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クリエイター名  あるてみす
竜翁

 枯れ葉の堆積した斜面を、体重を掛けて踏み締めていく。
 盛り上がった木の根にスニーカーを引っ掛けて体を持ち上げると、かすかに滲んだ汗が冷たい風に拭われた。呼吸を整えてから振り返ると、広大な草原が一望出来た。眼下には青々とした木々が茂っており、山もまた豊かだった。草原を吹き渡る風の中には牧場の敷地の中を駆け回る馬の蹄の音や、高い空を巡る鳥の甲高い鳴き声が含まれていた。湿った土の匂いが混じった空気を肺に詰め込んでから、カナコはショートカットの髪の襟足を払い、首筋の汗を拭った。
 カナコは振り返り、太い木々の奥に隠れた洞窟を見定めると、好き勝手に伸びている雑草を足で払いながら足を進めた。ツタの這う斜面にぽっかりと口を開けている洞窟に入ると、暖かな外気よりも湿っていて冷ややかな空気が肌を舐めた。入り口から差し込む日光以外には光源がないため、かなり暗かったが、慣れた場所なのでカナコは足元も見ずに歩いた。しばらく歩くと、洞窟の奥に岩盤ではない遮蔽物が現れた。それは、首が痛くなるほど見上げても見上げきれない扉だった。全長十メートル以上はあろうかという重厚な物体であり、雑多な木材や金属などを寄せ木細工のように組み合わせて造られたものだった。
 カナコはその扉を乱暴にノックしてから、背中で思い切り押したが、扉自体の凄まじい重量に負けて足が滑ってしまった。バスケットを落とさないように抱え直してから再度背中で扉を押してみるが、その努力も空しく、扉は一ミリも動かなかった。
「いい加減にしろよ…」
 カナコは小さく毒突いてから、目下の障害である扉を全力で押し開こうとすると、遙か頭上でドアノブがぎぎぃと捻られた。耳障りな騒音の後、厚さ二十センチはあろうかという分厚い金属板で出来た蝶番が動き、埃混じりの火花が飛び散った。
「いやあ、すまんすまん」
 扉と壁の隙間から顔を出したのは、扉に見合った巨体の竜だった。
「君が来ていたことには気付いていたのだが、今し方読んでいた本が佳境に入ったものでね」
「読書なんて、いつでも中断出来るじゃないか」
 Tシャツとジーンズに付いた砂埃を払ってから、カナコはメガネの下の目を吊り上げた。
「だがね、君。読書というものは作者との対話であり、そして己との対話でもあるのだよ」
 彼女を招き入れた竜は、緑色の分厚いウロコに覆われた目元を細めたが、全身のウロコからは色艶が薄らいでいた。その背に生えた一対の翼も同様で、暴力的に風を切り裂けるような力強さはなく、骨の間の皮はゆったりと弛んでいた。腹部や手足の皮膚も緩やかに重力に従っていて、弾丸も刃も通じない頑強な肌の下の肉が落ちていることを知らしめていた。その背景は赤茶けた岩が剥き出しになった洞窟で、やはり老竜の体格に合わせた大きさの本棚や戸棚などが並んでいた。
「して、カナコ、今日の手土産はなんだね?」
 やはり巨大なテーブルに付いた老竜の前に、カナコはバスケットを突き出した。
「チェリーパイだ」
「なんだね、チーズケーキではないのかね」
「嫌なら喰うな。大体、私はお前の趣味に合わせて料理をしているわけではないのだからな」
「だがね、どうせ君の料理を食すのは私以外にいないのだから、私に合わせてくれても」
「だからって、年がら年中チーズケーキでは飽きてしまうだろうが」
「飽きはせぬ。ただ、少しばかり胃が重たくなる程度だとも」
「それが良くないんだ。お前もいい歳なのだから、倒れられては困るんだ」
 カナコは老竜の尻尾をよじ登り、更に腕を伝ってテーブルに到着した。テーブルの端にはカナコの身長よりも大きなランプが据えられ、その中では荒く砕かれた青い鉱石が薄青い炎を放ち、あまり熱を持たない光を放っていた。ランプ以外のものも全て巨大で、本も、グラスも、老眼鏡も、ペンも、カナコの身の丈よりも遙かに大きかった。カナコは成人女性の中ではごく一般的な体格だが、老竜の住み処を訪れると、まるで小人になってしまったかのような錯覚に陥る。
「私は既に千年も生きた身なのだ、今更命を長らえようとは思わんよ」
 老竜は巨体に見合った椅子に寄りかかり、木材を鋭く軋ませた。カナコはその場に胡座を掻くと、バスケットを開いてチェリーパイを取り出した。カスタードクリームを詰め込んだパイ生地に隙間なく並べられたルビーのようなチェリーにナイフを差し入れ、切り分ける間、カナコは黙り込んでいた。老竜は彼女の機嫌の悪そうな横顔を眺めていたが、その眼差しは優しく、老人が孫に注ぐ眼差しに似ていた。
 老竜の住み処は、カナコのログハウスに程近い山の斜面にある洞窟を改造し、家に造り上げたものである。手前の部屋が書斎兼居間で、奥が書庫兼寝室だ。住人は老竜一人しかいないため、二部屋でも充分に機能を果たしている。
 この地に来る前、カナコはやり手のキャリアウーマンだったが、都会での騒々しい生活に疲れて田舎に引っ越して自給自足の生活を始めた。もちろん、ログハウスも自分で設計して材木を掻き集めて建てたもので、周囲の畑や牧場も彼女一人の力で完成させた。そんなカナコと老竜が出会ったのは、半年前の出来事だ。雲行きの怪しい夕方、カナコは薪を集めるべく山に登ってきた。だが、予想よりも雲の走りが早く、カナコが山を下りる前に嵐が訪れ、天を裂く雷光と豪雨に襲われて身動きが取れなくなった。その時、カナコが雨を避けようと入った洞窟が老竜の住み処だった。老竜は雨に追われたカナコを迎え入れ、暖炉に火を入れてくれた。存在は知っていたが竜族との関わりは一切なかったため、最初のうちはカナコもかなり警戒していたが、穏やかな老竜と話し込むうちに次第に警戒心が薄れていき、田舎暮らしの寂しさも手伝って夜が更けるのも忘れて会話を弾ませた。雨が止んだ翌朝にカナコは洞窟を後にしたが、また来る、と言い残して帰った。それからというもの、二人は何度となく会い、互いの退屈を紛らわせている。
「ほれ」
 カナコはチェリーパイの半分を皿に載せ、老竜に差し出した。
「では、頂こうか」
 老竜は太い爪先に皿を乗せると、凶悪な牙が生えた口を開き、その中にチェリーパイを投げ込んだ。
「もう少し味わって喰ってくれないか」
 カナコが不満げに眉を曲げると、老竜は口を閉じ、もごもごと動かした。
「充分味わっているとも」
「それらしく見えないんだ」
 カナコは自分の分のチェリーパイを切り分け、四分の一を囓った。
「して、今日は何を話そうかね?」
 老竜が目を細めると、カナコはチェリーパイを飲み下した。
「そういえば、私はまだお前の名を聞いたことがない」
「私の名か」
 老竜はチェリーパイの甘みを確かめるように、長い舌でぐるりと口中を舐め回した。
「そのようなものを知ってどうするね」
「教えたくないのか?」
「いやいや、そういうわけではないんだがね」
 老竜はカナコを見下ろし、僅かに口元を開いた。
「君達人間の世界では、私のような者は過去の遺物に過ぎん。だから、私はこのまま過去になりたいのだよ。世を捨て、地位を捨てたのも、そのためだ。何事も起きぬ緩やかな時間こそが、私が長らく求めていた幸福なのだよ」
「その割には私と話し込むな」
「どれほど世を捨てようとも、寂しくなる時はあるものでね。その時、丁度現れたのが君だったのだよ」
「都合の良いことを」
 カナコはチェリーパイの残りを頬張ろうとしたが、その手を止めた。
「だが、そうだな。私も、寂しくなければお前の元へなど来るものか」
「だから、君は君であり、私は私で充分なのだよ。この世界がいかに広くとも、目に映る世界は限られている。君の両腕では足りないかもしれないが、私の両翼でならば足りるほどの世界だ。その広くも狭い世界に住まう者同士、互いを認め合っているだけで充分ではないかね?」
 老竜の言葉に、カナコは唇に付いたチェリーパイのシロップを舐め取ってから少し笑った。
「そうかもしれないな」
「では、君と私の世界に奥行きを与えるために、私はこの古びた脳に堆積した知識を吐き出すとしよう」
 老竜は丸く膨らんだ腹部の上で両手を組み、太い尻尾の先で岩盤の床を軽く叩いた。声色は低いが柔らかな語りを聞きながら、カナコは力作のチェリーパイを味わった。洞窟全体に反響した声が四方八方から降り注ぐ中、カナコは老竜の語りに聞き入って頬を緩めた。同じ世界に暮らしているはずなのに、全く別の歴史を積み重ねていた竜族の過去は興味深くもあり、不思議と懐かしいものだった。老竜との出会いは誰に知られるものでもなく、誰に教えるものでもないが、カナコが生きてきた中で最も豊かな時間となっていた。
 明日は、チーズケーキを焼いてこよう。


 
 
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