|
クリエイター名 |
未到 |
舞台脚本サンプル
オリジナル脚本『マッチ箱に架かる月』・シーン6「正気の隙間」より
(五十年後の、同じ場所。明転。女が男を待っている。 ようやくビルから、埃まみれの小さな紙を持って男が戻って来る)
男 お待たせ。
女 随分遅かったじゃない。どこまで行ってたの?
男 ビルの中だよ。
女 一階にはいなかったようだけど。
男 中に入ったのかい?
女 入り口の近くまではね。それにしても、こんな所に女性一人置いて行ってしま うなんて、なかなか勇気のある人ね。
男 (苦笑して)すまない。でも、少しとはいえこのビルに入ったとはね。君の方 こそ勇敢だよ。
女 (素っ気なく)それは有り難う。で、月の色は?
男 どうだったと思う?
女 いつもと同じ。
男 その通り。けど、代わりにちょっと面白いものを見つけてね。(と、絵を指し示す)
女 何これ?
男 デッサンだよ。ここから入って、右の突き当たりの部屋にあった。ここに以前 住んでいた人が描いたんだろう。
(男、絵を女に渡す)
女 ……よく分からない絵ね。でも、才能はあるんじゃないかしら。構図は悪くないもの。
男 話が合って良かった。僕もそう思ったから持って来たんだよ。こんな廃ビルに 不思議な絵。何か、誰も知らない謎が眠ったままになっているような気がしないかい?
女 そうかしら? そんなことよりも、私は早くこの場を離れたいんだけど。
男 そうか……
女 (絵の裏を見て)あら、名前が書いてある。
男 「ファ」……次は何だろう……その次が「ア」……
女 あら?それはひょっとして……
(女、ビルの落書きを見る)
女 ほら、ここを見て。「ファ」と「ア」。ファビアン・ゲッペルスだから、ぴったり合うわ。
男 ゲッペルス? もしかして、あのゲッペルスかい?
女 あの? 知っているの?
男 うん。五十年ほど前に活躍した抽象画家さ。前に行った美術館で、顔が真っ二つ に割けた女性の絵を見たことがあるよ。誰でも知っているほど有名でもないけど、 絵の価値は結構高くてね。これはいい物を見つけたよ。ゲッペルスのデッサンな ら、マニアには相当な値段で売れるだろうから。
女 この絵が?
男 そうだよ。こんな所に彼のデッサンが残っているなんてね。しかも、このビルに 彫られた名前。きっとこのビルは、ゲッペルスと何らかの繋がりがあるに違いな い。そう思わないかい?
女 そうかもね。(興味なさそう)
男 だとしたらこれは期待出来るよ。こんな絵が手つかずで残っていたんだ。まだ 探せば何枚か出て来るかも。
女 また中に入るの?
男 いや、今日はもうやめておくよ。月明かりはあっても、夜は夜だ。さ、もう行こ う。近くに車を止めてあるんだ。これからそれで……(と、ポケットを探る。が、 車のキーが無い)あれ?
女 どうしたの?
男 キーが無い。確かにここに入れたはずなんだけど……。(ハッと気付き)すまな い。もう一回中へ行って来る。
女 中って、このビル?
男 そう。多分、ライターを点けた時に落としたんだと思う。心当たりがあるから、 すぐに見つかるよ。
女 ちょっと、また一人にする気?
男 一秒でも早く戻って来るさ。だから、少しだけ待っていて。
(男、慌ててビルの中に入って行く。月明かりの下、取り残された女)
女 (ビルに向かって)お生憎様。もう待っていられないわ。
(女、出て行こうとする。が、ビルの入り口に人の気配。足音。女、振り返るが誰もいない)
女 ?
(女、再び出て行こうとする。しかし背後にまたも人の気配。足音。 女、振り返るがやはり誰もいない)
女 ねえ、何? どうかしたの?
(間)
女 何かあったの? ねえ。そこにいるのなら返事してよ。
(その時、夜空が奇妙な色に変わり始める。女、驚いて空を見上げる。 奇妙な色は次第に収束して行く。奇妙な色は空ではなく、月だった。 先程まで確かに蒼白い光を放っていたはずの月が、血のように赤く染まっている!)
女 そ、空が……! どうしてあんな色に……!
(うろたえる女を包み込むように、月が……女に近づいてくる!)
女 あ、い、いや、こ、来ないで、あ、あ、ああああああああーっ!!
(女、倒れる。死んだようにピクリとも動かない。そこへ男が戻って来る)
男 (女を見て)な、お、おい、大丈夫か、しっかりするんだ! おい!
(呼び掛け続ける男。と、突然女が目を開け、起き上がる)
男 大丈夫かい?
女 ええ、聞こえるわ。可哀相に、あなたはその冷たい石の中に何年も置き去りに されていたのね。
男 何を言って……
女 ええ、直ぐに行くわ。あなたの孤独を癒してあげられるなら、私、
男 (肩に手をかけて)どうしたんだ、しっかりしろ!
女 フフ、そんなに焦らないで。私は誰にも奪われたりしないわ。(手を上方に翳し て)ほら、私の手、見えるかしら?土色のあなたの手より、ずっと綺麗でしょう?
(女、尚も相手のいない会話を続けながら、ビルに向かって歩いて行く。押し留めようとする男。 しかし女は何かに引き寄せられるかのように止まらない。 女が入り口に足を踏み入れかけた時、三人の男が入って来て、女の異変に気付く)
男1 いかん! 止めるぞ!
(三人の男、男と共に必死で女を押し留める。しかし女は優雅な足取りで、 何の抵抗もなく進んで行く。四人がどれほど引っ張っても彼女を止める力に足らない)
男 くっ、どうなってるんだ! ビクともしないじゃないか!
男3 口を開く余裕があれば、力を入れろ!
(男、改めて力を込めるが、やはり女の動きを止められない。女、やがて手で男達を振り払う。 跳ね飛ばされる四人)
男 くっ!
(女、ビルの中に消える)
男2 間に合わなかったか……
男1 我々では到底無理なこととはいえ、な。
男 あなた達は……彼女は一体……どうしてこのビルの中へ……!
男3 落ち着け。元はと言えばここに来たお前達自身のせいだ。こんな所に用など無 いだろう。
男 それは、そうですが。しかし、彼女は……
男2 今、見た通りだよ。ここに来た者は、ごくまれに取り憑かれる。
男 取り憑かれる? 死神にでも取り憑かれたっていうんですか? 馬鹿らしい。
男1 本当の話だ。死神ではないがね。
男2 彼女は取り憑かれたのさ。あいつの魅力に。
男3 しかしそれは狂気の魅力。
男1 歪んだ者に価値を見出すのは、いつも正気の人間だ。
男3 正気であろうとする、狂気。
男2 正気とは、斜めにかけた一枚の布。
男1 どう広げても、隙間が出来る。
男3 彼女はビルの中へ。その隙間を埋めに行ったのだ。
男 隙間?
男3 隙間だ。彼の、正しくは彼らの。
男1 だが、我々では埋められない。
男2 あの方がいらっしゃらなければ。
男3 そう、あの方が。
男1 今は待つより他はない。
男 あの方?
男3 そうだ。五十年前、この冷たい石の中で起きた全てを見届けた、あの方を。
(暗転)
|
|
|
|