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クリエイター名  無言ダンテ
鈍感ノルマ

 封が切られたランチボックスには、小さなサンドイッチが十切れほど収められていた。
 それはたった五切れだけなのに、僕にはとても重いものだった。

 文字だけで自分の気持ちを伝えるのは難しいことだと思う。特に伝える相手との関係が微妙であればあるほどに、その文章表現も微妙なものになり、結果として核心からは遠のき確固たる確信を得られなくなる。
 そういう意味でいえば、文字は口頭で伝える言葉と比べて、何と不完全で不都合なものなのだろうか。口頭での言葉は、それ単体だけではなく、そこに語気や表情、態度など、様々な要因が加わり、言葉に深い意図を持たせることができる。
 だが読書が好きな彼女にとっては、僕の文章は直接的過ぎて安易なものであるらしく、そして馬鹿な僕には、彼女の文章は意味深過ぎてその意図を探ることは難しかった。
「話があるんだが」
「別にかまいませんけど」
 気は弱そうに見えるし言葉尻のひとつひとつは丁寧で棘はない。ただ、だからといって彼女の態度には鋭い棘があった。視線を逸らし口を尖らせている。
 夏休みもあと数日で終わるというのに、外は相変わらず無駄に暑い。だが、日当たりの悪い場所にあるこの図書室はひんやりとしていた。まるで今の僕らの関係のように。
「それ、ノルマですからね」
 彼女は十切れのサンドイッチを半分に分けてそう言った。
 僕が顧問を務めている文芸部の部員の多くは幽霊部員で、彼女は数少ない実体のある部員だった。というよりも、文芸部としての活動をしている生徒は、彼女の他には半幽霊部員である彼女の友人くらいだ。その友人も現在、家族で海外旅行に出掛けており、夏休みが明けるまでは彼女と二人きりだ。
「君は一線を引いてと言ったよな」
「はい」
「それはつまり、僕はそういう相手に過ぎないってことなのか」
「あなたは教師で私は生徒、超えてはならない一線がありますから」
 半月ほど前から、急によそよそしく接するようになった。頻繁だったメールのやり取りすらも途絶えがちになった。心配になり「どうしたのか」とメールすると、「勉強が忙しい」とだけ返信があった。
 メールの文面から好意を感じたこともあった。僕なりに気持ちを伝えたりもした。過ちと知りつつも、身体を重ねたこともある。勿論、教師としては失格だと分かっている。ただ、僕にはそれだけ彼女が大切だった。
「友達に『本当は犬なのに、猫の真似はやめろ』って言われました」
「どういう意味だよ」
「首輪なんかされたくありません」
「君を束縛した覚えはないよ」
 いつも使う駅の近くに美味しいサンドイッチを売っている店がある。かなり昔からある店で、地元の人間に愛されていた。今日の昼食に食べようと考え、そのサンドイッチと缶コーヒー、フレッシュジュースを買ってきた。
 暑さが苦手なせいなのか、それともこの煮え切らない気持ちのせいなのか、食欲が沸かない。その上にこんな会話では、食欲なんぞ消え失せてしまう。
 溜息を吐いて、缶コーヒーのタブを開けた。最近はこの無駄に甘い缶コーヒーで命をつないでいるようなものだ。
「でも、彼と一緒にいる時の私は、まるで子犬みたいに嬉しそうに振ってる尻尾が見えるって」
「えっ」
 彼女は俯きながらサンドイッチを手に取り、それを口に運んだ。その姿を見て、僕は言葉を失った。全身から血の気が失せていくのが分かった。
「夏休み前から気になってる人がいるんです。友達はきっと、それに気付いていたんだと思います」
 お願いだから、僕ではない、他の誰かのことを、そんな切なそうに話さないでくれ。
 天井を見上げて目を瞑る。彼女より随分年上なのだから、最後くらいは情けない姿を見せずに別れたい。
「そうか」
 小さく呟いて、僕はサンドイッチに手を伸ばす。一切れ手に取り口に放り込んだ。美味しいはずなのに味がしない。彼女のサンドイッチは三切れほど減っていた。
 それがそのまま、僕と彼女の温度差のように感じた。
 私は別段、彼女の人生の邪魔をしたい訳ではない。僕との関係が、彼女の人生を壊してしまうというのならば、やはり離れるべきなのだろうと思う。そのくらいの分別はあるつもりだ。
 ただ、夏休みの前にそんな相手がいたというのならば、もっと早く、きっぱりと別れを告げてほしかった。僕がその男との関係を持てるまでのつなぎだったなんて、考えたくもなかった。
 その考え方はあまりにも卑怯だと思った。
 触れたぬくもりが虚実だったと思いたくない。交わした言葉が嘘だなんて考えたくない。記されていた好意までもが偽物だったのだと、確信まで得たくはない。
 だが、彼女を責める気にはなれない。彼女の言うとおり、僕と彼女は一線を引くべきだという点については、否定のしようがない事実だからだ。
「でも、それでも」という想いのそれすらも、彼女にとっては邪魔でしかなかったのかと思うと悲しくなった。
「その男って、どんな奴なんだ」
 せめて、この心の奥底から湧き上がった激しい怒りをぶつけることができる相手がほしかった。彼女以外の誰かで。それならば、僕にとってはその男が最も相応しいだろう。
 その言葉を聞いた瞬間、彼女は冷たい視線を僕に突き刺しながら、まるで呆れたような深い溜息を吐いた。
「たった五切れのサンドイッチのノルマも食べきれない人のことです」
 正直、そんな彼女は初めて見た。少し拗ねたように唇をつんと尖らせて、軽く頬を膨らませて。やはり呆れたかのような冷たい視線を僕に突き刺していた。だが、それはどこかあたたかい。
「えっ、あ、ちょ、ちょっと待って。それってどういう意味だよ」
 彼女の肩を掴んで、その顔を見詰めながら問い質してしまう。彼女は眉を寄せながら「鈍過ぎです」と僕の頭を軽くと、ランチボックスからサンドイッチを一切れ手に取り、僕の口へと押し込んだ。
「だから、今は一線を守ってください。あと、ちゃんとご飯は食べてくださいね」
 僕は頭を掻きながら「面目ない」と小さく告げて、残りのサンドイッチも口に押し込むと缶コーヒーで無理矢理流し込んだ。
 甘すぎるコーヒーが気管に入って、思わずむせてしまった。
 そんな僕を見て、やっと彼女は笑ってくれた。
 
 
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