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○『黒き翼〜シリウス〜』
光あれば、必ず陰も存在する。 それが自然の摂理であり、この世の理(ことわり)なのだ。 世界にせよ、人間にせよ。 良い部分、悪い部分。正と邪。善と悪。陽と陰。 それが巡り巡って、この世の全てを創り出しているのだ。
北を向けば、いまだ自然の恵みに満ち溢れた山々。南を見れば、美しくきらめく海。……雄大な自然に囲まれた街、神代市(かみしろし)。街を見下ろす丘陵部には、この街のシンボルともいえる、私立静風(せいふう)学園の校舎群が並んでいる。 北の山の東部には、巨大アミューズメントパーク『神代テクノランド』があり、市や県の内外を問わず遠方からも大勢の来園者を集めることで有名である。南に広がる海は、日本の沿岸の海にしては蒼く澄み渡っており、海水浴シーズンともなると多くの行楽客で賑わう。 市内の整備は行き届いており、都市と自然の景観を損ねないようにという市の方針に乗っ取って開発が進められているので、古くからある由緒ある建物や自然が残されるように区画整備がなされている。 ――と、このように言えば聞こえはいいが、世界の先進国のトップクラスである日本の近代化の波は、この街にも押し寄せて来ている。緑の草が生い茂っていた空き地には、増加する人口に対応するために住宅が立ち並ぶようになり、自然保護を掲げている市の方針とは二律背反して自然を削りコンクリートの無機質な高層ビル群が立ち並ぶ。 削られた自然の代償はどこに来るのか。――それは他ならない、街自身に返って来るのだ。 自然を削られ、棲息する数に反比例して餌場の少なくなった鴉が街に舞い下りて来て人間達の出した生活廃棄物・生ゴミを突つく。すると、鴉の食い散らかした生ゴミが路上に散乱する。「カァー、カァァー」と多くの人間達にとっては、不吉な予感と不快感をもたらす鳴き声が深夜から明け方にかけて響く。深夜にまで鳴き声が響くのは、ゴミを出す時間を守らない者が少なからずおり、そのゴミを求めて鴉達が舞い下りるからだ。 その鴉達が生ゴミを突つく朝靄(あさもや)のかかった風景の中、一人の青年がまだ店の閉まっている繁華街を歩いていた。朝靄のかかった風景は、全体的にグレーの鈍色の色彩を放っている。そこに散乱した生ゴミが妙にケバケバしい色の絨毯のようにアスファルトに広がっていた。 ガサガサと鴉の開けたゴミ袋の中からビニールゴミが風に吹かれて路上を舞う。そんな風景の中で青年は立ち止まって懐からシガレットケースを取り出す。慣れた仕草で煙草を一本取り出すと口にくわえてオイルライターの蓋をカチンと音を立てて開ける。ボッと音がしてオイルライターに火が点されると、その炎に敏感に反応した鴉達が耳障りな鳴き声とともに飛び立つ。 煙草に火を点した青年は、ゆっくりと紫煙を吸い込み、そして吹き出す。朝靄の中に淡い紫色の煙が立ち、やがて空気の中に徐々に薄らいで消えてゆく。その紫煙のフィルター越しに街の風景を見ながら青年は心に思う。 (――混沌とした街だ。正と邪、光と陰、人と人の思惑が渦巻き巨大な戯画を描いている) 戯画。そう、戯画である。滑稽なことこの上ない。人はこれだけの文明を築き上げても自身の感情や欲望を制御し得ないものなのか。大いなる大自然の前では、人間の理性など、ほんの小さなものにしか過ぎないのだろうか。その大自然にすら、人間は果てしない欲望の牙を剥こうとする。愚かなことだ。昔の人々は、この大自然の力を畏れ敬い決して逆らおうとはしなかった。それが正しいのだ。人と自然とは共にある。切っても切れない縁で結ばれている。 だが、まぁ良い。彼自身もまた、この人間の欲望渦巻く世界で糧を得ている者の一人なのだ。 ――殺し屋。人は彼を呼ぶときに、そういう言葉を使う。血も涙も無い、冷徹非情の悪鬼。金さえ払えば、どんな権力者や金持ち、一般人、果ては妖魔までに平等に死を与える。裏の世界での評価はそうだ。『シリウス』と言えば、裏の世界ではちょっとは名の知れた殺し屋だ。 本名、ではない。字(あざな)だ。本当の名など、当の昔に忘れた。シリウス、という自身を表す言葉だけがあればそれでこと足りる。先ほど飛び立った鴉達が再び路上に舞い降り、生ゴミを啄ばんでいる。白と黒とグレーの鈍色の色彩の風景の中に、彼自身の黒髪、黒スーツに黒ネクタイの姿は良く馴染んでいた。黒き葬送を告げる使者。誰がそう呼んだのかは忘れたが、それも似つかわしいかも知れない。 その黒き葬送を告げる使者にも、彼なりの流儀というものがあった。納得のゆく金額と納得のゆく理由。その二つだ。人に代わって殺しを行うという危険極まりない仕事を行うのだから、最低限の代価は払ってもらわねばならない。それが、金と依頼者の殺しの理由の告白だ。それが納得のゆくものであって、初めて利害が一致し、取り引きが成立するのだ。 フィルター付近まで短くなった煙草を路上に捨て、足で揉消す。懐を探り、シガレットケースを取り出す。慣れた手付きで再び煙草を取り出して口にくわえる。道ゆくサラリーマンが急ぎ足で通り過ぎてゆくが、お互いに気にも留めぬまま、彼は煙草に火を点す。煙草を吸い気分がリラックスするのも良いが、漂う紫煙の流れの中に身を置くのも心地良い。紫色の煙が風景に微妙なコントラストを加えてくれる。まるで交響曲の旋律のように紫煙は流れゆき、空気に混ざって消える。 一人の老人が紫煙のフィルター越しに近付いて来るのが見えた。老人は大きめのバックを肩に掛けており、いささか歩き辛そうによろよろとおぼつかない足取りで歩いて来る。やがて彼の側に来ると、しゃがれ声で話し掛けて来た。 「お若いお兄さん。良い物が揃っているよ。おひとついかがかね?」 老人はバックを降ろすと、中からビデオテープを取り出した。その内の一本を彼の方へ差し出す。 「これなんか、えらいべっぴんさんの物でな。お安くしておくよ」 老人は「ふぉふぉ」と笑いながら言う。鴉の鳴き声が朝の空気を裂くように聞こえている。 「……いただこう」 シリウスは言い、千円札を二枚、指に挟んで老人の顔の前に差し出す。彼はビデオテープを受け取り、二枚の千円札を老人に手渡した。 「毎度あり」 老人は短く言うと、来たときと同じくよろよろとおぼつかぬ足取りで去っていった。その足元では、鴉が生ゴミを突ついていた。 『仲介屋』と呼ばれる者達が裏の世界には存在している。名の通り、様々な裏の仕事を行う者達と依頼人との間を取り持つ仲介業者である。仲介屋は裏の職業ではあるが、その性質上、表の人間達にも顔や名前を知られている。彼らは依頼人と連絡を取り、その依頼内容が最も適すると思われる裏の者達との橋渡しをするのだ。中には名指しのものもあり、その場合はその裏の者との連絡係となる。 今の老人はシリウスの良く知る仲介屋であった。先ほどのやり取りも隠語で、依頼を持って来たということを示すものだった。受け取ったビデオテープには、依頼内容が録画されているはずである。 彼はラベルの貼られていないビデオテープを左手に持つと、紫煙を巻きながら朝靄のかかる鈍色の風景と生ゴミの絨毯の上をゆっくりと歩き出した。
明け方の繁華街を通り抜ける。ファーストフード店などは早くも店を開いており、家で食事を採らない習慣であろう、サラリーマンやOLがそれなりに入っている。飲食店の一部は、朝の仕込みのためにシャッターを半開きにして荷物を出し入れしたり、清掃を行ったりしていた。それらの風景は目には入って来るが、特に興味もそそられないままに脳裏を過ぎ去ってゆく。興味の無いものには無論、感銘を受けることが無い。そういった意味においては、シリウスにとってファーストフード店のささやかな賑わいも飲食店の仕込みの風景も、生ゴミを啄ばむ鴉以下の存在であったかも知れぬ。 繁華街を通り抜けて住宅街に出ると、道をまばらにゆくのは、朝が早く暇を持て余して散歩している老人と犬の散歩をしている主婦などになった。 老人は呆けたように所在なさげに杖をついてゆっくりと歩いている。特にどこへ行くという目的があるわけではないのだろう。ただ、単に歩いている。呆けたような視線からは周囲に対する興味なども伝わっては来ない。平和、であるのか、このところの若者達の無気力が老人にまで伝染しているのかは分からない。興味も無かったが。 茶色い毛並みを持つ芝犬を主婦が散歩させている。片手に不透明なビニール袋を持っていることからして、飼い犬の糞は自分で始末しているのだろう。飼い犬の糞すらも始末するのが嫌だという者は、初めから犬を飼わないほうが良い。良いところも悪いところも含めて生き物と暮らすことが飼うということだからだ。主婦は、近くを通る野良猫に向かって行こうとする犬をリール(犬の散歩に使う綱)を引いて引き戻そうとしている。野良猫に飼い慣らされている犬が飛び掛かったところで、軽くいなされるのがオチだろう。が、それ以前に血気に逸る犬を止めようとする主婦の姿には、子供の世話をするような愛情に満ちた飼い主の姿が見て取れた。 人影まばらな朝の住宅街をさらに進んでゆくと、ゴミ収拾業者のトラックが無闇に大きい轟音を響かせてゴミを回収しているのが見える。ゴミ収集業者のトラックは、人々の生活に無くてはならないものだが、その騒音と匂い、そしてゆっくりと徐行して行く歩みののろさから、人々からはあまり好感を持たれてはいない。シリウスも、必要であるのは分かっていても、すれ違うなら良いとして、ゆく道が同じになったときには流石に少々閉口する。その人の歩みと同じ速度で並ばれて追い越したり追い越されたりしながら、その耳障りな轟音と鼻につく匂いを歩く間中に嗅がされるのは、遠慮しておきたいところだ。だからと言って無下に扱うことも出来ない。生活に密接に関わり、必要な存在であるのだから、感謝しても良いくらいだ。そういった二律背反する思いをゴミ収集業者のトラックを眺めながら抱きつつ、今回はすれ違いになることに幾分安堵感を覚える。 朝靄のかかる閑静な住宅街をしばらく歩くと、最近新築された高級マンションの姿が見えて来る。上部が朝靄から突き抜けて、日の光を浴びて黄金色に輝いている。建築時には日照権などの問題で反対運動が付近の住民からささやかに起こったらしいが、去年無事に建て上げられた。建てられてしまえば、受け入れざるを得ないというのが実情であるらしく、付近に貼ってあった工事反対などのポスターなどは綺麗に取り外されていた。彼が今住んでいるのは、このマンションの一室であった。過去に周囲の住民と様々な軋轢を産んだらしいが、そういったことには興味の無いシリウスは、気が咎めることも無く、このマンションの一室に居を構えている。 入口の自動ロックのナンバーを入力して中へ入る。彼にはこういった機能は特に必要では無かったが、居住性を第一に考えて選んでいたら、付録のように付いて来たのであった。 エレベータで五階まで昇って、自らの部屋の玄関の前に立つ。キーを差し込んで回すとカチャリと軽い金属音がして鍵が開く。そのままドアを開けて中へ入る。郵便受けから取って来ておいた、経済新聞と通常誌をダイニングのテーブルの上に置くと、彼はリビングへと入って行った。 リビングは蛍光燈を点けるまでもなく、日の光が降り注いで明るく照らし出されており、その中にオーディオ機具やテレビ、本棚、丸い小テーブル、ソファーなどが目に入る。壁には彼の好みである印象派の画家の描いた絵のレプリカが架けられている。部屋の片隅には、アクアリウムが置いてあり、時々これらをぼんやりと眺めていると気分が落ち着くのであった。 彼は、上着をハンガーに架けてから、先ほどのビデオテープを丸い黒と白を基調とした小テーブルに置くと、再びダイニングへと戻った。店で挽いてもらって来たコーヒー豆の粉をコーヒーメーカーにセットして、水を注ぎ電源を入れる。しばらくすると、コーヒーのかぐわしい香りが部屋の中に広がり、彼の気持ちを落ち着かせてくれる。コーヒーは煙草と並んで、彼の嗜好品のひとつであった。 出来上がったコーヒーをカップに注いでリビングへと持ってゆく。そして、カップを小テーブルに置くと、ビデオテープを手に取ってビデオデッキにセットする。オート再生で回り始めるビデオテープ。彼はテレビのリモコンを手に取ってスイッチを入れた。 すると、逆光の中に一人の男が立っている風景が映像になってテレビに映し出される。逆光と画像の乱れから詳しい風貌は分からないが、その男はデスクに座って彼のほうを見ていた。 『やあ、シリウス。ご機嫌よう。今回も君に依頼することにした』 映像の中の男がシリウスに語りかけて来る。また、彼か。とシリウスは思う。彼は自らを『インスペクター(監視者)』と名乗り、このところ良くシリウスに依頼を持ち掛けて来る。その報酬と理由は今まではシリウスの納得のゆくものであったので、全て依頼はこなして来た。それが彼の信頼を得ることになったのかも知れない。 『今回のターゲットは、神代市に住む美術商・鳴海泰三(なるみ たいぞう)だ。彼は、自らの美術館を神代市において経営しているが、その美術品の多くは法の網を縫って姑息に手に入れた物ばかりだ』 映像の中のインスペクターは淡々と説明する。殺しの理由についての部分の切り出しだろう。この告白を聞いて、シリウスは依頼を受けるか受けぬかを選択をする。 『ある者は恫喝され、ある者は不当な借金のカタに、ある者は暴力をもって美術品を奪われた。それだけでも唾棄すべき輩だが、最近はどこからか美術品の名目で手に入れた、妖魔が宿った呪い人形を使って目障りな者をことごとく消し去っている』 インスペクターの声はよどみ無い。冷酷とも取れるストレートかつ淡々とした口調で映像の中からシリウスに語りかけて来る。 『ターゲットは、この鳴海泰三とそれに手を貸すボディガード二名。それに妖魔が宿った呪い人形だ。それぞれに報酬を払おう』 人殺しの依頼をする者は、どこかおどおどしていたり自らの罪の意識をチラつかせているのが一般的だが、このインスペクターにはそれが無い。だが、かと言って依頼は依頼である。 『報酬は、三百万。依頼の受諾正否はいつもの方式。天に棲まいし狼よ。この法で裁けぬ、地に蠢く獣の明日を絶て』 そこで映像がプツリと切れ、テレビの何も映さぬ黒い画面だけが目の前に残る。 (……相変わらず、一方的な男だ) シリウスは目を伏せてしばし依頼内容を吟味する。 (――だが、悪くない) 彼は、両手を顎の下で組んでフッと笑みをこぼした。胸ポケットからヴィトンのシガレットケースを取り出して煙草を口にくわえる。オイルライターを開く「カチン」という音が無音だった室内に響く。煙草に火を点すと、彼は神経をリラックスさせる煙をゆっくりと吸い込んだ。ジワリとヤニの味が口の中に甘苦く広がり、オレンジ色の炎が煙草の先から根元へと向かってゆく。 報酬も理由も妥当なものであるとシリウスは判断した。依頼人が顔を見せないのは、こちらも裏の者で顔を見せないのと同様、詮索することではない。要は、依頼の内容と報酬が納得のゆくものであるか否かだ。 彼は紫煙の中に身を置きながら、カップに入ったコーヒーに口を付ける。程よい苦みが煙草の味わいと微妙にマッチして神経に心地良い刺激を与える。 後は情報を集めつつ夜を待って、仕事を開始するだけだ。シリウスは、携帯電話をノートパソコンに繋ぎ情報屋のイントラネットにアクセスして、鳴海泰三についての詳細を調べるように依頼した。こういった必要経費もインスペクターは支払ってくれるので、彼にとっては良い顧客だ。情報屋も腕が良い者を何人か知っているので、一般人の鳴海泰三についてはすぐにでも調べがつくであろう。シリウスの仕事は、目標に確実に死を与えることのみだ。その他のことは通常は他の裏稼業の者に依頼する。自分で全てを行って危険に身をさらすことは、なるべく避けねばならないところなのである。 そうして狼は爪と牙を研ぎ、自らが棲まいし夜の闇の帳が降りるのを待つのであった。夜は様々な悪鬼、魑魅魍魎が蠢き出す刻。彼自身もまたその類に属する者なのだ。
夜の帳が降り、刻が逢魔が刻を告げる。シリウスはソファーから身を起こし、情報屋のもたらした情報を再度チェックしてから、スーツの上着に腕を通す。ワイヤーソー(鋼鉄の極細の糸)が仕込まれた腕時計を付け、縹(ひょう・中国の手裏剣)の切れ味、刃こぼれが無いかなどをチェックして懐に仕舞う。心に風が吹く。非情の風だ。これから、幾つかの人間の命を絶ちに出掛ける者の感傷かも知れない。自嘲的に笑みを浮かべる。人が聞けば、人殺しの感傷など唾を吐いて罵るか一笑に伏すだろう。 次の瞬間には彼は表情を引き締め、冷徹非情の冷たい悪鬼の表情を創り出す。棚のカートンから煙草を取り出してシガレットケースに補充する。準備は出来た。これから、狼が爪と牙を剥き、地に蠢く獣の喉笛を噛み切りにゆく。彼は、ゆっくりと落ち着いた足取りで玄関から出て、扉に鍵をかける。エレベータを使って一階まで降り、そのまま徒歩で夜の闇の中へと歩いてゆく。 閑静な住宅街には夜の帳が降り、どこからか踏み切りの警鐘の鳴る音が遠く響いて来る。その音を円舞曲のように聞きながら、彼はゆっくりと確実に歩を進める。 周囲が寝静まった閑静な住宅街を抜け、繁華街に出る。ネオンが煌き、さながら不夜城を思わせる。酔っ払いやホステス達の嬌声、キャバクラやカラオケボックスの客引きの声などを耳にしながら、夜の繁華街を歩いてゆく。車が走り抜け、酔っ払いに警笛を鳴らして去ってゆく。それに罵声を浴びせる酔っ払い。混沌と雑然とした夜の街だ。その中を黒スーツに身を固めたシリウスは歩いてゆく。不吉な闇夜の鴉を思わせる姿だ。その姿と鋭い目付きに、酔っ払いも気遅れしたように道を譲る。 繁華街を抜けると、図書館や資料館、美術館などが立ち並ぶ神代市の一画に出た。鳴海は、今日は美術館にボディガード共々泊まるという情報だ。図書館や資料館などが閉館した静寂が支配する街並みを黒い不吉な影が歩いてゆく。気に留める者もなく、興味を惹く者もいない。見ると、何羽かの鴉の群れが木の枝にとまっていた。同類だ。闇の中に黒々と身を置く影同士。違うのは群れているのと一匹でいるかの違いだ。 狼は群れで行動するが、彼は一匹狼。インスペクターの言ったように天に棲まいし孤高の天狼星なのだ。仲間もいらぬ。本当の名も忘れた。自らに必要なのは、金と仕事だけなのだ。そう思って首から下げているロケットをまさぐる。忘れてはならない唯一のものがそこにはあった。だが、今はそんな感傷は必要ない。彼はそう思い直すと、ロケットから手を放して、歩を進めた。 目差す美術館が視界に入った。彼はゆっくりとした落ち着きを感じさせる足取りで美術館に近付くと、懐を探ってシガレットケースを取り出した。 くわえた煙草に火を点けて、ゆっくりと紫煙を吸い込みながら美術館を見る。玄関のガラス扉は閉ざされており、傍らの警備員の詰め所に明かりが点いている。情報では、裏手にも同じく詰め所があるという。街のそこらにある美術館の少し規模が大きくなった程度か。それでも貴重な美術品を守るために警備は手を入れているだろう。だが、フランスのルーブル、アメリカのナショナルギャラリーといったほどの大きさでも警備でも無いだろう。それならば、彼は容易に潜入出来る自信はあった。 建物の横手に回り、塀をヒラリと身軽に飛び越える。壁の上に赤外線などの光学警備の痕跡は無かったからである。所詮は、街の一美術館といったところであろう。中庭を走り抜ける間にも光学警備の様子を探るが、そういったものは配置されていないようだ。光学警備があれば、彼の掛けている特殊偏光ガラスで出来たサングラスに何らかの反応があるはずであった。腕時計から伸ばしたワイヤーソーを建物の側にある木の枝に絡めて反動を付けて一気に枝まで舞い上がる。フワリと音もなく木の枝の上に着地したシリウスは、建物の窓に向かって跳躍した。窓の縁に左手を掛けてぶら下がると、右手で縹を操って窓ガラスの鍵の部分の近くに半円形の穴を開ける。器用に縹を右手で仕舞うと、同じく右手で半円形の穴から内側に手を入れて鍵を内側から開ける。そうやって窓を開いたシリウスは、建物の中にヒラリと舞い下りた。情報に寄れば、館長室に仕事をしながらボディガード共々、酒を食らって過ごすのが鳴海の夜の美術館での大抵の行動らしい。館長室に踊り込んで一気に始末を付けるのも良いが、もしもミスを犯すと警備の人間全員を相手にせねばならぬはめになる。それはなるべく避けたかった。 そういった理由から、シリウスは館長室の側の闇に身を潜めて機を伺うという慎重策をもって当たることにした。念のために館長室の扉に盗聴器を仕掛けて、無線のイヤホンを片耳に装着しておく。そうしておけば、館長室の内部の動きが手に取るように解るからだ。 獲物の隙をうかがう狼は爪と牙を研ぎながら、闇に身を沈めて機会が来るのを待ち続けた。そして、その機会はしばらくすると訪れた。 「うぃ〜、飲み過ぎちまったい。館長、トイレに行かせてもらうぜ」 ボディガードの声が聞こえ、館長室の扉が開く。中から大柄なスーツを着た男が出て来る。酔っ払っているのか、おぼつかない足取りでトイレに向かってゆく。ボディガードがガード中に酒を飲むなど、シリウスからして見れば笑止の一言である。仕事に対して自負や自省、責任感というものをまるで持っていない。だがしかし、そのほうが彼にとっては好都合であるのは確かだった。 館長室には入らないで、ボディガードの後を着ける。館長室に入って、もしも手間取った場合、このボディガードと内部に残っているボディガードを両方相手にしなくてはならなくなるからだ。ここは、一匹ずつ片を付けたほうが良い。 ある程度、後ろを付けて行ったところで、闇を駆け抜けて彼はボディガードの男の横をすり抜けて前に出た。こうするのは、彼の流儀であった。死出の旅に就かせる者に自らの姿を一度、見せておくのだ。 「――な、なんだ、てめぇは!」 いささか呂律(ろれつ)が回らぬ口調で男が言う。シリウスはサングラス越しに冷たい凍て付くような視線を男に向かって投げかけた。 「死神だ」 短く言うと、瞬く間に間合いを詰めてワイヤーソーを男の首に絡み付かせる。そしてそのまま、跳躍して天井の梁にワイヤーソーを架けて全体重とバネを利かせて着地した。すると男の身体が持ち上がり、首に絡めたワイヤーソーで天井の梁から首吊りをするような体勢になった。 男は重力とワイヤーソーによって首を絞めあげられて、声も出せないまま身体をジタバタと振って必死の抵抗を試みて足掻く。そして、その抵抗も虚しくその動きはだんだんと緩慢なものになってゆく。やがて、男の身体はぐったりと動かなくなり、口から泡とよだれを垂らしたまま、天井からぶら下がることとなった。シリウスは男の方を見ようともせずに背を向けたまま、目を伏せて唇の端を吊り上げて笑みを浮かべた。 そのままワイヤーソーを梁に二重に絡ませて男を首吊り状態にしたまま、シリウスは冷徹に淡々と後ろを振り向きもせずに館長室の方へと戻って行った。 館長室へと戻る途中、館長室の扉に仕掛けて来た盗聴器の会話が彼の注意を引いた。 「あいつ、トイレっていってましたが遅いですね。私がちょっと様子を見て来ます」 ボディガードの片割れの声がイヤホン越しに聞こえて来る。シリウスはフッと薄い笑みを浮かべると、館長室へと戻る予定を変更して先ほどの首吊り状態の男の近くの物陰に身を潜めて待つことにした。 ややあって、ボディガードのもう一方の男の影が闇の中に現れる。男は最初、首吊り状態になった僚友の姿を何か判別が付かなかったらしく、やや近付いてから、やっと声を上げた。 「――な、なんだこりゃ!」 男は、言って僚友の死体に近付く。ぐったりとしている姿を確認してから、周囲を警戒し始める。シリウスはスッと忍び寄る不吉な影のようにその男の前に出た。 「な、何者だ!」 僚友共々、語彙に乏しい言だった。シリウスはその男の言に付き合ってやることにした。 「地獄からの使者だ」 言い様に、懐から何の予備動作も無いままに直線的に縹を男の喉元めがけて投げ付ける。男は次の言葉を発する前に、喉元に縹が突き立って一瞬の内に絶命した。 ドサリと男が前のめりに倒れる。シリウスは無感動なまま、男の腹を右足で蹴り転がして仰向けにさせ、縹を回収した。血と血脂で塗れた縹を脂取り紙で拭う。――これで二匹。後は、妖魔と鳴海本人のみだ。 シリウスは再び館長室へと戻る廊下を歩き出した。闇が辺りを支配する廊下を足音も立てずに歩いてゆく。特殊な加工を施した革靴と彼の身に付けている陰行(おんぎょう・忍者などの使う技)ならではの業だ。 館長室には、もう障害となるものはいたとしても例の妖魔ぐらいだ。鳴海自身はただの中年男だ。彼は、ゆっくりと館長室の扉のノブを回して中へと入り込んだ。 「――おお、遅いからどうしたのかと思って……!」 ボディガードの男だと思ったのだろう、鳴海が言いかけて顔色が変わるまでの瞬間をシリウスは冷徹に眺めた。 「奴等には死んでもらった。心配するな、お前もすぐに後を追うことになる」 サングラス越しに冷酷な視線と表情を鳴海に向けつつ、言い放つ。死出の旅に出る者に顔を見せてやって最期の言葉をかけてやるのは、先ほども書いた通り、彼の流儀である。余裕、とも解釈出来るが、仕事には最大限の力を注ぐことを惜しまない彼には、その言葉は似合わなかった。 「な、なな、なんじゃと?! 彼奴らを殺したというのか!」 鳴海の表情が驚愕と恐怖に歪む。彼自身も腕に信頼を寄せていたからこそ雇ったボディガード達だった。それをあっさりと殺したという。驚愕と恐怖を感じずにはいられなかった。 「だだだ、だが、ワシにはまだ妖魔人形・『楓(かえで)』がおる! ――『楓』! 此奴を片付けい!!」 鳴海が呼ばわると、部屋の片隅に安置されていた等身大の日本人形が動き出し、シリウスに迫って来た。菊人形のような秀麗な眉目を持つ女性の日本人形が自動的に動き、素早い動作で接近して来る。 「……はい。ご主人様……」 哀しげな感情を込めた声で呟き、日本人形はシリウスに長い髪を伸ばす。妖魔がただ人間に従っているとは思えない。何か弱みを握られているのだろう。さしずめ、封印石辺りを鳴海に押さえられているのだろう、とシリウスは思った。封印石とは、妖魔を封じるときに良く用いられる玉石で、その妖魔に合ったものが退魔道士の手によって造られて封印が成される。封印が解けた後でも、再び妖魔を封じることが出来るように、この封印石は妖魔を封じたものとセットで幾つか精製される。それを鳴海が手に入れたのであろう。ちなみに、退魔道士とは妖魔と戦う力を身に付けた人間のことを言う。シリウス自身もその術を身に付けていた。 楓の頭から伸びた長い髪がシリウスに絡み付き、彼を縛り上げる。その髪は妖力を持っており、身体の力が吸い取られる感覚がする。この髪に長く触れているのは危険だ。 「――お前に怨みは無いが、依頼だ。殲滅させてもらう」 シリウスは楓に向かって言い、ハッと烈昂の気合いと共に発勁――道士や武人の気を発する呼吸法――を発した。すると、身体を覆っていた楓の髪が千切れ飛び、彼は自由の身になった。間髪入れずに縹を投げ付ける。胸元に縹を受けた楓は、だが怯まない。 シリウスに飛び掛かって、両手で手刀を彼の両肩口に振り下ろす。この食らえば身体を両袈裟掛けに切り裂かれて絶命するであろう手刀をスッと一瞬の見切りでバックステップして躱すと、シリウスは頬を親指で撫で付けた。 (――生半可な攻撃では、どうにもならんか。では――) 心に思うと同時に行動に出る。腕時計から伸ばしたワイヤーソーを楓の手足に神速のスピードで巻き付ける。それを館長室の四方に張って、結界の方陣を瞬時に創り出したシリウスは文字通り目にも止まらぬ素早さで分身し、四方から楓に向かって縹を投げ付けた! 「――法術・『四方四神舞(しほうしじんぶ)』!!」 瞬間、世界の四方を守護すると言われる、『蒼竜(せいりゅう)』『朱雀(すざく)』『白虎(びゃっこ)』『玄武(げんぶ)』の姿が部屋の四方を取り囲み、一斉に縹に雷と火焔と地震のエネルギーと水流を宿して楓に襲いかかった。雷が猛り空を裂いて轟き、火焔が荒狂い何もかも灰燼と化す勢いを見せ、地震のエネルギーが地を割り大地を震撼させ、水流が全てを飲み込む烈流となって、楓を海に漂う木の葉のように舞い躍らせる。 まさに神の怒りのような嵐が巻き起こり、楓の身体一点に向けられて収束してゆく。その衝撃を受けては流石の妖魔・楓と言えども、塵に帰るしか術が無かった。残った部屋の有り様は、まるで爆発が起きた後のような惨状であった。 「……わ、わ、わ……!」 腰を抜かしてヘタり込む鳴海に向き直って、シリウスは冷徹非情な氷の表情を浮かべる。鳴海は、それを見ただけで全身が金縛りに遭ったかのように麻痺し、動くことが出来なくなった。その鳴海に、シリウスはゆっくりと歩を進める。 「た、た、助けてくれ……金なら、幾らでも払う……後生じゃ……」 哀願する鳴海の腹に無造作だが、とてつもなく重い蹴りが入る。思わず悶絶する鳴海に向かって、 「薄汚いクズめ。それ以上、無用な言を吐くな。私が欲しいのは、貴様の命だけだ」 と、シリウスは吐き捨てるように言う。涙と鼻汁を流しながら、なおも土下座しようとする鳴海にシリウスは続ける。 「――汝に我、シリウスが黒き漆黒の死の翼を与えん」 そして、鳴海の首を手刀で横一文字に薙いだ。ころりと苦痛も感じることなく鳴海の首が落ちる。下衆にしては綺麗な殺し方をしてしまったが、無用の口舌は聞きたくないので、これで良かっただろう。もっと苦しませてやっても良かったのだが。シリウスは無感動にその恐怖に強ばったままの鳴海の首に一瞥をくれると、館長室の窓の方を見た。騒ぎが大きくなる前に窓から跳躍し、そのまま脱出する算段だ。 ――その時。 「――お、お父さん?」 館長室の入口から女の子の声が響いた。シリウスが咄嗟に向き直ると、そこには十歳前後の少女の姿があった。次の瞬間、シリウスは動いていた。叫び声を上げる間もなく間合いを詰めて少女の細い首を右手で鷲掴みにして片手で持ち上げる。苦悶の表情を浮かべて声すら上げられずに彼の右手からぶら下がる少女。 「――運が無かったな」 ゴキリという鈍い音が響いて、少女の首が垂れ下がる。手にしていた熊の人形が部屋の床に落ちる。目撃者は生かしてはおけない。これは、シリウスのような殺し屋の鉄即である。警察などに証言されるのも勿論のことながら、復讐の対象となることを回避する上でも重要である。幼い娘だからといって見逃した少女に後に寝首をかかれた同業者を彼は知っている。この件に関して、彼は全くの無感動であり、同情や情けが心に入り込む隙は全く無かった。 その少女の身体を無造作に床に投げ捨て、彼は窓を開けてそこから跳躍した。軽やかに塀の上に舞い下りて、さらに跳躍して少し離れた路上に着地する。 立ち上がって彼は懐を探ってシガレットケースを取り出すと、慣れた手付きで煙草を口にくわえて火を点した。紫煙をゆっくりと深く吸い込み、吐き出す。そして、 「――依頼完了。01:35(まるひとさんごー)」 と、低く呟いた。 丸い満月が中天に差し掛かっており、非常に美しく辺りを照らし出していた。星が煌き、満天の星空を作っている。その星降るような夜空の元、黒き不吉な堕天使はゆっくりと紫煙を巻きながら歩き始める。 天狼星は、その彼の頭上にも輝いていた。――そう、彼の名は天狼星(シリウス)。孤独に孤高に輝く、蒼白き星。
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