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クリエイター名 |
立夏 |
人魚姫
なあ、とか、おい、とか。 あの男は私をそんな風に呼んだ。 犬猫じゃないんだからと、何度言っても聞き入れなかった。照れ臭いのだと言った。本当はそうじゃないことを私は知っていた。あの男の小指には母さんの指輪が嵌っていたから。あの男が、母さんを殺したから。
ひと頃私には復讐が全てだった。復讐以外には希望も目的も無く、その為に何もかもを失い途方に暮れていた。 完全に自分を見失っていたと思う。 空腹の所為だったかも知れない。 今であれば絶対にしないと、誓って言える。
如何にも胡散臭い風体の中年男に助けを求めてしまった。
どう見ても怪しい。どう見てもヤクザ。どう見ても……疲れて、擦り切れて、とにかく、マトモじゃない。 しかしそのマトモじゃない男は、私の窶れ果てたみっともない姿に哀れみを覚えでもしたのか――それはそれで不本意ではあるが――食べ物を与えてくれ、着古したTシャツをくれ、あまつさえ、屋根のある部屋まで貸してくれたのだ。 問題はその男の正体だった。 男の短い小指に鈍く光る安物の指輪。 母さんの形見。 男は、私がずっと探していた仇だった。 だがこの状況は復讐に打ってつけであり、せっかく手に入れた環境をすぐに手放してしまう気も無く、こうして、何の因果か私は、親の仇と暮らすことになった。
落ちぶれたヤクザ。命をつけ狙う私。 二人の生活はそれなりにスリリングで波乱に富み、それでいて変わらぬ日常はどこか穏やかで、一か月もすると私はその奇妙な安定感に慣れた。
男が留守の間に私は部屋を片付け、洗濯し、食事の準備をした。 男は洋食派で私は和食派。 二人ともニンジンが嫌いだった。 扇風機の前に並んで涼んだ。 テレビのチャンネル争いをした。 口喧嘩をすることさえあった。 それでも男は私の名を呼ばなかった。
「おい」 「……」 「おーい」 「名前で呼ばなきゃ返事しない」 「…………」 「…もう! わかったよ! 何?」
困った顔が面白くて、何度も何度も繰り返した。
男はきっと最初から気づいていたのだろう。 私は注意深く、互いに知らないふりをした。 復讐の為に。
「肉ばっか食べてたら早死にするよ」 「いいんだよ、好きなモン食べて死ぬなら」 「ふん、ばかじゃないの」 「我慢する方が、ばかじゃないの?」 「!」
子供みたいな憎たらしい顔で笑った。
わかっていた。 この日々は、触れたら簡単に壊れてしまう泡のようなもの。
終わりは呆気なく訪れた。 スーパーの帰り、アパート近くの路地裏で、血塗れの男を見つけた。
大家が言うにはヤクザ同士の揉め事があったということだ。 『あの子に手出しはさせねェ』 男はそう言ったと、大家は私に不審の目を向けてきた。 ヤクザ達の狙いは私だった。 大方、父の組と敵対する組織の仕業だろう。 私は父親の顔すら覚えていないというのに、奴等には関係ないらしい。
男は既にこと切れていた。 男はかつて、父の腹心だった。 この男に出会わなければ母さんは死なずに済んだ。 母さんは殺されたのだ。 この男を 愛していたから。
血の臭いと近付いてくるパトカーのサイレンに目眩がした。 滾る胸からせり上がってきた涙が、あとからあとから溢れ出す。
あんたを殺すのは私だった! 私だったはずだ!
許せなかった。
だって私は
貴方のことを
愛していたから。
――ばかじゃないの。
やさしい声が耳の奥で聞こえた。
… … …
『母さんへ。 指輪を取り戻したよ。 手紙と一緒に埋めるからそっちでつけて。 マリ』
『愛するマリ。 素敵な指輪をありがとう。大事にするわ。 あなたもどうかしあわせに。 まりこ』
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