か叫んでいる彼に、私は笑顔を向けた。 勝った。逃げられる。そんな気持ちでいっぱいだった私には、彼の視線の先が私より少し上にあったなんて思わなかった。――気づかない私はそのまま、門を開けて。カンヌキを捨てて走り出し、だけどすぐ立ち止まることになる。後ろに聞こえた、何か重いものが落ちた音に。
それは、私が門を開けた拍子に門の上から落ちた、少女だった。
何でそんな所にいたのだろう。向こう側から門は開けられないから、よじ登って越えようとでもしていたのか。手元に集中していた私は気づかなかった。気づけなかった。 彼女に駆けよった少年は、必死そうに叫んでいる。少女の足は落ちる時に門の出っ張りで裂け、流れた血に薄紅の花びらが交じる。二色の濃淡の差に、めまいを覚えてくらりとした。 そこへ、騒ぎを聞きつけて彼の両親が駆け寄って来る。父親は病院へ電話をしに家へきびすを返し、母親は姉弟の傍らに走った。 「お父さんが救急車を呼んでくれるから。落ち着いて。お姉ちゃんは大丈夫だよ」 「でも……アイツが門を開けたから……!」 「むやみに人を責めちゃだめよ。事故だったんだから、」 「ちがう! 事故じゃないよ、わざとだよ! ぼく、見てた。アイツは笑ってたんだから!」 それは、鬼から逃げられると思った、から。 だけど魂が抜けてしまったかのように呆然としていた私は、何も言い返すことが出来なかった。私のせいでお姉さんが傷ついたのは事実で、あの子が目の前で泣き叫んでいるのもまた事実だから。 そこからどうやって帰ったかは覚えていない。
私の夢はいつも、そこで切れる。
その夢の中でいつも泣いている少年。目の前にいる彼は、今は眉を寄せ、何とも言いがたい表情をしている。 私は何か言おうとするが、うまい言葉は口をついて出ず、ただ焦りのまま声を発する。 「……入学。おめでとう」 「――笑うな」 押し出されたのは、低い声。成長して声変わりしたから当たり前だけど、夢の中の声とは違う。でも変化はそれだけじゃないようで、何やらどこか苦しそうにも思えた。 そして、遅まきながら彼のセリフの中身が脳に渡る。 ……私は『笑って』る?
そう 見えるんだ。ちゃんと。
「笑うなって言ってるんだ、少なくとも俺の前では、」 その声に、ぼうっとしていた頭が現実に引き戻された。 「姉さんは気にしてないって言うけど、足にはあの時の傷が残って…っ!」 目の前の少年は、顔を伏せていた。 「アンタのせい、なのに……」 ただ握られた拳が、彼の心情を語っているように見え、 「気づかなかったなんて言い訳だ……わざとだったくせに!」 口調が荒げられ、しかし声の大きさが抑えられていることが、彼の高まった熱をより強く感じさせた。 「……恨んでやる」 少し間が空いてから、彼の顔が上げられる。 「姉さんの傷が消えるまで、ずっと、恨んでやるから…!」 最後に向けられた強い、まなざし。 鋭く睨んだ残像を私の脳に刻んで、少年は走り去った。 足音が消えると、廊下には私だけが残された。少し遅れて響いたチャイムの音に、私も動き出す。走っていく生徒に追い抜かされながら、胸にのしかかった重みを体に受け入れさせてゆく。 ああ。桜の季節になるとついてないのも仕方ない。 これもきっと、戒めなのだ。 あの子を泣かせる、私への、罰だ。
と、名前を呼ばれた気がして振り返る。そこにはすまなそうな表情の少女がいた。あの子の姉だ。 「……ごめんね。あの子が」 「いえ」 優しい声が、本当に気遣ってくれているのがわかる。 それなのに私は、随分上手く喋れなくなったと思う。彼女が私の一つ上、三年の『先輩』になったり、『あのとき』から遊ばなくなったりしたせいか。もともとくだけた調子で話していた相手には、敬語を使うのが妙に気恥ずかしい。なんて、どうでもいいことばかりが頭の中を巡る。 「私は、気にしてないからね?」 「……ごめん、なさい」 ――それでも、駄目なんです。 ただの逆恨みと片付けることは出来ない。あの時のあの子にとって、笑顔を向けた私は悪魔に見えたに違いない。上に大事な姉が居るのに、構わず門を開け放ち、彼女を落とした悪魔。彼女に注意を払えなかった私。憎まれて当然だ。 そしてあの子に恨まれている限り、罪は消えない――。
ちくりと胸に刺さる痛みは、一つの矛盾を示している。
焼却炉のある裏庭に来るのが好きだった。誰も来ないしんとしたその場所は、私を溶け込ませてくれたから。寂れたその風景は、考え事をするのに丁度良い。 けれど、今日はその中にいつもと違う色を見つけた。 「……あ」 ―――あの子、の。 道端に何故か落ちている筆箱からこぼれた、図書カードに書かれた名前。それはあの子のものだった。周りを見渡すが、そこは私の取って置きの空間だ。普段から人なんてほとんど訪れない。きっとこれも窓から落ちたとかそういったものだろう。落し物なら、少し経てば彼が自分で取りに来るだろうか。……でも、もしかしたら帰ってしまったかもしれない。そうだったら、届けなければ。 そんな風に悩みながら歩いた道のりは、記憶の回路を掠めもしない。意識がはっきりしてきたのは、あの子の家の前に立った時だった。 ―――でも 私が行っても きっと … 仕方がない。 ただ黙って、郵便受けに入れていくだけ。それでいい。私が拾ったという事実など、必要ないのだから。 筆箱は、乾いた音を立てて郵便受けに落ちた。帰る時にちらりと家の窓の中に見えた少女の姿に、小さく会釈をして背を向ける。 ちくりと胸に痛みをおぼえるのは、そんな時なんだ。
どうしてだろう。 私が罪を感じる相手は、本当なら彼女のはずなのに。 どうして、私の中に残るのは彼の涙なんだろう。 どうして。 ……どうして、私が色を感じられるのは、彼に関してだけなんだろう?
目に映る総ての景色はモノクローム。 変哲のない時が過ぎて、私が卒業する時がくる。 校門まで歩く並木道、桜が舞い落ちてゆく。それはただ地面に降り積もる。人の手に拾われることはなかった。 すくわれない。 けして、救われない。 そんな事、望みもしない。――しないんだ。私は。 並木道の両側には、見送りの在校生が並ぶ。 高校に上がれば市外(そと)へ出ていくから、あの子と顔を合わせるのが必然の日々は今日で最後。だけど、彼の顔はいつもと変わらず、目を伏せ、退屈そうだった。私の前で笑うことは、ない。 卒業するこの時さえも。
―――ありがとう。
それを貫いていてくれるあなたに。 あなたに憎まれている間は。 私には、生きる理由があるから。
何の得にもならない私を、世界に繋ぎとめる戒め。 その鎖には、きっと自分から縛られた。 色あせた、つまらない私の日常の中で 確かにあなたの色は映えていた。
……なんて勝手。 そう、きっとそれは許されない。
(……それだけで生きる我侭を 誰か否定出来るとでも言うの?)
《了》
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