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クリエイター名 |
ろうでい |
小説:喪失(シリアス)
布団から目覚めた時、私には記憶がなかった。
私は誰なのか。 何故此処に居るのか。
教えてくれる者は周りに居なかった。 どうやら私には『家族』というものが居なかったらしい。 自分の目の周りにあるものは、何もないただの木造の空間が広がっていた。 どうやら此処は『部屋』らしい。
私は布団から起き上がり、その狭い部屋の入り口のドアを開ける。
外は曇り。 雨こそ降っていないが、どんよりとした空が続いていた。
自分が今しがた出てきた場所を振り返って見る。 …オンボロの木造アパートの一室だ。下が見下ろせる事から、二階だと判断できた。
私は、横についていたこれまたオンボロの木製の階段で下に降りる。
…人だ。 老婆が一人、私の前を歩いていた。
「あの…すいません。」
「はい?」
老婆は声をかけた私の方向に振り向き、愛想笑いを浮かべる。
「…此処はどこなのでしょうか。」
「…さあ?」
…さあ、とはどういう事なのだろうか。 この場所を、この老婆も知らないと言う事なのだろうか。
「あの…それでは、貴方はどうして此処にいるのですか?」
「…さあ?」
…おかしい。 何故この老婆は平然と道を歩いていて、何も知らないのだろう。 自分の住んでいる土地くらい知っていて当然だろう?
…偶然この場所を歩いていた他所の人間なのだろうか。 いや、それにしては雰囲気が落ち着いていて、どうも慣れている様子だ。 この道を歩き慣れていて、歩いている。 その感じがなんとなくこちらにも伝わってきた。
「…あのう。」
考え事をしていると、老婆が私に声をかけていた。 表情はニッコリとしていて、何故だろう、私を落ち着かせるようにしているように見えた。 なんというか…。 私の疑問を解決できる『鍵』を持っているような、そんな表情…。
「…記憶喪失なんですよ、私も。」
老婆は、何もかも知っていたのだった。
・ ・ ・
この街に住む人間は、全員が記憶喪失だった。 道行く人に尋ねたり、その辺の家を訪ねまわって分かった結果だ。
…おかしすぎる。 どう考えても『街全体の住民が記憶喪失』などという状況があるわけがない。
誰も自分の名前を知らない。 誰も自分の家族を知らない。 誰も自分の生きてきた足跡を知らない。 誰も自分の事が分からない。
全員に共通するのは 『気が付いたらこの街で目覚め、そして新たな生活を歩んでいる』という事。
人によっては家庭を持ったり。 一人暮らしで気ままに生きている人間もいた。 仕事を持ち。あるいは、したい事だけをして。 自分の生きていく目標を持ち。 『新たな毎日』を此処で形成していっているのだった。
…私は…
私は、此処でどう暮らしていけばいいのだろう。
・ ・ ・
どれくらい時間が過ぎただろう。
髪の毛は肩につくくらいまで伸びたし、綺麗に剃ってあった髭も生え放題だ。 何故か暮らしには困らなかった。 定期的に私の家のポストには現金が入っていて、食料品や生活必需品を購入できたからだ。 誰が、何のためにそういう行為をしているのかは分からない。 だが、それを使わなくては、私は生きていけなかったので使う事にしていた。
…だが、頭に残った靄は消えなかった。
…私は、どうしても自分を知りたいのだ。
誰かが私を愛してくれていたのだろうか。 誰かが私を疎ましく思っていたのだろうか。 誰かを私は、愛していたのだろうか。
白しかない頭の中に、少しでも残った色を毎日探し。 やがて自堕落していき。 結局は私は最初の部屋にずっと閉じこもっていた。
知りたい。 知りたい。 知りたい。
その欲求はどうしても叶わない。 誰に聞いても分からないし、自分の中にその答えは存在しない。
私は、手にナイフを持っていた。
…この世界に未練はない。
私は、今まで生きていた全てが消えてしまったのだ。
気分新たに生活の出来る心境ではなかったし、したくもなかった。
私の目的はただ一つ。 自分が知りたい。それだけだからだ。
不思議と手に震えはない。 死が、私を救ってくれる気がしたからだ。
…死後の世界では、きっと…。
そんな甘い幻想を抱いて少し笑いながら、私は、私の首筋に思い切り。
ナイフを突き刺そうと腕を振る。
その時。
記憶が一つだけ戻った。
ああ。
そうだ。
私は。
死んでいたのだった。
そして私は今日も。
布団から起き出すのだった。
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