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クリエイター名  卓
小説 コーヒー

 ベトナム戦争の時代を背景にした小説を書いている。中篇くらいの分量の予定だが、まだ物語の大筋しか決まっていない。ベトナムで取り残されたアメリカ兵がベトコンの女と交流する、という内容だ。ただ僕には女の造形が完全には出来上がっておらず、そこで苦労していた。女の言葉も行動も僕にはどうしても浮き上がって見えてしまう。手遊びするみたいに僕はベトナム戦争やアジア文化やアメリカの兵器やアメリカ独立宣言の言葉を調べてはパソコンに打ち込んで、またそれを消してを繰り返していた。

 大学が春休みの期間に入ってすぐ、友人と喫茶店を巡った。二件ほど店に入ったがどれも満足できる味ではなかった。諦めかけていたとき、パチンコ屋の脇に小さくまとまったように立っている喫茶店を見つけた。最後の一軒ということでそこに入った。店内にテーブル席はなく、店の半分をカウンターが占めていて、その中で若い女のマスターが忙しげに動き回っていた。僕と友人が入った時間はちょうど昼時で、少し混んでいた。
 僕はガテマラを、友人はストロング・ブレンドを頼んだ。マスターは手早くコーヒーをたてて僕と友人の前に置いた。水っぽくもなく、苦くもない、いい味がした。先の二件の喫茶店よりも良かった。
 店を出るころには空も空気も夜に変わり始めていた。寒さが少し溶けた空気は何とも快く、暖房とホット・コーヒーに火照った体に染み入ってくる。遠くに見える山の端から滲み出るように空は赤い。パチンコ屋からときおり漏れ出る喧騒は電車の音や車の音や人の話し声と滲みあって、静かに流れ出ていくようだった。パチンコ屋の扉が僕の前で開いて、電子音やバック・ミュージックといったガチャガチャした色々な音が漏れ、それからスーツ姿の男が出てきた。男はあまりいい顔をしないで駐車場のほうへ歩いていく。自動ドアが閉まるとまるでパチンコ屋が色々な音を吸い込むみたいにすっと周りは静かになった。不思議に、まるで電車や車の騒音も一緒になって吸い込まれていったような感じがした。
 冷たい風も色々な音も、人も車も喫茶店もパチンコ屋も、みんな空と一緒に赤く滲んで地面に流れ出していくようだ。僕は好き勝手に想像を手繰って、赤く滲んだいろいろなものを引き寄せてその向こうを見ようとする。向こうの向こう、そうやってずっと遠くに目をやると、均整の取れた分かりやすい真理のようなものが見えはしないかという思いがあった。想像の中で僕はただ景色を見通すガラス玉になった。自分というものが介在しない、ただ景色を映すだけの無機物になる、そんな想像を楽しんだ。
 友人と別れてもまだ想像は僕の中に残って、部屋に戻るまでのあいだ僕を楽しませた。
 
 部屋に戻ってすぐコーヒーをいれた。
 コーヒーが好きでよく飲む。下宿に持ってきたのはペーパードリップの道具一式と水出しの道具一式で、どちらも気分によって使い分けている。とくに僕はペーパードリップが好きだ。ドリッパーの中で膨れる豆の様子がなんともいい。湯が豆とフィルターを越えて染み出す様子が僕には何とも幻想的に見える。透明な湯が小さな空間を通り抜ける間に化学変化を起こしてコーヒーに変わる、その過程にある様々な要素を含んで、コーヒーはカップの中でゆったりとたゆたうような気がする。
「コーヒーは天候とか気温とかコンディションとかで味が変わる」
 母親が僕にコーヒーを教えたとき言っていた。事実かどうか確かめられるほど僕は味に細かくないかもしれない。でももしそれが事実なら、カップ一杯のコーヒーにそれまで経験してきたこと、見たもの、感じたもの、あらゆるものが天候や気温やコンディションや豆の産地の空気と一緒に溶けているのかもしれない、と思った。僕は豆の一粒一粒に、たとえばガテマラの高地の肌寒さや収穫した人の肌の色といった、日本の田舎に無い多種多様な情報が包み込まれているような気がした。それを細かく砕き、湯を注ぐ。湯は僕の内面や経験で、二つが混ざり合って変化したものがコーヒーになる、そう思うと気分が良かった。
 やかんに水を入れて火にかける。豆をひく。フィルターとサーバーとカップを準備する。少しすると湯が沸騰する。ひいた豆をフィルターに流し入れてサーバーにセットし、上から湯を注ぐ。
「最初の抽出はほんのちょっとだけ、それで二十秒は蒸らすこと」
 母親の言葉を思い出す。言われたときからずっとそうしてきた。
 蒸らし終えたら湯を注ぎ、適量が抽出されたらカップに注ぐ。
 コーヒーが出来上がる様子を見ながら、僕はカップに沈むガラス玉を想像していた。僕の中のいろいろなものが溶けて複雑な味になったコーヒーにはきっと想像のガラス玉が沈んでいる。飴玉みたいにそのガラス玉は静かに溶けて広がっていく。最後にガラス玉が消えてなくなったとき、僕はコーヒーの中で希釈されて、滲み出して何か別のものになるのだろうか。
 カップに注いだコーヒーを飲みきるまで僕は空想を続けた。空想の中では、僕はもうガラス玉ですらなくて、カップにこびりつく染みに変わって最後には消えてなくなってしまうのだった。

 そのころから僕は大学で知り合った女の子にアプローチをかけるようになっていた。淳子という女の子だ。一度告白したが断られた。もう一度好きだというつもりでいる。ただ、一度交際を断られたことで、僕は少しネガティブになっていて、気持ちが安定しないのを感じている。
 淳子とは大学に入学した年からの付き合いで、一緒に飲み会をしたり相談事をしたりする間柄だった。だからなおのこと、もう一度告白して断られたらもう話すこともなくなってしまうのではないかという思いがあって、どうにも行動を起こしづらかった。もう一度告白すると決めたのも、友人たちとの相談を重ねた末の結論だった。それでも気持ちは安定しなくて、嫌にネガティブになった。
 淳子からバレンタインデーにみんなで集まって騒ごうという誘いを受けたのが数日前のことで、僕は承諾した。たくさん話しかけられたら、という思いがあった。
 
 友人といった小さな喫茶店がアルバイトを募集していることを知り、面接を頼んだ。バレンタインデーの集まりの数日前に面接を受けた。面接は通って、僕はあの喫茶店でアルバイトをすることになった。バレンタインの集まりのあとアルバイトとしてあの店に入ることになる。バレンタインデーを緊張しながら待つことになった。淳子と話すということと初めての喫茶店でのアルバイトの緊張が一緒になっていた。

 バレンタインデーに僕は予定の時間よりも早い時間に家を出た。淳子の家で集まることになっていたのが十一時で、僕は十時過ぎには淳子の部屋を訪ねていた。少しでも淳子と二人で話をしたかった。
 淳子の住むアパートは僕の下宿先からバイクで十五分ほどの距離で、大学の最寄り駅にも近かった。駅前から少し外れていて周りが田んぼに囲まれて、静かなところだった。
 淳子の家に続く田舎道でバイクが動かなくなってしまった。配線をいじってもバイクは動かず、仕方なく僕は立てたバイクに座って煙草を吸った。雲も多いが太陽も見えて、それほど寒くもなかった。風もどこか温かい気がして緊張がすこし減った。人通りが少ないまっすぐな田舎道をみて僕は『イージーライダー』を想像した。周りにはたくさん家があってあまり見通しがいい道ではないけれど、田んぼと畑が広がっている感じが良かった。動かないバイク、その上で煙草を吸う自分、田舎の景色、それを俯瞰してみるのは何ともナルシスティックで自嘲気味に笑える。でもそれはけしてネガティブな笑いではなかった。景色も空も空気も、僕の小さなナルシズムと同じくらいの高さにまで落ちてきて漂っているようだった。昔の文豪が声高に語った情景もきっとそこには無くて、僕もまた景色の中心にはいない。同じ高さにある色々なものがまるで自分と等価であるように感じる、つまりはそれだけのことで、僕の空想も遠くに飛んでいきもせず、自分自身を見下ろしているだけに過ぎない。僕の周りに広がる色々なものは僕にレベルを合わせて薄まり、そこかしこに停滞している。僕の吐く煙草の煙だけが上と横に伸びていく。
 煙草を吸い終えて、僕は淳子の家までバイクを押した。まるで僕の周りに落ちてきて漂ういろいろなものを掻き分けて歩いているようだと思った。バイクの重みはそのままあらゆるものの密度だった。同化することもなく飛翔することもなく、ただそこらにねっとりと漂う。バイクを押すたび、それらはタイヤと僕の足に触れ抵抗する、そんな気がした。
 淳子の家には誰よりも早く着いた。淳子は掃除機を片付けながら、僕を部屋に入れた。
 結局その日はずっと友人たちと話をして、その後近くにある回転寿司の店に行ってまた話し込んで、家に帰った。ずっとあった緊張がこの一日でずっとましになった気がした。昼間見た景色のように、ずっと高いところにあった淳子への告白も僕と同じ高さに落ちてきたのかもしれない、そう思って僕は友人に「近いうち淳子に告白する」と伝えた。がんばれよ、と友人は言った。
 コーヒーをいれて、長い時間をかけて飲んで、それから眠った。
 
 書いている途中のベトナム戦争の小説は、物語の最後にベトコンの女が死ぬ。女に固定した情報はそれくらいで、ほかの事はずっと決めかねていた。そんなおり、淳子に告白することや新しいアルバイトがあって、僕はすっかりこの小説を放り出してしまった。そのうち何かはっきりとすればいいと思っていて、何もはっきりしないままだった。
 その日眠る前に僕は何か一つこの女に情報を加えようとした。けれど、何を考えてもうまくいかない気がして、結局何もせずにパソコンを閉じた。
 
 後日、僕はあの喫茶店に行った。アルバイトとして始めて入る日だ。あのときの女のマスターは水の出し方やお絞りの出し方、声の出し方といった初歩的なことを教えた。あまりうまくできないことも多く、そのたびに「少しずつ慣れていったらいい」と言われた。
 仕事を終えてから店でコーヒーを飲んだ。ずっと張っていた気持ちがコーヒーに流されていくような気分だった。
「コーヒーをいれるコツってあるんですか」
 舐めるみたいに少しずつコーヒーを飲みながら僕は言ってみた。家でコーヒーをいれるときいつも思うことだ。
「難しいね。コーヒーの味ってその日の体調とか温度とか湿度とかですごく味が変わるから」
 マスターは言った。母親からきいた言葉とよく似た内容だった。僕はまたガラス玉の溶けたコーヒーを空想した。

 カップから湯気がのぼる。テーブルから天井へ、薄く広がりながら湯気はコーヒーから抜け出していくようだった。その様子がまるで僕から伸びていく煙草の煙のようで、僕はそこに溶けたガラス玉を空想する。小さなカップから外界へ、それから更に空気中に拡散して、ガラス玉はもう他のどんなものとも区別できなくなる。僕は小さな喫茶店そのものがカップになったような気分になる。視界から消えていく湯気を下から見上げる溶け残ったガラス玉が僕だ。不透明な液体に沈んで、光も当たらず、何も見えず、僕は溶けて小さくなって、カップの底に沈む。そんな空想もまたネガティブでない自嘲を含んで、変な感じに笑えた。

 ベトナムのマングローブ林とぬかるんだ地面と遠くから聞こえる銃声を頭に描きながら、小説の第一文を書き出した。資料ではない情報のおおもとは『地獄の黙示録』とか『フルメタルジャケット』とか『プラトーン』といった映画だったから、思い浮かぶあらゆる情景が一度虚構を通した不自然なリアルのように思えて、どうしても気分が乗らなかった。
 まだ物語の骨格も見えてこない状態だった。ベトコンの女の造形も全く完成していない。それでも書いてみれば何か見えてくるかもしれない、そう思って書き始めた。
 想像を深めながら書き進めていくと、ふとした瞬間にガラス玉とコーヒーの空想が横から湧き出てきた。今まさに主人公がベトコンを撃ち殺すという場面だった。主人公のアメリカ兵がベトコンに向けて構えるライフル銃の照準の先にカップが浮かび、ゆったりと湯気を漂わせる。そうするとベトナムの、土臭くまた毒々しい緑色が凍り付いて、銃声もやんで、コーヒーを中心として放射状に霞んでいく。その中でただカップに注がれたコーヒーだけがリアリティを持って浮遊する。僕は空想が曲がっていくのを抑えられなかった。色が落ち、匂いが消え、時間も止まった空想の中で、僕はコーヒーに沈むガラス玉を思った。固まった空想の世界は現実のどこにも向かぬまま、虚構のバランスを失って崩れ始めている。その中心にコーヒーとガラス玉がある。
 
 喫茶店のアルバイトに三回連続で入った翌日、僕は淳子に告白した。前日に「話したいことがある」といって時間をもらった。僕が淳子のアパートを訪ねる頃にはもうあたりは暗くなっていて、以前の集まりのときよりずっと肌寒かった。バイクが止まることは無かった。まっすぐな田舎道は暗闇をたたえて硬質化して僕を阻んでいるようだった。街灯も少なく、僕はバイクのライトを頼りにアパートを目指した。
「いきなりどうしたの」
 まず淳子はそう言った。
「いや、ちょっと」
 僕は曖昧に返した。とりあえず入って、と淳子が言って、僕は部屋に入った。部屋はきれいに整えられていた。あるものが全部、そこにしかあってはならないようで、またそれらを動かそうとしても動かないのではと思えるほどで、すこし僕は緊張した。
 本題に入るまで、友人たちのことを話した。その間に気持ちを落ち着けようというつもりでいたが、結局うまくはいかなかった。話がきりあがるタイミングを待って、「好きです」と僕は言った。淳子は驚いた様子だった。
 淳子のことを初めに好きになったのは大学の一年目が終わる頃で、僕は夕方に構内で淳子を呼び出して気持ちを伝えた。考えさせて欲しいと言われて、数日待たされてから、「ごめんなさい」と言われた。淳子の様子はまるでそのときと同じだった。駄目かもしれないと思った。
「前にも一度告白して駄目だったけど、やっぱり僕は淳子さんのことが好きだ。僕と付き合って欲しい」
 言うのをためらったけれど、僕はなんとかそう続けた。
 淳子は優しげな娘で、僕はそこに惹かれた。どんなときも尖ったことを言わず柔らかく物事を語る様子が何とも言えず良かった。鋭敏になりすぎた僕を抑えてくれるような何かを淳子はもっているのかもしれなかった。
「うん」
 と淳子は言った。

 僕はガラス玉を空想した。ガラス玉はずっととけ残っていた。コーヒーのなくなったカップの底でガラス玉はきれいな音を立てた。

※※※

 僕は淳子と一年を過ごした。関係はこれからも続いていく気がしている。僕の周りでいろいろなことが変化した時期だった。学年も、構内も、人間関係も、町並みも、下宿先も、淳子との付き合いが始まってから大きく変わった。変わっていないもののほうが少ないかもしれない。鋭敏だった僕は随分と研磨され(淳子は僕が思っていたよりもずっと硬く、歪まない考えを持っていて、ときおり僕を問い詰めた)、本当のガラス玉みたいに角がなくなったようだ。
 喫茶店のアルバイトは一年近く続けた末にやめた。理由は就職活動に専念しなくてはならなくなったからだ。いざこざも不和も起こらなかった。僕がやめてから一ヶ月経って、喫茶店は閉店した。何か事情があったのかもしれないけれど、僕は何も知らない。店舗こそあるが、店の中に客もマスターもコーヒーも見えない。カップを空想したあの場所は、うるさい電子音をずっと流し続けているパチンコ屋の横で静かに眠っているようだった。店の前を通るたび、僕はあのときの空想を思い出した。

 ベトナム戦争の小説をもう一度見直した。淳子と付き合いだして始めてのバレンタインデーで、あのときの集まりからちょうど一年がたっていた。僕は淳子からケーキをプレゼントされ、ひとしきり淳子といろいろなことを話して、淳子が眠ってからパソコンをつけた。
 原稿はあのときのまま、主人公のアメリカ兵がライフル銃を照準した場面でずっと固まっていた。コーヒーの空想は跡形もなく消えて、ただ凍りついていた。不完全な言葉の羅列を僕は全て消した。パソコンのバック・スペースを押し続けると、文字の列は端から順番に消えていった。僕は書き直そうと思った。一年間、何も変わらなかった作品世界を動かしたくなった。
 ベトコンの女の造形が以前よりすこしだけ鮮明になっているのに気づくまでそう時間はかからなかった。その小さな変化こそ僕の一年間の変化だと思った。僕の空想の中だけにいたベトコンの女は虚構の世界から半歩ほど僕に歩み寄った。そうすると、みえてこなかった世界がかすかではあるけれども広くなった。
 僕はベトコンの女に淳子をあてはめていた。ベトコンの造形に一つ言葉を与えなければならない、と思った。僕はガラス玉にならないといけない、物事を映す一対の無機物にならなくてはいけない。以前に虚構の世界を揺るがせたガラス玉に、僕はならなくてはいけない。それくらいの力で僕は女にことばをあたえなくてはいけない、そう思った。僕はまた新たな第一文をパソコンに打ち込み始めた。

 僕がコーヒーと同化したのでも、コーヒーが僕と同化したのでもなく、僕はいま小説を書き、淳子と過ごし、就職活動をしながらここにいる。僕というガラス玉もコーヒーも同じ高さで、これからも距離を近づけたり遠ざけたりしながら空想し続けるのだろう。小説を書きながらそんなことを思った。不思議とそれは僕の小説を邪魔しなかった。僕は書き続けた。

 僕の傍らでカップに注がれたコーヒーは以前と変わらず湯気を立てていた。
 
 
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