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クリエイター名  さら
春と桜と酔っ払いの悩み

【春と桜と酔っ払いの悩み】

 春、桜の木の下で、酔っ払いはのたまった。
「おれ、殺されちゃうんだ! ひでぇ、ひでぇよ、うわぁーん!」
 あまりといえばあまりの言葉に、真里は一瞬言葉を失う。
 事の始まりはこの三十分前。
 真里が春の陽気に誘われて、花見に出かけたことから始まる。

 春が来た。
 日差しは暑いほどに照り、冬の終わりを知らせる。冷たく悴んだ指先を溶かすように、大地を包み込んだ。
 遠くの方は緩やかに霞み、ぼんやりと柔らかい。この季節、世界中が滲んで見える。うっすらと霞がかり、綺麗だった。
 真里は晴れ渡った青空を見上げながら、口元をほころばした。
 冬は嫌いではないが、それでもこんな暖かい日が来ると、無条件に嬉しくなるものだ。心が沸き立つような気がして、出かけたくなる。
 洗濯物がゆるりと風になびいて、爽快感をさらに増長した。
 その風に乗って花びらが一片、ひらりと目の前を通り過ぎる。
 何の花なのか認めた瞬間、真里の目がきらりと輝いた。
「桜ー!」
 この辺は住宅地だから、見渡しても見えるのは家、家、家。だから、桜の花びらの存在は、真里の心を沸き立たせた。
「え、どこから? この辺りに桜なんてあったっけ?」
 庭に出て、ブロック塀から身を乗り出して首を巡らせた。けれど、その姿はどこにもない。
 でも、近くに桜の木はあるはずだ。この花びらが、その証拠。
「――春は桜を愛でる、これ日本人として常識ね! よっし、善は急げ!」
 真里はいったん家の中に戻ると、冷蔵庫の中をがさごそと探る。
 引っ張り出してきた食料を、無造作にブルーのパーカーのポケットに突っ込んだ。随分ともっさりしてしまったけれど、真里は気にしなかった。
 鼻歌を歌いながらスニーカーに足を突っ込み、玄関から出て行った。
 どこかにあるはずの、国花を捜し求めて歩き出す。
「さっくら〜、さっくら〜――っと、あった!」
 家の周辺を探索すること十分、住宅地に埋もれるようにして在った小さな公園を通りかかった時、真里は見つけた。
 家四件分と同じくらいの広さの敷地に、滑り台と木製のベンチが一台ずつあるだけの、ほんの小さな公園。遊具の塗料は剥がれ落ち、下から覗いた金属は錆びきってしまっている、時代を感じさせる古い公園であった。
 思わず見過ごしてしまいそうなほどのその公園の隅に、これまた見落としてしまいそうな桜の木が一本だけ、ぽつんと立っていた。まだ若いので枝ぶりもいまいちで、たった一本だけだからあまり目立たないようだ。人は誰も居ず、辺りはシンとしていた。
「あー、懐かしい。そういえば、うちの近くにこんなところもあったっけ。ぱっとしないんで、忘れてたわ。――ふーん、でも、静かでいいじゃん」
 桜の下まで行くと、木を見上げた。五分咲きというところだった。
「確かにまー、桜の大群の美しさには叶わないかもしれないけどさ……うん、これもナカナカ、味があっていいじゃないのよ。なにより、あたしが今、これを独り占めできているっていうのがいい。よーし」
 言いながらポケットから取り出したるは、なんと缶ビール。
 迷いなくプルを引き起こすと、真里はまず桜の木に半分ほどかけた。一緒に持ってきたスルメいかやらハムやら柿の種やらを木の根元に置いて、手を合わせる。
「ちょっくら勝手にやらさせてイタダキマス。目障りかも知れないけれど、ゴメンネ」
 そして、よいしょ、と年寄りくさく声をあげながらその場に座り込むと、開いた缶ビールに口をつけた。スルメも食べる。
 人気がないから見られることもなく、責められることもなく、ひとりの天下だ。
 桜の木を愛でつつ、ビールをあおる。酒の巡りもいい塩梅になってきて、体がほわりと温かくなってきた。同時に、どうしようもなく愉快な気分が襲ってくる。
「ふん、ふふふ〜ん、花見酒〜。休日の真昼間から、なんて贅沢なの〜!」
 自然と鼻歌が出てくる。酔いが回ってきたようだ。真里はあまり酒に強いとは言えないので、こうやってすぐにいい気分になれるのだ。
「――っく」
 ぎゅっとスルメに歯を立てたそのとき、しゃくりあげる小さな声を聞いた。それは、木の影から聞こえてくる。
 不審に思って、スルメの足を咥えながら耳を澄ました。
「……ふっ、ひっく、ふぅう……っ!」
 やはり、気のせいではない。誰か居る。声は低く、男性のものだった。
 四つん這いで桜の木の反対側にまわってみると、そこには、膝を抱えて泣きじゃくる男性の姿があった。
 見た目は、イマドキにしてはおとなしめな印象であり、髪の毛も生まれた時のままの黒さを保っている。
 年齢は真里と同じくらいであろうか。なのに、年甲斐もなく涙を滝のように流している。
「お? おおっ? なぁによぉ、どうしたのよ、アナタ」
 ふにゃふにゃとした口調で、真里は声をかけた。反応して、彼はこちらを見上げる。
 潤んだ瞳と目が合う。涙を拭おうともせず、ぐしゃぐしゃになった顔が汚い。いつから泣いていたのか知らないが、顔が――特に鼻の頭が真っ赤であった。
 手を伸ばして、子供にするように彼の頭をよしよし、と撫でた。
「ダイジョウブ?」
 しつこく断っておくが、このとき真里は酔っていた。いい気分で懐が広くなっていたので、判断能力が鈍っていたのだ。普段は、たぶん、決して、こんなにお節介になることはない、はずだ。
 頭を優しく撫でられて、それがスイッチとして働いたのか、きらりと光る鼻水を啜り上げながら、彼はよりいっそう声をあげて号泣した。
「うっ、えっ、ぐ、うぐぇぇえっ!」
「あー、ハイハイ、大丈夫ですよー。泣かない、泣かないー。この真里さまに相談してみなされ。オニーサンの悩みもたちどころに解決させてみせまショー!」
 言われて、彼は期待に満ちた眼差しでこちらを見上げた。
「ぼ、僕、僕――」
 えぐえぐとしゃくりあげながら、彼はばしんと言った。
「僕、殺されちゃうんだ! うわーん!」
 そして、冒頭に戻る。

 春のうららかな日差しのもと、衝撃的といえば、衝撃的な台詞だった。
 随分と穏やかでない。世界に類を見ないくらい平和といわれているこの国で、殺されるなどと余程のことだ。
 どうするべきか判断に困って、真里は改めて彼を見下ろした。
 まばたきするたびに涙がぱたぱたと零れ落ちていくのが印象的だった。真里の言葉に、相手が子供のように澄んだ瞳を向けてくる。
 とりあえず、聞いてみた。
「どうして殺されるの?」
「わかんないよ……だけど、僕もう必要ないから、殺すんだってぇ……そ、そんなのないよねぇ、ひどいよねぇ、ねぇえっ?」
「必要ない? 誰がそんなことを。誰にそんなことを決める権利があるのよ。誰もあなたの存在価値を断定することなんて出来やしないのに」
 とりあえず、で聞いてみたことでそれが本当かどうかはわからないけれど、なんにせよ不必要という言葉は気に入らなかった。これが本当に人から言われたことなら、なおさら気に入らない。
 思わず本気になって身を乗り出した。
「そうだよねぇぇ、そう思うよねぇっ? ひどいよぅ!」
 同意を得られたことで、さらに涙腺の堤防が決壊したらしい。彼は顔を手で覆い、むせび泣いた。
 真里は彼の顔を覗き込む。慰めようとしたのだ。
 けれど、そのとき、なにやらいい匂いがした。思わず口を手で押さえて、体を引く。
(あれ、気のせい? あれ、でも、あれ、あれ)
 鼻を動かした。自分の匂いと交じり合ってよくわからない。けれど、もしそうなら、彼のこの尋常でない取り乱しっぷりも説明できる。
 いまだえぐえぐと涙を流し続ける男に顔を寄せて、匂いを嗅いだ。
(――やっぱりだ。この人、酒を飲んでる)
 顔も真っ赤だ。泣いているせいだとばかり思っていたが、飲酒をしていると考えれば、顔が赤いのも、奇天烈な発言も納得できてしまった。
 相当、酔っ払っている。
(なぁんだ、ただの酔っ払いか)
 わかるなり、先ほどの言葉の重さが消えた。ついでに、考える力も。
 真里はビールやつまみを引き寄せた。さらにポケットからもう一本のビールを取り出すと、彼の眼前に突きつけた。
「ほら、オニーサン、呑んで、呑んで! 愚痴ってもいいよ。付き合ったげるわ。悩みは呑んで押し流せー!」
 言うと、相手は一瞬こちらを注視した後、滂沱の涙を流す。
「あ、あ、ありがとうぅー! 優しいな、優しいなーっ! 死ぬ前にこんな優しい人に会えてよかった!」
「なぁに言ってんの、死ぬだなんて! うちでかくまったげるから、安心しなさい!」
「え、ホントっ?」
「本当よー。だからもう、泣かないの!」
「ううう、うん。君、いい人だなーっ! ありがとう、ありがとう!」
「困ったときはお互い様よ。さっ、呑んだ呑んだ!」
 強引にビールを飲ませたところまでは覚えている。
 しかし、すぐに限界が来たようで、それ以後の記憶はぷっつりと途絶えたのだった。

 目を覚ましたのは、自宅でのことだった。
 ということは、自分の足で帰ってきたことになる。
(家からはすぐ近くだし、それは不思議じゃないんだけど)
 自宅、というよりは、正確には家の庭で真理は寝ていたようだ。指に触れるざらざらとした砂の感触に、これは夢ではないのだと教えられた。
 仰向いた体の上に、桜が見える。花びらが舞い、真理の顔にかかった。
 誇らしげに咲く桜の木を呆然と見上げたまま、しばらく動けなかった。
 それからしばらくして、あの公園が取り壊されるという話を聞いた。
 なるほどねぇ、と納得する。
「……ま、うちは引っこ抜いたりしないから、安心しなさいよ」
 そうして、ビールを一缶、かけてあげながら、真理は笑う。
 
 
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