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クリエイター名  杉浦明日美
サンプル

 朝はスタンダードに目玉焼き。
 オプションはサラダに味噌汁、カリカリベーコン、白ご飯。
 場合によってはパンもいい。
 ミコトの好みは塩味をきかせたバターパン一枚、甘みの補給にバターの上からハチミツを塗ったパン一枚。健康のためその上に温野菜のサラダをつけるのは自分の役目。
 美容と健康のバランスをきちんきちんと考えて。
 いまどき流行りのサプリメントなんぞなくてもばっちり栄養素を補完できる食事が自分の使命だ。
 料理はいつもきっちり二人分。
 できあがったならば四人掛けの木製の食卓にならべ、十歳の誕生日にミコトからもらった黒地に白の雪花模様が散っているエプロンを外し、喉をはりあげる。
「ミコトっ! 朝だよ、起きて!」
 やがて2階からドタバタと音をたてて階段を駆け下りてくる女の人がひとり。
 鎖骨に届く程度の黒髪はぐしゃぐしゃで、服はパジャマ、寝ぼけ眼でまだ顔も洗っていない。
「朝ご飯できてるよ、スーツはアイロンかけてそこにつるしておいた。バッグはそこで鍵はボックスのなか。靴は普段の出勤用のピンクのやつでいいんだよね、玄関に磨いて出しておいたから!」
「いつもありがとーう!」
 朝起きのひっくりかえった声でねぎらいの言葉とともに洗面所へ突入していく、これが自分のハハオヤだ。
 まだまだ若い。二十代。とうてい高校生の息子がいるとは思えない。けれど戸籍上もばっちりきちんと自分の母親。
 信二はアラーム機能つきの腕時計で五分計り、また声をはりあげる。
「みことーっ! ご飯さめるよ!」
「はーい!」
 出てきた母親はもうすっかりさっきの面影の片鱗もない。
 驚異的なスピードで顔を洗い、髪に櫛をいれ、寝ぼけ眼をしゃっきりさせて、ただし服装はピンクの地に白クマのパジャマのままで、すとんと椅子に腰を下ろす。
 目玉焼きをたべてにっこり、お味噌汁を飲んでぱっちり。
 ミコトは美味しいものを食べてるとき、ホントに幸せそうな顔をする。
 信二もその顔を眺めるのが大好きで、自分の料理の腕に対する正当な報酬として受け取っている。
「んー、やっぱり信ちゃんのご飯何気においしー」
 ミコトの好みは黄身は半熟、白身はしっかり火が通っているベーコンエッグ。
 ベーコンはかりかりに焼いて歯ごたえを出し、目玉焼きはあくまで半熟。コツは蓋をしたフライパンに水を一さじ入れて、五十六秒蒸し上げること。
 信二の脳裏にはミコトの好物のメニューの微妙なレシピがそれこそ山をなしていて、完璧に自分の母親好みの食事をつくる。信二の好みはもう少ししっかりした肉とか焼き魚とかなのだけど、信二のなかでは常にミコトの好みが優先されると決まっている。
 二人での朝食が終わるとミコトは出勤、信二は高校へ。以前はミコトが鍵閉めをしていたのだが、以前鍵をうっかり閉め忘れてからは信二がぎりぎりまで家に残って鍵閉めをすることにした。たくさんある二人の約束事の一つだ。そのために信二は学校までフルマラソンを強いられることになったのだけれど、それもまた足腰を鍛えるのにいい、と信二は気にもしていない。
「ミコト、書類は持った? 今日は決算だって言ってただろ」
「うん、もちろ……ちょっと確認してみる」
 ごそごそごそ、と鞄さぐって予想通りの悲鳴。
「居間にそれらしきものが置いてあったよ。それがそうじゃない?」
 すっとんでいくストッキングを履いた両足。
 もうそろそろ伝線するなとふと思い、今日の買い物リストに女性用ストッキングを追加する。
 信二はミコトと同時に家を出る。ミコトにとってはそれが標準の時間帯でも、学生の信二にとってはかなり遅い。かといってミコトが信二のために早くに出るというのは論外だった、信二にとって。今ですらぎりぎりで、早起きしなければ合わせられない。そして信二にとって、ミコトに早起きさせるのと自分がマラソンを敢行するのとではマラソンの方がずっとずっとずーっとマシなのだった。
「信ちゃん支度できた? いこっ」
「俺はいつもできてるよ。遅れるのはミコトだろー」
「早く早くっ」
 家の電気のチェックをして学生靴に足を入れ、ミコトと一緒に家の外に出ると鍵をかける。
「じゃ、信ちゃん行ってらっしゃい」
「ミコトもね」
 草薙家、という表札が出された一戸建ての家の前で、学生服を着込んだ少年とスーツに身を固めたOLとが手を振って別れて行く。
 分かれて数歩いき、最初の角をまがってミコトに見えなくなると、信二は鞄を持ち直す。
 箱根平高校まで、徒歩で三十分、走っていけば約十分!


      § § §  


 始業の鐘が鳴り響く寸前、信二は教室に駆け込んだ。
「おー、新記録」
「いつもごくろーだよなーっ」
 友人達がしみじみ呟き、一人が日々の到着記録を書き込んでいるノートから顔をあげた。
「日々記録更新してるぞ。おまえ、ほんっとにもったいないなー。陸上部に入れよ」
 信二はそのどれも答える余裕がない。萎えた足で自分の席について、倒れこむように座り込んで肩で息をしていた。
「おまえ……らが、炊事洗濯買出し調理やってくれるんなら考えてやる」
 友人たちも信二の家の事情は知っていた。
 信二の両親は信二が小学校低学年のとき、交通事故で亡くなった。それ以来、信二は叔母の家で育てられているのだ。
「ミコトさん、かあっこいーよなあ! きびきびしてて、服装とかもぴしっと決まっててさ」
 ……その決まった姿の裏側には毎日毎日スーツにアイロンをかけ、下着を洗濯し、ストッキングやら女性用化粧品やらを買いにいって店員に白い目で見られる自分の苦労があるんだぞ、と言ってやりたい。
 ミコトは家では気が緩んでぼけているが、あれで実はけっこう有能なキャリアウーマンなのだ。
 寝起きのぐしゃぐしゃ頭やら間抜けさからは、想像もつかないが。
 以前、三者面談で学校へ来たミコトをクラスメートが見てちょっとした話題になってしまった。あの若くて綺麗な女の人は誰の何だ、ということだ。
 そして噂の流れの行き着く先、知的なOL美人が信二のなんと「母親」だということがばれたときから、信二は「ミコトさん熱」にあてられたクラスメートを見ることになってしまった。
「うちの信二をよろしくおねがいします、ってさー、紺のスーツでさ、化粧ばっちりでさー。担任の方がびびってたもんなー。きれーだよなー、ミコトさんっ!」
 ―――酔っ払いのミコトに服ゲロされてもそう言えるんなら誉めてやる。
 どんどん危険な角度につりあがっていく信二の眉に気づいて軌道修正する者一名。
 場の雰囲気を読むのにスルドイ斎藤がまあまあ、と肩をたたいていった。
「でも、ま、お前もよくやってるよ。毎日毎日家事いっさいやってるもんな。俺だったら三日もたねーよ」
「あ、それは言えてるよなー。料理なんてできねーよ、オレら」
 授業が始まると会話は自然と打ち切りになり、信二は熱心に授業を頭にいれた。
 ノートの上の余白に自分とミコトの年を書き入れる。
 草薙命、二十八。
 草薙信二、十六。
 信二がミコトに引き取られたのは、信二が八歳のときだ。
 ミコトはまだ二十歳で、社会人として社会に出たばかりの年だった。
 自分ひとりのことでも不安だらけだっただろう時代、小さな子供を引き取るのにどれほどの勇気と決断が必要だったのか、信二には想像もつかない。
 二十歳になったとき、果たして自分はそんな決断ができるだろうか。
 小学生を引き取って、育てるなんて決意が、できるんだろうか?
 信二はため息をついた。

 家事ぐらいでは補えない負債。
 ミコトに対する無限大の負債を信二は知っていた。


      § § §  


 その日、ミコトから電話があった。
「今日遅くなるからーっ。先に食べてていいわよ」
「わかった」
 と答えつつも落胆する。ミコトの好きな、レンコンの肉詰めを作ったのに。
 ミコトはお酒が好きで、朝帰りはしないものの、夜遅くなることもしばしばあった。そしてそういうとき、大抵男がミコトを送ってきた。
 送り狼になることを期待していたのであろう男は信二を見てぎょっとし、更に酔っ払いのミコトが確信犯で「これ私の息子ー、いやもう母親に似ずよく出来たしっかりした子でね〜」とへらへら口調での言葉にトドメを刺されていつもすごすご逃げ帰る。
 息子がいるぐらいで引っ込むようなオトコはお断り、よっ。
 つんっと頭を上げ、ミコトはそう言い放つ。
 信二としてはそれはミコトが自分を邪険にしないで、結婚するときは息子である信二をひっくるめて連れて行く男以外とは結婚しないという意思表明で、まあ嬉しいことだったが、ミコトの婚期の遅れには少々胸が痛まないでもない。
 誰だって、二十歳で八歳の子供を育てるだなんて早すぎると言うだろう。
 信二は思い浮かべる。八歳のときは、高校生はもっとずっと大人に見えた。けれど、実際はてんで子供だった。子供のときは、二十歳といったらもうすっかり大人のような気がしていた。けれど、この年になれば見えてくる。二十歳というのは、今からたった四つ年をとっただけの、大学二年生なのだ。
 おとななんかじゃない。
 姉の死だけでも青天の霹靂、苦しいことなのに、八歳の子供を引き取る決断をするのは、どれだけ勇気がいっただろう。
 実は母が死ぬ前、信二は叔母であるミコトになついていたかどうか、自信がない。憶えてないのだ。太陽のずっと強い光に微灯が打ち消されてしまうように、最初の思い出に打ち消されてしまった。
 憶えているのは葬式の日の出会いからだ。
 ―――葬式の日に、酒を飲ますようなとんでもねー人だった。
 信二は回想し、ノートに数学の公式を筆記していた手を止める。
 ほんっとに、とんでもない人だった。子供に酒を飲ますか? 普通。しかも葬式のときに。やるか普通?
 ……でも、それで救われた。
 ミコトに引き取られて八年。
 信二は学校の成績は学年で十番以内から落ちたことがない。
 その日もミコトが帰ってくるのを待ちつつ数学の予習復習に励んでいた。
 やがてベルが鳴り、信二は相手を確認してから扉をあけた。
「山下さん。いつもすみません」
 如才ない笑顔。文句のつけようもない礼儀正しい態度。ねぎらいの言葉も忘れずに、自分の母親をソファに寝かすのを手伝う。
 イコール総括した総合評価は高校生としては出来すぎたぐらいの「いい子」。
 ミコトの会社の同僚に対しては過ぎるほどにいい子でいなくてはならない。
 そう、文句をつけたくてもつけられないほどに。
 自分の態度がミコトの評価に直結することを知らないほど、信二は子供ではなかった。
 丁寧にお礼を言い、玄関先まで見送って、信二はソファに沈没しているミコトの側に戻る。
 時計を見れば午後11時。
「よく飲んだなあ……。ミコト。スーツ脱いで。ご飯たべた? レンコンあるよ」
 うーん、うん、あーうー、と返事にならない返事を口の中で呟いて、ミコトは目をしっかり上下に接吻している。
 信二は苦笑しながらミコトのスーツのボタンを外し、仰向けに寝ているミコトの肩の下に腕を差し入れて、上着を外す。タイトなスカートも同じようにして外して、ストッキング姿になった母親にすぐさま毛布をかけた。
 ミコトさんカッコイーっ! とか言っている自分のクラスメートに、このタコのようにぐにゃぐにゃの姿を見せてやりたいと思う。
 間抜けでドジで、ほやーっとしていて日常生活の家事一切ぜんぶだめで。
 八歳のとき、ここに来た自分は即日さとったものた。
 ―――ミコトさんに任せておいたら日常生活はハキダメだ。
 初めて料理をつくってミコトに出した時のことを思い出す。
 さすがにミコトも八歳の小学生に料理をさせるとは思いつかなかったようで、帰宅したときテーブルに並んでいる料理に目を丸くした。
 グリーンピースと、鶏肉のクリームシチュー。
 小学生の子供にとっては、ただ単に水を張って鶏肉とジャガイモとグリーンピースを入れて煮込むだけの料理が簡単に思えたのだ。あくとりはあくとりシートで代用し、出来上がったシチューは我ながら美味しかった。
「おいしい? おいしい?」
「美味しい……ほんとに」
「明日からご飯、作るから」
「うーん……うん、まあ……、私が作るより信ちゃんが作った方がマシかもねぇ……」
 と腕組みしてうなったミコトは、翌日、子供用エプロンを買って来てくれた。
 ソファの上に散っているウェーブがかかった髪をゆっくり撫でて、信二はミコトに引き取られることが決まった時の事を思い出す。
 たぶん一生忘れない、大切な記憶だ。
 信二には何が起こったのかわからなかった。家族三人でレストランに行き、その帰り道での事故だった。
 衝撃で目の前が真っ白になり、気がつけばそこは病院で、両親の死を告げられたのだ。
 その前後の記憶は、あんまりにも苦しくて、よく憶えていない。
 ただ、通夜の席か、葬式の席か、どちらかだったと思う。
 家にたくさん人がいる気配がして、けれどもその人たちは一室に集まっていて、食堂には誰もいなかった。
 近所のおばさんが用意してくれたご飯を前にして一人ぼんやり食卓にすわっていると、叔母となのる女の人が話し掛けてきたのだ。
 勧められた飲み物を勧められるまま飲んで、ぽやっと頭が浮遊した。
 ……今にして思えば、アレは酒だったのだろう。
 子供になんてものを、と思うのだが、そのおかげで信二はやっと、泣くことができた。
 飲みすすめるうちに目からぼろぼろ熱いものが零れてシャツにしみをつくった。
 叔母と名乗る女性の胸で、思う存分泣いて泣いて泣きじゃくった。
「私がキミを、引き取ることに決まったから。よろしくね」
 それ以前、信二はその女の人のことをよく知らなかった。
 一二度、正月や盆のときに顔をあわせる程度で、半年に一回の顔合わせ程度では、顔を憶えていたかも怪しい。
 ましてやその出会いの印象が強烈すぎて、それ以前の記憶は打ち消されたようになってしまっている。
 ミコトにさわぐクラスメートも、会社の同僚も、誰も、知らないくせに。
 ミコトの泣き顔、ミコトの怒った顔。信ちゃんと甘えてくる声、頼みごとをするときの声、ミコトのみっともない所も間抜けなところも家事でドジを踏んだとき「あはは」と笑う表情も、誰も、何も、知らないくせに。
「ミコトは家事はやんないで! 俺がぜんぶやるからっ」
 そう宣言したのは確か引き取られてさほど時間は経っていない頃だったように、思う。
 ミコトは掃除をしなかった。
 どーしよーもなくなってから、掃除なんてものはすればいいのよ! という主義で、反して信二は髪の毛が落ちている絨毯の上を歩くのは遠慮したかったし、一週間に一度は掃除機をかけたいという主義の持ち主だったのだ。
 そうして子供の信二が洗濯機の使い方やら掃除機の使い方やらに習熟している間、ミコトはミコトでいろいろあったらしい。
 らしい、というのは、大人はいつも子供に秘密を作るからだ。
 苦しくても、それを子供には言ってくれない。
 でも、想像はつく。
 ミコトの努力と決意に、砂をかけて馬鹿にする人はどこにでもいる。
 いい格好をして、育てられないに決まってるよ。
 そんな言葉に言葉を返しても無駄だから、信二は頑張っていい子になった。
 態度で見返した。
 信二は立ち上がると、ミコトの服を丁寧にハンガーに吊るして、また戻ってきて、ミコトの頬をつねった。
「信ちゃーん……?」
「ミコト。ご飯食べる? ここで寝る?」
「食べるー……」
 むっくりとおき出す時のくずれにくずれた顔が、キスしたいほど可愛い、と感じるのはヤバイ傾向だよな、と信二は自分でも思う。史上最強の防護壁、「血のつながり」はないんだからして。
 ミコトと自分の間に血のつながりはないと知ったのは中学のときだ。
 信二の両親は、再婚組だった。
 血の繋がらない義理の母の妹。
 それがミコトなのだ。
 中学のとき、戸籍謄本を取り寄せ、それを知ったとき、信二は頭をかかえた。
 母が義理の母だったということを知ったショックよりも、ミコトと血がつながっていないという事の方が何倍も嬉しかったという事実が示す結論に。
 草薙命、二十八。
 草薙信二、十六。
 いい大学行って、弁護士か医者になって、自分が成人してからなら十二の年の差も何とかなるかな、とか頭で暗算していることはミコトには絶対しられちゃいけないトップシークレットだ。

 信二はミコトに手料理を振る舞いながら顔がほころぶのを感じる。
 おいしーを連発しながら料理をほうばるミコトをみると、自然と顔の表情が緩む。

 少年が成長する時間は、目を見張るような早さだ。心に目的をもつ少年が大人になるのは、周囲が思っているより、ずっと早い。
 
 
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