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クリエイター名  無言ダンテ
粉雪

 ふわふわと舞う粉雪を掌で受けると、それはしんと融けた。わたしはただそれをじっと見詰めている。
 どうしてだろうか、あの方が帰ってくるように思えてしまう。それは間違いなく妄想に過ぎないというのに。
 年も明けて年始の挨拶回りがやっと終わった。独り身のわたしはただ父と母の後ろで笑っていただけだが、行き遅れであったとしても花は花らしい。
 年始から「良い相手がいるのよ」と、縁起も景気もいい話もあったが、それは丁重にお断りした。
「寒いと思ったら、降ってきやがったな」
「そうですねえ。ですが風物ではありませんか」
 父と母が空を見上げながら笑っている。
 気風のいい父、優しく器量良しの母、わたしは両親に恵まれていると思う。父と母はあの方のことを知っているから、わたしに無理な縁談は持ってこない。
 わたしはあの方のことをずっと忘れきれずにいることを知っているから。
「今日はこれからどうするんだ、お前」
 父がわたしを見ながらそう言った。もう随分と想い人すらいない。
 頬を掻きながら笑うと、父は「なんでえ、また女友達かい」と豪快に笑い飛ばしてくれた。今はその無遠慮な豪快さに救われた気になる。
 また掌に粉雪を受ける。今度は少しの間だけ形を残していてくれた。どうやら掌がかじかんでいるらしい。
 わたしはゆっくりと融けていく粉雪を見詰めていた。どうしてだろう、新年なのにこんなに悲しいなんて。
 いつの間にか歩みが遅れていたらしい。少し先で父と母がこちらを向いて待っていてくれた。
「どうしたの」
「帰って雑煮でも食おうや、なあ」
 父と母の優しさはあたたかくて、そしてあまりにも苦しかった。



 質素な御節と雑煮を食べた後、わたしは友人と初詣に向かうという口実で家を出た。母に着付けてもらった着物。その柄と色が以前に比べて随分と落ち着いたものになった。母が食べ物と交換せずに残していてくれた、大切な着物だ。それが似合う年令になったしまった。それだけ時が過ぎたということだろうか。
 友人を理由に家を出たのは、実家があまりに居心地がいいからだ。そしてその居心地のよさが時に辛く感じてしまう。
 父と母はあれ以来、ずっとわたしを大切に扱ってくれている。まるで柔らかい羽毛で撫ぜられている感覚は心地よくもあり、一線を引かれたように錯覚してしまうこともあった。
 何しろ寂しい身の上だ。擦れ違う家族連れや想い人との逢瀬から目を逸らす。わたしはただただ俯きながら歩いた。
 舞い散る粉雪、戦ぐ風は容赦なくわたしの熱を奪っていく。人々は皆、新年の希望に満ちていて、その姿が眩しくもあった。
 死亡通知書でも届いてくれたならば、きっと諦めも付くのだろう。それが届かないのは希望である以上に絶望だった。延々と繰り返す自問自答。出る筈もない結論に苛立つこともある。
 わたしはただ、逃げているだけなのかもしれない。あのお方だけをあいしているという言い訳をしながら、直面している現実からただ目を逸らしているだけなのかもしれない。
 戦争が終わってもう三年が過ぎたのだ。
 三年待って戻られないのだから、もう生きている筈もない。
 わたしは灰色の空を見上げた。それはまるでわたしの心を表現しているかのような、そんな景色だった。
 生きていると信じる希望と、生きている筈がないという諦観とに揺れ動くわたしの心の色。
 小さく溜息を吐き、わたしはまた掌に粉雪を受け止めた。ゆっくりと融けていく粉雪。
 わたしはあの方をあいしている。それだけは嘘偽りのない心だ。ただ、こんなあいし方は卑怯だと思う。心の中にいるあの方はいつも優しい笑顔を浮かべてわたしを抱き締めてくれる。
 でもそれはわたしの中に生きている都合のいいあの方ではないのだろうか。
 父と母がただ見守ってくれているのも、きっとわたしが心の整理をつけるのを待っていてくれてるのだろう。
 でも、わたしには分からない。あの方を忘れて生きたとして、わたしは後悔しないのだろうか。
 わたしの足は近くの古い神社に向いていた。今年はまだ初詣に行っていない。近くの神社を選んだのは、大きな神社だと参拝客が多くて、独り身には辛いからだった。
 自分が独りだと実感する度に、わたしはただ心の中にあの方を思い浮かべ、少しの安堵感に浸った。
 戦地に向かい戦争が終わっても戻ってこられなかったあの方。この場所でわたしに、「必ず戻って参ります」と約束してくれたあの方。
 わたしはまだ待っています。
 心の中で何度呟き、祈り偲んだだろうか。
 戦地から戻ってこないのだから、もう死んでいるはずなのに、わたしはそれを受け止めることが出来ずにいる。
 粉雪はうっすらと積もりつつある。この辺りはあまり雪が降らない。普段より寒いからだろうか。
 薄っすらとした雪化粧は濃緑に映える。そう言えばあの方が出兵した時も、こんな風に粉雪が舞っていた。掛ける言葉が見つからなかった。どうすることも出来ず、ただあの方の前で不安に押し潰されていた。
 そんなわたしにあの方は、「お元気で」とだけ言った。結局、わたしはあの方に「あいしています」と言って貰えなかった。その頃のわたしは確かに小娘に過ぎなかったのだから、仕方がないと言えばそうなのかもしれない。
 心は繋がっていたと信じている。
 だけど、不安はどうしても消せなかった。
 わたしは、どうすればいいのだろうか。あの方を忘れていいのだろうか。いや、それ以前に振り切れるのだろうか。
 小さく溜息を吐き、わたしは鳥居を潜った。お手水で手を洗い口を漱ぐ。凍てた水はあまりにも清らかで肌を刺す。
 さすがにこの古い神社に初詣に来る物好きはいないようだ。いや、賽銭箱の前に一人いた。その男性はどうも足が悪いらしく、杖を付いている。
 わたしは顔を伏せながら歩く。できればここでは一人でいたかった。他の誰にも会いたくなかった。独りでならば思い切り泣ける。思い切り泣けばまた一年、前を向ける気がする。
「印度より、ただいま帰りました」
 とつとつと耳に届いた懐かしい声。それは信じられない事実を告げていた。わたしはゆっくりと顔を上げる。そこには以前よりも痩せ細った彼が、真剣な表情で屹立していた。
 粉雪が舞っている。それはわたしの掌に落ち、そしてゆっくりと融けた。
「待たせてしまい、申し訳ありませんでした。独立に助力する為、戦後も印度に残っておりました」
 彼はただ深く頭を下げた。
 ゆっくりとゆっくりと、凍てたはずの心が火照っていく。溢れるかと思った涙は不思議と溢れず、わたしはただ彼の傍に寄り胸に身体を預け、耳元で小さく小さく呟いた。
「お帰りなさいませ」
 粉雪が舞う。触れる肌があたたかい。
 待ち侘びることもきっと、不幸せではないのだろう。
 わたしと彼の上に、ただ静かに粉雪が舞っていた。
 
 
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