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クリエイター名 |
並井澄 |
サンプルノベル「歪んだ熊は虚空に吠える」
彼が寂しそうに見えるのは、ここが遊園地ではないからかもしれない。 駅のホームに一人立つ熊男を見つめ、土浦はそう思う。 熊、という厳めしい字面には似合わず、その姿は丸みを帯びて愛らしい。 梅雨の雨で冷えた風が吹くと、あたたかさが羨ましく思える。 いわゆる着ぐるみだ。遊園地や催事場にいる類の、それ。 土浦は今、駅のホームに立つ熊の着ぐるみを見ている。 その姿のせいか、先程も幼児に「くまさん」と呼びかけられていた。 その際彼は着ぐるみ越しにもわかる困った素振りで辺りを見回した。 幼児はすぐに母親に連れて行かれたのだが、 熊男はしばらくその二人の背を見つめていた。 溜息もついたかもしれない。
「何か、面白くないことでも?」
土浦が声をかけると、熊男は大層驚いたように肩を震わせる。 それはそうだ、と土浦は苦笑する。 無邪気な幼児ならともかく大の大人が声をかける相手ではない。 土浦も少し疲れていたのかもしれない。
「さっきの女の人、睨んでましたね。失礼な人だ」 「いえ。私が悪いのです」
意外にも熊男の声は野太かった。 背の高さから想像できたかもしれないが、メルヘンな外見には大凡似合わない。 土浦も少し意表を突かれたが、悟られないよう努める。
「どうして?」 「だって、可笑しいでしょう。こんなのが駅にいたら」 「楽しいかもしれません」
「それは、あの子だけです。子供の世界には、母親が思うような悪は生きていない。 くまさんが突然、自分を攫うなんて考えもしないでしょう。その分大人が疑うことは、間違っていないと思います」
「でもあなたは何もしていない」
押し問答だ、と土浦は思う。しかし土浦は、あの母親が許せなかった。 熊男の本質が見抜けない母親が。 何処ぞかに隠れている悪を、いや悪でなくても。 悪でなどなくてもいい、 我が子を本当に傷つけるものは何かということに気づけもしない親が。 大人が。 土浦は許せなかった。 気づくと土浦は親指のささくれを強く引っかいていた。
「私は既に、傷つけてしまいました」
熊は誰かを待っているようだった。 毎日、毎日、誰かを待っている節のことを語っていた。 朝の九時。この時間に駅にいるのは土浦にとって初めてだったので、 ひょっとしたら土浦が知る随分前からここにいるのだろうか、と思った。
家に戻ると、百合子が泣いていた。 机に突っ伏して、すすり泣くようにして。 土浦はそれを無言で通り過ぎ、スーツをハンガーにかける。 明日はもう、着なくていい。
「あなた」
百合子の声が土浦の背中にかかる。 振り返ると、泣き晴らした百合子と目があった。 ぱっちりとして大きな眼だったのに、 もうずっとこうしてるせいで、しぼんでしまった。 瞼が腫れあがっているせいだ。
「私は、どうすればよかったのかしら」
縋るように、百合子が呟く。 その答えは土浦も欲しいのだが、 百合子がこの世の不幸を全て背負ったような顔をしてそう言うので、 土浦は何も言わない。 百合子のその姿は土浦を一層不幸にした。 この世の全ての不幸とやらを集めても、自分の苦しみには勝らないだろう。 土浦はそう思う。 むしろ、この世に比較できる苦しみなどあるのだろうか。
「君は悪くない」
土浦がそう言うと、百合子はうっとまた嗚咽をもらし、顔を机に伏せた。
「どうして、気づけなかったの」
百合子はまた、噎び泣くようにして机を抱いた。 百合子は悪くない、と土浦は思う。しかし、許せないとも思う。 それは自分に対しても同様だった。 我が子を殺すだろう相手に、環境に、 そして我が子の心にどうして、気づけなかったのだろう。 土浦も泣こうと思ったが、出てきたのは笑みだった。 歪んでいる。 あの日から、自分はどんどん歪んでいく。 有給を全て使って心を休めることを勧められた。 その間に、自分と百合子は元に戻れるだろうか。 土浦は、笑った。 あの母親のようになれれば、いっそ過保護にして守れば、 君は死なずにすんだかい。
再び駅に行くと、やはり熊男はそこにいた。 幼児に手を振られ、戸惑いつつ手を振り返す熊男。 土浦は迷いなく彼の傍に歩み寄る。 幼児の母親の、不信感でいっぱいのまなざしが土浦にも突き刺さるが、 そんなものは土浦にとって何の痛手でもなかった。
「今日も、待っているんですか」 「えぇ」 「もう、一週間ですよ」 「四月からですから、もう二か月ほどです」
やはり熊男は、自分が気づくより前からここにいたのだ。
「間もなく、二番線に電車が到着いたします」
アナウンスがあってから程無くして、ホームに電車が現れる。 下町付近のこの駅は空いている。 近くに大学があるためか、学生と思しき若い男女の他は、 人の行き交いもまばらだ。 そんな人は熊男を見て一瞬ぎょっとし、そして関わらないようにとわざと距離を取って階段へ急ぐ。 そうした姿を一通り見送ってから、土浦は再び熊男へ視線を向けた。
「待ち人は」 「来る時もあれば、来ない時もあります。この時間じゃない時もあるんです。でも、仕事があってこの時間しかいられなくて」 「仕事?」 「警備員をしています。以前は昼に働いていたんですが……」
熊男はそれっきり俯いてしまう。その沈黙に、土浦はそれ以上の追及を止めた。
「……コーヒー、買ってきますね」
寂れた駅には自販機が少ない。 寂れているわけではないのだろうが、と一人注釈を付けながら、土浦はホームを歩く。 熊男の沈黙は、見えないはずの表情を土浦の瞼の裏に染み込ませたようだ。 それは、百合子のそれに似ていた。 逃げられない。土浦はそう思う。 逃げるつもりだったのかと言われれば、それはわからない。 しかし、もしも忘れられるなら。 せめてこの辛い現実から少しでも目を背けられれば。 紛い物の夢の国では叶わない望みを、自分は彼に押し付けているのではないだろうか。 彼の待ち人は誰なのだろう。
コーヒーを二つ持ち、熊男の元へ戻ろうと土浦が歩いたと同時に、 アナウンスがホームに響く。 電車が近づく音が少しずつ大きくなる。土浦は、立ち止まった。 熊男が電車を見つめている。じっと、少し前のめりになって、じっと。 そう言えばさっきも、熊男は土浦と話しながら、 電車とそしてそれから降りる乗客を一人一人見比べていた。 「待ち人」は電車に乗ってやってくるのだろう。土浦が息をのんだ。 電車がホームに停まる。 乗客がぱらぱらと降り、熊男にぎょっとしてから階段に向かう。 そうして全員がいなくなった。 そう思って、あぁまた来なかったかと熊男に声をかけようとしたとき、
「まだいるの」
冷たい言葉。土浦がはっと振り向くと、少女が一人、熊男と向かい合っていた。 熊男より頭一つくらい小さなその少女は、彼を睨むようにして見上げている。 熊男は彼女をじっと見つめている。
「……大学は、どうだ。楽しいか」 「普通」 「困ったことは無いか、何かあったら」
「はっきり言えば? いじめられてないかって……中坊じゃあるまいし」
少女は至極つまらなそうに言葉を紡ぐ。 熊男が大きく手を広げて動いて見せても、それは彼女の心を掴まない。 ぎょっとすることもなく、笑うこともない。
「第一、 別にいい。いじめられたって。人間なんて、大嫌い」 「だから、熊になってるじゃないか」 「なれてないよ」 「熊はかっこいいだろう。お前をいじめる輩を、この熊の手でやっつけてやるぞ」 「別に、いいから。何もないから。ていうか、もう来ないで」 「奈々」
熊男が少女を諌めようと声を荒げる。 しかし、それに大きく後ずさりした少女を前に、彼はそれ以上何も出来なかった。 少女は震えていたのだ。そしてしばらくして、少女は熊男を見上げた。 努めて優しい声で、お父さんと呼んでから。
「……心配しなくても、もう飛び込んだりしないよ」
誰もいなくなったホーム。二人はベンチに座った。 熊男は無言だった。土浦も何も言わなかった。 待ち人は来た。しかし、本当の待ち人は未だ還ってこない。 もしかしたら、もう一生還っては来ないかもしれない。土浦の息子がもう二度と戻らぬように。 きっとそれは熊男が悪いわけではない。事の全てを知らない癖に、土浦はそう思っていた。 何より少女の目がそう語っていたような気がしたからだ。 そして、けれど熊男は一生許されないのだろうと思った。 何より熊男の目がそう語っていたような気がしたからだ。 着ぐるみ越しに、見えやしない瞳の色まで土浦は思い描いた。 歪んでいる。 自分も、この熊男も。この歪みは、きっと一生直らない。 一度変わってしまったものは、もう二度と戻りはしないのだ。 そして、自分はこの歪みを抱えたまま一生を生きなければならない。 土浦は隣の席に座る熊男を見た。 着ぐるみをもどかしそうに動かしながら、 土浦から受け取ったコーヒーを飲もうとする男は、 あまりに滑稽で泣きたくなった。 土浦も、同じように映るのだ。それが、歪むということだ。 土浦はまだ親指のささくれを引っかく、力を込めすぎたせいか、爪の端に血が滲む。
「私は、どうすればよかったんでしょう」
その時熊男の手からコーヒー缶が滑り落ち、足元一面にどす黒い涙が滲んだ。
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