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クリエイター名  佐伯ますみ
サンプル1 ホラー

『椅子の下』


「わんわん」
 一歳半を過ぎた息子が話す言葉のうち、よく口から飛び出すのがこれだ。
 犬はもちろん、他の動物や魚、キャラクターとして顔がある飛行機など、「人間以外の生物らしきもの」全般に対して使われる。
 最近、それらしきものがない空間に向かって「わんわん」と言うようになってきた。今もまた、空間を指差して「わんわん」と笑っている。一瞬、犬の霊でも視えるのだろうかと思った。しかし、「生物らしきもの」全般を「わんわん」と言っていることを考えると、つまりそこには必ずしも犬がいるわけではないということになる。
 では何なのか。「生物らしきもの」であればいいのだ。実体を伴うものである必要はどこにもない。ましてや、一歳半を過ぎたばかりの息子に現実と非現実の区別がつくわけがない。否、視えているのならば息子にとっては全て現実なのだろう。
 子供は幼ければ幼いほど、大人には視えないものが視えるという。恐らくそれは「霊」ではなく、「妖精」や「精霊」の類なのだろう。だとすれば、今息子が視ているものは、そういったものなのかもしれない。
 まだ寝返りもうてないころ、天井を眺めてはにこにこしていた。手を伸ばして何かに触れようとしていた。「妖精さんがいるの? お友達が来ているの? 楽しくていいね」などと、私はよく声をかけたものだった。
「そこにわんわんがいるの? お友達? 妖精さん? よかったね、遊びに来てくれたんだね」
 わんわん、わんわん、と言い続ける息子に、以前と同じように声をかける。息子は嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見ていて私はあることに気がついた。リビングからキッチンに向かって――しかも同じ場所に向かって言っていることが多いのだ。つまりそこにいることが多いのだろうか?
 息子を見つめていると、息子はおもむろに立ち上がり、「わんわん!」と歓喜の声を上げながらキッチンへ駆けていった。そして、踏み台代わりに置いているドレッサーの椅子の近くまで行くと、はいつくばって下を覗き込み、「わんわん!」ともう一度言った。
 椅子の……下?
 そういえば、いつもこの場所に椅子を置いている。この場所を指差さないときは、やはり椅子もこの場所にはない。息子が指差した場所に置いてある。
 椅子の下に常に何かが……いる?
「そろそろ行こうか」
 私が椅子の下を凝視していると、夫が声をかけてきた。そうだった、本屋に行くところだったんだ。私は気を取り直して準備をし、夫と息子と三人で本屋へと向かった。
 息子が自分で歩きたがるので、本屋の中で息子を解放する。すると、絵本コーナーに走って行き、ある一点を指差して言った。
「わんわん!」
 犬か何かの絵本でもあるのだろうかとそこを見ると、そこにあったのは、大きな椅子の絵だった。しかも店員の手描きと思われるそれは、キッチンに置いてあるものに形がよく似ていた。
 やはり、椅子の下に何かがいるのだ。
 息子はそれを覚えているから、キッチンの椅子によく似た絵を見て「わんわん」と言ったに違いない。夫も同じことに気がついたらしく、不思議そうな顔をしていた。
 その夜、息子を寝かしつけて寝室から出ようとしたとき、少しだけ開けておいたふすまの隙間から、何かが覗いていることに気がついた。
 一瞬だけ視えたそれは、顔の大きさは新生児くらいで、目はまん丸で顔の半分を占めるくらい大きい。髪はよくわからなかったが、緑色の帽子をかぶっているように思えた。小さい鼻、小さい口、とがった耳、五頭身くらいの身長。身体は細身で、服は良くわからなかったが、長袖に長ズボンで見たことのないようなデザインだった。
 そして、宙に浮いていた。
 何? 今のは。
 私は気になりつつも、特に深く考えはしなかった。息子が視ている存在なのかもしれない、と漠然と思ってはいたのだが。
 翌日、また息子が椅子の下を覗き込んで「わんわん」と言っている。昨夜視たあの存在なのだろうか? 息子の様子を見る限りではとても楽しそうなので、害はないだろうと判断した。昨夜視たときも、それほど怖さを感じなかった。
 しかし、息子が昼寝をしているとき、私はまたふすまの隙間で視てしまった。
 やはり一瞬で消えてしまったが、今度はとても禍々しい笑みを浮かべているのをはっきりと視た。
 ……駄目だ。
 あんなものと遊んでは駄目だ。
 私は息子をどうにかしてアレから遠ざけようと考えた。だが、息子がアレを視ているときは私には視えない。私に視えるのは息子が寝ているときだ。息子の様子を伺うかのようにしてふすまの隙間に顕れる。対峙しようにも、一瞬で消えてしまうのだからどうしようもない。
 アレは「霊」だとは到底思えなかった。「妖精」や「精霊」なのだろうが、邪悪な部類に入るものだろう。だが果たして、純真無垢な子供に近づけるのだろうか? 取り入る隙はあるのだろうか? あるとすれば、やはり友達を装うしかないのだろう。
 アレは息子の前ではどんな姿をしているのか。
 私の前では宙に浮いている。いや、宙に「立って」いる。
 だが、息子は椅子の下を指差す。つまり、四つんばいになっているか、身体を縮めるなり小さく変えるなりしているはずだ。それこそ「わんわん」、つまり犬のような姿になっているのではないだろうか。
 そうして笑顔で近づいてくる息子に、愛嬌を振りまくのだ。
 だが今はまだ、息子は何もわからない。時間をかけてコンタクトを取るのかもしれない。だとすれば、寝返りも打てないころに天井にいたと思われる存在も、アレなのか?
 そんなにも前から、アレは息子を狙っているのか?
 息子に何をしようとしているのだ?
 私は鳥肌が立った。椅子の下を覗き込んではしゃいでいる息子を強引に抱き上げ、椅子の見えない部屋へ移動する。息子はきょとんとしているが、アレと引き離されたことを特に嫌がるわけではなかった。
 良かった、まだそこまで執着はしていないようだ。もしこれで泣かれでもしたら、アレの思う壺だ。
 しかし、どうやってアレを遠ざければいいのか、私にはわからない。
 私に出来ることといえば、アレの存在を認めつつ、アレと極端に仲が良くならないよう監視し、常に息子とコミュニケーションを取ることだ。そして、もっと楽しいことを沢山教えてやることだ。もう少し大きくなれば、アレについて言い聞かせることだって出来る。
「わんわん!」
 息子がまた叫んだ。私の腕をすり抜けてキッチンに走り、再び椅子の下を覗き込む。
 よし、じゃあ、私も一緒に。そう思い、息子の隣に座って椅子の下を覗き込んだ。
「お友達、お母さんにも紹介して」
 そう言った瞬間、椅子の下にアレが顕れた。
 顔だけはそのままで、身体は犬のそれだ。
 そして、あの禍々しい笑みを息子に向けている。
「へえ、これがお友達なんだね」
 負けるものか、そう思い、私も息子に笑顔を向けた。
 息子も私に笑顔を向ける。
「……ひ……っ」
 私は思わず悲鳴を漏らした。
 そこにあったのは、アレと同じ笑顔だったのだ。
 アレと息子は、同じ笑みを私に向け、くすくすと笑い始めた。
「わんわん」
 息子がアレを指差し、もう一度だけそう言った。



    了
 
 
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