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クリエイター名 |
青猫屋リョウ |
幻想
◆悲しい涙のスープ
『悲しい涙のスープあります』
流麗な飾り文字でそれだけ記された紙切れが一枚、ドアに貼り付けられていた。 「悲しい涙のスープ」か、今時珍しいな。まあ、たまにはいいかもしれない。 私はドアを叩いた。ドアは音もなく開き、白い顔の婦人が顔を出した。 「いらっしゃいませ、どうぞ……」 婦人に招き入れられ、短い廊下を渡って応接間に足を踏み入れると、毛足の短い絨毯がふわりとした弾力を足に返してきた。 ナプキンとスープスプーンが用意されたテーブルにつくとすぐに、私は「悲しい涙のスープ」を注文した。 婦人はふわふわとした動きで部屋を出て行く。程なくして、真っ白いスープ皿を掲げて戻ってきた。恭しく私の前に置かれた皿には、澄んだ琥珀色のスープがなみなみとよそられている。具は何一つ入っていないが、漂ってくる香りからよく煮込まれたコンソメスープだと判る。 スプーンを手にとって香り立つ琥珀の液体を掬うと、そっと口に運んだ。 野菜の旨味が広がる奥から、不思議な味が私の味蕾を刺激する。甘いような、苦いような、塩辛いような。何とも表現しがたい味だ。それでいて妙に後を引く。 ああ、これこそ「悲しい涙のスープ」だ。 私は夢中になってスープを口に運んだ。最後の一滴まで胃の府に納めて、私は深く息をついた。 僅かばかりの代金を婦人に支払って、私はその家を後にした。 帰り道で、悲しみはゆっくりと私の奥まで染み渡り、心を深い色に染めてゆく。痛みを伴わないしっとりとした悲しみは矛盾した恍惚感となって私を酔わせる。 自宅に帰り着くころ、悲しみは既に指の先まで染みて私を満たしていた。 私はチェストを探って適当な小壜を見つけ出すと、悲しみが溢れ出すのを待った。 しばらくすると、私の許容量を超えた悲しみは涙となって目から溢れ、頬を伝う。その幾粒かを小壜に収め、自分の中から悲しみが徐々に過ぎ去るのを感じながら、私はぼんやりと天井を見つめていた。 悲しみが抜けきった私は軽い足取りでキッチンに向かい、久しく使っていないスープ鍋を取り出す。あるだけの野菜をとろけるまで煮込んだ琥珀色のスープを作り、仕上げに先ほどの涙を垂らした。 琥珀のスープがわずかにさざめいて、悲しみを包み込んでいく。 そうして、私は飾り文字の張り紙を家のドアに掲げる。
『悲しい涙のスープあります』
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