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クリエイター名  そーら
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『振り返るな』


 その道は薄暗く。
 呼吸する巨大な生物の吐息のように、生暖かく生臭い風が終止吹き付け。
 辿るものの足をとどめ、押し戻そうともがき、ゆき過ぎる。
 耳に谺するは切れ切れの悲鳴。
 慟哭。
 そして、警告。これより先人の踏み入れる道に非ず。

 底知れぬ退屈を目にたたえて、冥王は玉座に座り続けていた。時は彼に
朝を告げないので、今日も明日も明後日も、過去も未来もいっしょくたに。
 どこか足元の床に転がっている。

 その冷たい石床を響かせて、王の広間に現れいでたのは一頭の黒い犬。
 巨大な狼爪が石をはみ、ずらりと牙が並ぶ口蓋からは、床に落ちたと同
時に煙をあげるような黄色い粘液が異臭を放つ。
 何よりも生者の世界と同じ犬と呼べぬ理由は。一つの体に、三つの頭。
 「・・・・・・・・。」
 犬は主人の足元にべたりと腹ばいになると、その手のひらを求めて顔を
あげる。三組の双眸は緑に沈む。
 「どうした。」
 その問いには答えず、犬は一つの頭で嘆息した。そしてもう一つの頭が
柔らかく鼻を鳴らし、残る一つの頭は己が背後を振り返る。
 「・・・・・・・・。」

 広間を照らすのは、目に暖かい炎の灯ではなく。青白い蜜蝋の上で揺れ
ているのは、暮れてゆく空の、全てを蒼く染める闇の色。
 死と闇は似ている。全ての終わりであり、始まりであるところが。
 その夜の世界を訪れたのは、昼の世界の住人。心の臓が動き、肺が呼吸
し、地に足をつけて歩む者。生者。
 「・・・・・・・・・。」
 物憂気な視線に出会っても、その男は物おじひとつしなかった。黄金色
の髪はぐったりと後ろに垂れ、闇の灯の中で輝かずとも。その瞳は昼の空
を映したまま。まっすぐに、こちらを見据えている。その手には奇妙な剣。

 くうん。犬が再び鼻を鳴らす。
 無意識に見える動作で犬の頭を撫で、問う主人。
 「何用か。」
 意外な訪問者は肩をすくめ、答える。
 「あんた、王様なんだろ。なら、とっくにわかってると思ったけどな。」
 「・・・・・・・・・・。」
 その男の様子には、恐れも、憎しみもない。
 あえて言うならば。ただ一つの事を、渇望していた。
 「・・・・あの子を、返してほしいんだ。」
 「・・・・・・・・・・。」

 その冥宮には物理的な天井は存在しない。頭上にはただ、のしかかるよう
な闇が撓んでいる。どこからか、ひそひそと声が。低く唸る声もかすめる。
 耳をつんざくような、大音響の断末魔は。突然現れ、突然かき消える。
 まるでこの場に相応しくない異物が侵入したことを、知っているかのように。
 「・・・・生は一瞬だ。それは全うされた。お前の欲する人間はもはや、永
遠の休息の中にある。・・・今さら煩わせて何とする。」
 「・・・・・・・・・・。」
 男は一歩踏み出した。犬の尻尾がぴくりと跳ね、主人の愛撫に閉じた目蓋が
粘つく目脂を剥がして開こうとする。
 「それ以上、人間としての領域を踏み越えるでない。」

 叱責するでもなく、嘆息のように微かな声が諭す。
 「生者の領域、死者の領域、全ては理が定めた掟。どのような魔術を使ったか
は知らんが、即刻立ち去るが良い。」
 男はまたも肩をすくめる。
 「帰れったって・・・帰れないんだ、これが。実は自分でもどうやってここに
来たかわからんし、どうやったら普通の世界に戻れるかもわからん。」
 そう言って、ぽりぽりと頬をかく。「なあ、あんたはわかるのか?」
 「・・・・・・・・・・・。」

 揺るぎない冥王の瞳が、ほんの微かに揺らいだように見えた。
 「元来た道を、辿れば良い。」
 「ああ、そうか。」男はぽんと手を叩くと、にっこりと笑った。
 「良かった良かった。これで、帰り道もわからないで迎えに来たのかとどやさ
れずに済む。」
 「・・・・・・・・・・。」
 「さて。帰り道も無事にわかったところで。返してもらえるかどうか、教えて
もらえると有り難いんだけどな。」
 「・・・・・・・・・・・。」
 「返してくれるまで、帰らないぜ、俺。」
 「・・・・・・・・・・。」

 黙した主人と、穏やかだが決意を秘めた笑顔の人間。双方を三つの頭は行ったり
来たり。三組の双眸は見つめる。
 「・・・・命を全うしていない者は受け入れられない。お前の安息の地は、まだ
ここにはない。」
 「そう言われてもなあ。自殺するってのは性に合わないし、第一、会ったら何さ
れるかわからん。死んだら会うんだろ?俺達。」
 「・・・・・・・・・。」
 「第一、あいつは俺に盛られた毒を飲んで倒れたんだ。本当だったら俺が死ぬは
ずだったんだぜ?なら、最初の予定通り俺が死んで、あいつが生き返ったっていい
じゃないか。」
 「・・・・・・。死は予定だ。狩り人が予定を間違えることなどない。」
 「・・・・・そうかな?」子供のように小首をかしげる男。

 退屈の海から片足の親指をもたげた冥王は、炭のように黒い眸をまたたく。
 「・・・そうやって、失った人間を取り返そうとした者は過去にもおった。そし
て悉く諦めた。お前もその一人になるか。」
 「・・・・やってもみないことは、やってみなくちゃわからんだろ。」
 そう言った男は、何かを思い出したように柔らかく微笑んだ。
 「これは俺の言葉じゃないけどな。そう言ったヤツを、オレは知ってる。・・・
・そして、俺が呼び戻したいのは、まさにその人間なんだ。」
 「・・・・生と死の境界を飛び越えることが。不可能だと知っててか。」
 「たぶん・・・あいつが自分で不可能だと納得しなきゃ。やってみなくちゃわから
ないって。今でも言ってると思うぞ。」
 「・・・・・・・・・。」
 「なあ。」
 まだ微笑みを顔に残したまま、男は明るい声で言った。
 「死ぬより怖いことって、何だか知ってるか?」
 「・・・・・・・・・。」
 冥王はほんの束の間瞬きをする。死はこの世界そのものなのに。その最中に分け
入って、この男はさらなる恐怖が存在すると、この自分に問うのかと。
 
 
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