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クリエイター名  風華 みづち
サンプル

「夜明けのプロローグ」


俺のローキックは外れた。どうやら少し遠かったらしい。
それを見澄ましたかのようにやつはラッシュをかけてきた。
左ジャブからのワンツースリー。なんとかガードしたものの、ガードの上からでもなかなか効いた。
――――打ち返さんかい、ボケ
――――お前チャンピオンだろうが
観客の罵声が背中に突き刺さるのが感じられた。ま、客なんてのはそんなもんだ。
罵声はともかく、このまま打たれつづけるのはさすがにまずい。俺はやつの首にしがみついてクリンチでブレイクを待った。
カーン
2ラウンド終了のゴングが鳴る。赤コーナーにひいて用意された椅子に腰掛けた。
セコンドの注意事項が聞こえる。なんだか耳栓の上からヘッドホンをして聞いているような感じだ。やけに声が遠いや。ラウンドガールのねえちゃんが優雅にリング上を歩いている。
「おい、ラウンドガール眺めてる場合じゃねえだろ」
これはやけにはっきりと聞こえた。そんなに今の俺は集中力がないように見えるってことか。

カーン
3ラウンドが始まった。
やつは2ラウンドまでで自分の勝利でも確信しやがったのか、表情にタイ人特有の余裕の笑みが見えた。なめやがって。だがそれは当たっているのかもしれない。俺のフックもアッパーも、ローでさえもすかされる始末だ。
やつの目が据わるのが見えた。勝負をかけにくるつもりか。ガードの上からでも容赦なく打ちすえられる。くそっ。
なんとか前蹴りで距離を開けたが、再度やつはラッシュをかけてきた。ここできめるつもりなんだろう。やつの目の殺気が俺にある種の感情をいだだかせた。そのとき、俺の頭で何かがはじけるのがわかった。頭の中が真っ白になる。自然と体が動いた。やつの左ストレートが俺の鼻先をかすめる。そのまま右に動いてくるりと体を回転させ一瞬やつに背を向ける、遠心力を利用して左手を振り回した。

カンカンカンカンカン
試合終了をあらわすゴングが聞こえた。
俺は…リングの上に立っていた。やつは?
やつは中央で大の字だった。
「ただいまの試合。3R 3分25秒 3R 3分25秒 バックハンドブローで佐伯智徳選手のKO勝利です!」
試合結果をアナウンスするリングアナの声が耳に飛び込んできた。
どうやら俺は勝ったらしい。セコンドやら関係者やらがリングにあがってくる。
「よくやったよくやったぞ」
「すごいっすよ。佐伯さん!逆転KO勝ちっすよ。俺もう今日は駄目かと思ってました」
そいつらと観客との興奮と熱気が一気に会場を包んだ。誰も彼も昂奮に支配されていた。ただ、俺を除いては。


部屋に帰ってきた俺はドアをバタンと閉めると床に倒れこんだ。
慣れない酒を飲んだせいか、高揚感に妙な空虚さが同居していた。誰も居ない部屋の静寂が俺を包み込む。他の奴らはまだ祝勝会の3次会4次会あたりをやっていることだろう。遠くから聞こえる深夜街の雑踏が静けさを余計に感じさせた。

どれほどそうしていただろうか。
時間が経つにつれ、空虚さが大きく俺を占めていった。試合に勝ったってのになんだってんだ。そう思っても、空虚さは消えなかった。そりゃまあそうだろう。今日の試合は20点だ。最後以外はほとんどクリーンヒットしなかったんだからな。
どうも今日は調子がおかしいらしい。次から次へと疑問符が浮かんできやがる。

俺は強いのか?
強いだろう。こう見えてキックボクシングの選手だ。この2年間負けたことはない。

俺は何ものだ?
名前は佐伯智徳。身長168センチ体重66キロ。ウェルター級の世界チャンプだ。18の時からこの世界に入って、もう10年経ったか。早いもんだ。どつき合い、蹴り合いの10年だった。

なぜ闘うんだ?
なぜって? それが仕事だからだ。この世界がなかったら俺は生きてこられなかっただろうし、誰よりも強くなりたいと思ってこれをやっている。

なぜ強くなりたい?
最初は喧嘩で負けたやつに仕返しをすることが目標だった。だが、試合に出始めてからそんなことはどうでもよくなった。自分が上手く強くなっていくのが面白くなったんだ。

楽しいか?
決まってる。俺はいろんな奴と闘ってきた。その度に俺の技量と相手の技量とがぶつかり合うんだ。誰よりも強くなる。そう決めて今の位置までのし上がってきたんだ。
今の俺からキックを取ったら何も残らない。キックがあるからこその俺だ。俺にはキックしかないんだ。

…本当に…たったそれだけなのか?

ふと俺は目を開けた。木造二階建てアパートの天井が目に入る。妙に木目の波が気になった。
俺には本当にそれだけしかないのか?
高校を出てから、すぐ俺は今のジムの門を叩いた。それから、闘って、闘って、闘って、闘って…。目の前の人間をぶちのめす技術だけを覚えてきた。それが生きがいか?それが生きがいならなぜ今日もリングの上で迷ったような試合をしてるんだよ…。

「あーやめだ。やめ。何を俺は辛気臭いこと考えてるんだ。慣れねえ酒飲んだからかな…。頭冷やすか」
そこまで考えて、思考を中断すると、俺は上着を引っ掛けてドアを開けた。飲み物でも買おうと近くのコンビニに足を向ける。ひんやりとした空気が上気した顔貌を冷ましていく。ポケットから茶のサングラスを出して顔にかけた。多少暗くはなるが、見えないほどじゃない。大体こんな気分の時に俺の顔を知っている人間に出くわすなどしたら、また自分の気に入らない表情をつくってしまいそうだ。
それに俺はこのサングラスを通したセピア色の風景をかなり好ましく思っている。その方が自分と世界とを客観的におくことができるからだ。肉眼で見るのは殴る相手の面だけでいい。
俺は何を求めて闘っているんだろうか、あるいは誰のために闘っているんだろうか、再びそんな思いが頭をよぎったが、俺は頭を振る。迷いは格闘にとって不必要な感情だ。そんなことを考えていたらこれまで一度だって勝てやしなかったろう。心と体とがばらばらになって、動きがギクシャクしてしまう。今日がいい例だ。
トンッと肩が何かと触れ合った。
「おい、どこに目ぇつけて歩いてるんだよ」
どうやら当たった先も肩だったらしい。振り返ると、若い、大学生ぐらいの男が三人、こちらを見ていた。茶髪ロン毛の男が180センチ80キロぐらい、あとの二人は170センチぐらいの角刈りとロン毛、俺と同じぐらいの体格だった。
「いや、スマン」
そう謝っておいて、俺は振り向いた顔を元に戻した。揉め事なんて真っ平だ。それに俺は多少なりとも顔が知れている。ばれたりしたら試合ができなくなるじゃねえか。
だが、トラブルはそれで俺を放したくはないらしい。
「それだけかよ」
その肩が当たったらしい角刈りがこちらの肩をつかんで振り返らせようとする。
振り向くと、そいつの目が俺の目、といってもグラサンだが、に写った。それだけでそいつはガンをつけたと思ったらしい。もっともすべてが口実だろう。
「それが謝る態度かよ。おい。慰謝料払えよ」
どうしてもからみたいらしい。とんと俺の肩を突く。
三人とも同意見のようだ。どいつもこいつもふてぶてしい面してやがる。
「そうだよ、オッサン。慰謝料払えよ。こいつの肩折れたかもしれねえじゃねえかよ」
右にいる茶髪ロン毛が言うのに合わせて、角刈りがわざとらしく肩を押さえて痛がってみせる。
「スマン。頭を下げるから許してくれよ」
そう言って俺は頭を下げておく。不快は不快だが、何事も起きないにこしたことはないし、こんなことでエネルギーを使いたくはない。そんな余裕があったら試合にまわしたいぐらいだ。全く面倒くさい。その上から声が聞こえた。
「わかってねえな。このオッサンよ」
そいつの足が俺の顔を蹴り上げてくるのが見えた。すっと上体をあげてかわし、後ろに下がる。
「おっ、やる気か。オッサン。気にいらねえな」
向こうにしてみたら不意の一撃で俺がぶっ倒れる予定だったはずだ。それをかわされたのがよほど気に入らなかったらしい。ボクシングのクラウチングポーズに構える。が、まるでなっちゃいない。所詮素人のくせに、たちの悪い素人だ。気に入らないのはこっちも同じだ、いやこんなモヤモヤした気分の時にからんできやがって、今夜の俺の機嫌の斜め具合にはなかなか角度がついてるぜ。
「痛い目を見ねえとわからねえらしいな」
言うなり角刈りが殴りかかってきた。
間合いに入る前に、前蹴りをみぞおちにくれてやると、そのまま後ろに吹っ飛んでいくのが見えた。起き上がってこないところを見ると、のびたらしい。
「てめえら、誰に喧嘩を売ったか教えてやるよ」
俺のどこかに火がついたようだった。
「野郎」
茶髪がそう叫んで俺の側面に回る。もう一人は正面に陣取ったままだ。
シュッと息を吐いて茶髪が俺の顔めがけてなぐりかかる。俺はそれをヘッドスリップでかわし、左ストレートをボディに叩き込む。その後ろからもうひとりがへっぴり腰で蹴ってくる足を脇に挟んで捕まえ、軸足をローで薙ぎ払った。
「ウッ」
といううめき声が聞こえた。倒れたときに腰を痛打したのだろう。当分立てないはずだ。茶髪はうずくまっていた。息を吐き終わった瞬間というのは腹の防御力が極端に落ちる。エアバッグがなくなったような車のようなもんだ。そこを狙って打ったんだから効いて当り前だろう。
全身が、特に下腹部の辺りが熱い。わけもない昂揚感が俺を捕らえていた。
「ちゃんと相手を見て喧嘩を売りな」
ボディを狙って打ったのは、顔を打って痕が残ったら困るだけじゃなくて、顔の骨ばったところを殴って拳をいためるのがいやだったからだ。商売道具は大切に扱わないといけない。
後を追ってこないのを確かめて、悠々と立ち去った。
だが、再び冷風に顔を冷やされながら歩いていると、すぐに昂揚感はどこかにいってしまった。かわりにさっきまでの空虚さが俺を襲う。
俺はあんな馬鹿供をぶちのめすのに何を燃えてるんだ、と。
俺はそんなことのためにずっと厳しい練習に耐えてサンドバッグを殴り、トレーナーに檄をとばされているのか、と。
そんなことのために…。
この数週間、自分に付きまとっていたモヤモヤとした疑問符が初めて言葉に鳴ったような気がした。
もし強くなるってことがそんなもんだとしたら、俺は今伸ばしてきた奴らと変わりはしない。あのチンピラどもと一向変わりはしないんじゃないのか?

俺はわけもなく叫びたくなった。それは抑えたが、抑えきれないものが俺の足を駆り立てた。ペース配分も考えない100M競走のような全力疾走だ。胸の中のモヤモヤはさらに大きくなっていく。
くそっ、なんだってんだ。
さすがにスタミナが切れて、肩で大きく息をついた。周りを見回すと、砂浜が目の前に広がっていた。何も考えずに走っていたら、いつものランニングコースに乗っていたらしい。
「ちぇっ」
俺は疲れて倒れこんだ。
「痛っ」
倒れた拍子に右手に痛みを覚えた。見ると手の下に小石があった。思わずつかんで海に投げつける。波があるせいか水面をはねることはなく、小石はドボンと音を立ててすぐに沈んでしまった。
「ちぇっ」
尻についた砂を払って立ち上がる。
「どうした、佐伯?」
そこへ不意に声をかけられた。
俺は驚いて周りを見回す。
「こっちじゃ、こっちじゃ」
その声のした方に目をやると、少し離れたところで小柄な親爺が流れ着いた潅木に座り込んで煙草を吸っているのが見えた。俺のジムの会長だった。
「おやっさん?こんなところで何をしてるんです?」
入門以来、俺のことを面倒みてくれている。俺はずっと会長のことを、おやっさんと呼んでいる。
「それはワシの台詞じゃい。祝勝会は終わったのか?試合後からもうトレーニングかよ。精が出るな、佐伯よ」
「いや…はは。ちょっと走りたくなったんですよ」
チンピラを殴ってきたともいえず、俺は笑って誤魔化す。
このおやっさんは俺を拾ってくれた恩人だ。この人がいなかったら今の俺はないだろう。
「おやっさん…強くなるってことは、一体何なんですかねぇ」
思わず俺の口からそういう言葉が口をついて出た。
「いきなりなんだ?えらく唐突な質問しやがるなぁ」
そこでおやっさんは一旦言葉を切ると、何か感じたようで、こう言葉を継いだ。
「ははーん。おめえ、喧嘩でもしてきやがったな?」
「いや、俺は」
心の中を見透かされたようにニヤリと笑うおやっさんに、どう答えたものか、俺は言葉を濁した。
「図星か?まぁいいさ。ウチにくる前はおめえも喧嘩三昧だったからなぁ…まぁ座れや」
おやっさんは自分の座っている横をぽんと叩いてそう言った。
「はい」
俺は素直にそこに腰をおろした。冷たい潮風がなんとなく心地よかった。
「今日のは見事なバックブローだった」
「ありがとうございます。おやっさん」
「ただ、集中するまでの1、2ラウンドは動きがバラバラだったぜ。相手がスロースターターだったからまだ良かったけどよ」
やっぱり見透かされていた。
「おめえいっちょまえに迷ってやがるな」
俺は今まで考えていたことをすべておやっさんに話した。
「一体闘うってことは何なんです?」
言葉を変えてそうぶつけてみると、おやっさんはまたニヤリと笑ってこう即答した。
「そんなもんワシにもわからねえよ」
「へ?」
あまりにも間髪をいれずに返事が返ってきたもんだから思わずそう声が出てしまった。そのときの俺はかなり間抜けな顔をしていたことだろう。
「それの答えはよ。俺らにとっちゃあ、人間が生きているのにどんな意味があるのか、ってのと同じぐらい難しい問題だぜ。佐伯よ」
おやっさんは俺のほうに向き直った。こうしてみると小柄な親爺なのに、どうしてどうして、えらい迫力だ。存在感といってもいい。
「なぜ闘うのか? ―――人間に闘争本能があるから、なんてなぁ何の答えにもなっちゃいねえ。キックにしろ、空手にしろ、柔道にしろ、柔術にしろ、格闘技をつきつめていきゃあ、すべては人を倒す、さらに言やあ、人を殺す技術よ。だが、人が殺したきゃ、そんなまどろっこしいことなんぞせずにハジキでも買えばいい。自分が捕まりたくなきゃ人を雇えばいい。だが、ワシらがやっていることはそんなもんか?わざわざ自分を過酷な練習で追い込むのはなんでだ?」
「やっぱり何か答えがあるんですか?」
「わからねえ、って、さっき言ったろうが」
「じゃあ、ないんですか?」
「いそがしいやつだな。おめえは」
おやっさんは苦笑していた。しょうがねえ野郎だな、という風に。
「答えがないとは言ってねえ。わしにはわからねえって言っただけじゃねえか。答えがないとは限らねえ。だが、答えがあるとも限らねえ。100人居りゃ100通りの答えがあるのかもしれねえ。だがその先に一つ答えがあるのかも知れねえ」
どうにも雲をつかむような話だ。俺は困惑を表情に隠さなかった。
「わからなくたっていいんだよ。おめえはただの人間だろうが。神さんでも仏さんでも、ましてや悪魔でも鬼でもねえ。ただの人間様よ。わからなくったっていいんだ。迷ったっていいんだよ」
そこまでいうとおやっさんは煙草を一吸いして、ゆっくりと煙を吐き出した。
「今おめえは地図もねえ砂漠を歩いているようなもんだよ。目的地がどこにあるのかがわかれば、そっちに向かうことができる。だがそれがわからねえからどっちに向かって歩いて行きゃあいいかわからねえ、それで立ち止まりかけている。そんなとこだよ。んでもよ、立ち止まっちまえば、おめえを待ってるのは飢え死にだけだぜ」
そこまで言うとおやっさんは、相変わらずわかったようなわからないような顔をしている俺に笑いかけながら言った。
「目的地がどんなところか、どこにあるのかそれがわからなくったって歩いていくしかねえんだ。だが、歩いていきゃあどこかに辿り着くことはできるんだよ。それがどんなところだろうが、絶対どこかに辿り着くもんなんだよ」

それを聞いたとき、なにかが吹っ切れたような気がした。迷いがなくなったわけじゃない。だが、胸の中にあったモヤモヤはどっかにいってしまったようだ。
迷ったっていい…いや、迷うからこそ人間か。
迷ったままの自分でいく。
辿り着く先があるのかないのかわからない。でも歩いていけば確かにどこかには行き着けるだろう。
おやっさんはそこまでしゃべるとまた海のほうを向いて、煙草の火をつけた。
俺も一緒になって海を眺める。
「明日からまた特訓だぜ」
「はい」
明け方に近い夜空の澄んだ空気が俺の中にたまっていくような感じだった。すべてを洗い流すような波の音が俺の全身に響いた。
 
 
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