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クリエイター名 |
紺野ふずき |
サンプル
『最後の餞』
その犬はムクといった。いつも玄関でゴロゴロしている老いぼれの黒い雑種で、俺は正直、そいつがいなくてもいいと思っていた。 若い時分はよく飛びかかってきて制服を汚されたり、買ったばかりの新品の靴をかじられたりした。俺はそれがイヤだった。 就職して初めての夏、東京へ出た俺は実家へ数日の里帰りした。見慣れた玄関。いつもならそこにいるはずのヤツがいなかった。お袋が戸を開けながら言った。 「お前が行って直ぐだったよ。十一年……もうおじいさんだったから」 やっと死んだのか、俺は靴を脱ぎながらそう思った。 廊下を歩きながら部屋の中の配置が変わっているのに気が付いた。ソファーやテーブルの場所が変わっていて、居間にあったはずの本棚が無くなっていた。どこへやったのかと不思議に思っていると、俺の部屋にそれがあった。いなくなるとこうだ、と俺は溜息交じりに荷物を置き、ダラダラと居間へ戻った。テーブルの上に奮発した寿司と冷えた麦茶が置いてあった。ジワジワと無くセミと風鈴。扇風機がブーンと唸ってはぬるい風をかき回した。「東京はどうだい?」とお袋が聞く。まあまあだ、と生返事を返して俺は寿司を頬張った。 縁台の向こうの小さな庭に、アイツの犬小屋がチラリと見えた。ここでこうしていると、アイツはいつもそこの縁台に顔をのせて俺を眺めていた。今はもういない。お袋が団扇を仰ぎながら遠い目で庭を見つめていた。 「お父さんが呼んでもアタシが呼んでも、鳴きやまなかったんだよ。そこでね……寂しそうに最後まで鳴いてた。アンタを探してたのかもしれないね」 麦茶で流すようにして寿司を食い、俺は部屋へ戻った。弟が外から帰るまで、話相手のいないお袋のしんみりは続きそうだ。やれやれ、と俺は机の引き出しを開けた。東京に置いてきた彼女に、俺の昔の写真を持ち帰る約束をしたからだ。うろ覚えにしまいこんだ場所を根こそぎ探して、写真という写真を引っ張り出した。かなりの束になったそれを一枚一枚繰っては、懐かしさに心が解けた。一番新しいものは高校の卒業式から、古いものは小学校の遠足の写真まであった。 映りのいいこれだと思う何枚かを選んで脇に退け、そしてある一枚の写真で止まった。幼い日の俺が小さな黒い子犬を抱いて笑っていた。 ムクは俺の犬だった。俺がお袋に頼み込んで飼ってもらった『捨て犬』だった。雨の日の学校帰りに俺についてきた。散歩も飯も、全ての面倒を俺が見るという約束だった。 最初のうち、俺は一生懸命にムクをかまった。学校から帰ってくると散歩へ連れて行き、朝と晩の飯もきちんとやった。ドッグフードを皿にあけただけの物だが、ムクは尻尾を振って喜んだ。 小学校を卒業し、中学へ入ってそれはかなりいい加減になった。お袋任せになり、ほとんど面倒を見なくなった。友達も増えたし犬にばかりかまってられなくなったからだ。高校へ入ると『いい加減』は『まったく面倒をみない』に変わった。俺は飛びついてくるムクを煩わしく思ったし、その頃にはすっかり俺が拾ってきた事など忘れて、いなくなれとさえ思っていた。 『オマエヲサガシテイタノカモシレナイネ』 俺は途中でその役割を放棄した。でも、ムクにとって俺は最後まであの日の俺のままだったのかもしれない。 突然、憂鬱になって居間に戻った。お袋は俺の手にしているモノを見て、寂しげに笑った。 「今度は一緒に連れていっておやりよ」 「ああ」 と俺は頷いた。手にはガキの俺とチビムクの写真があった。ソイツは犬のくせに写真の中で、俺に負けないくらい嬉しそうに笑っていた。
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