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クリエイター名  文月 猫



 「旅に出るわ。『猫』をよろしくね。」
 そう書置きを残して、突如いなくなった彼女。そして2人がそれまで生活していたマンションの一室に虚しく広がる虚無の空間。
 それは突然だった、ある日仕事を終え帰宅した僕が、いつものようにカギを使って中にはいる。そしてすぐに気がつく。部屋の中の空気がどこか寂しいのを。そこに今まであった何かが足りないのを。急いで部屋の明かりをつける。そしてすぐにそれに気がつく。
 ‥‥いないのだ。いつもなら『猫』と共に僕を「お帰りなさい」と迎えてくれるはずの彼女が、いないのだ。
それはあまりに突然に起きた出来事。見れば部屋の中には、つい昨日まで彼女が使っていたであろう身の周りの品物が無造作に置かれていたりする。それはまるで突然主を失ってしまったかのような虚しさを持って僕を迎えたのだ。誰もいない空間。そこにひとりたたずむ僕。この部屋がこれほど寒く、広く感じられたことはなかった。
 僕はふと思い出した。何かこんな日が来ることを予感していたようなあの日を

 彼女には夢があった。それは「プロカメラマン」になると言うこと。それも女性では珍しい、野生や自然の生命を題材にした写真家になることであった。その為学校で学び、著名な写真家の下でアルバイトし、時には自らも被写体を求め旅をする。それは国内のみならず、世界中にまで。

 そんな彼女の夢を、僕はすばらしいと思っていた。2人で暮らすようになってからはことのほか僕にとっては自慢だったのだ。そんな彼女がそばにいて、僕がその傍らにいることが。
 そう。時には彼女の撮影に付き合うこともあった。あれはまだ僕が社会人になったばかりの頃。すでにカメラマンとしてわずかではあるが収入を得ていた彼女に付き添って、撮影にでかけたこともある。
 だが。僕はしがないサラリーマンで、彼女は自由人。自分の時間すら思うに取れない組織に縛られた人間と、そうでない自由人。
 社会人たる僕が、次第にそんな時間がとれなくなってくるのも当然。仕事になれ、責任が増えるにしたがって、会社に拘束される時間も長くなり、彼女につきあってやれる時間も目に見えて少なくなってくる日々。

 そう。思えばすでにその頃から、いつかこんな時が来ることがわかっていたのかも知れない。‥‥、だがそれはあまりに突然訪れたのだ。そこにできた空虚な『空間』。それは決して目に見える形であるとは限らない。誰の心にでも必ず存在する、『空虚』な空間。僕だって例外ではないのだ。
 ただ、何も知らない猫だけがそこに存在している。まるで何かそれだけおき忘れられたかのように。

 何日、いや何週間かが過ぎていただろうか?残された『猫』は、まるで昨日までそこにご主人がいたかのような振る舞いで、彼女の部屋に居座っていた。
 成り行きとしかいえないが、あの日依頼、『猫』の世話は僕の日課となった。まあ、もともと動物は嫌いではない。嫌いではないが、自分から積極的に飼おうと思ったことなどは今までなかった。だが今はこの『猫』の世話をすることがいわば僕の日課にもなりつつある

 猫は知的である。気まぐれでわがままなものの代表格のようでもあるが、決してそういう一面ばかりではない。
逆に極端に人を『見る』のかも知れない。今、僕のそばにいるこの猫。
 例えば、僕がこの部屋にいるとき、誰か見知らぬ人が尋ねてきたとしても、まず警戒してそばには寄り付かない。それは僕の友人が部屋を訪ねてきたときも同じ。狭い部屋なので隠れる、とかそういうことができるわけでもないのに、相性の合わない人のそばには絶対に近寄らない。この『猫』。今では僕以外にはなつかない。

 たぶん血統書なんかないただの雑種だろう。だって、まだ彼女がいるとき、ある雨の日に道端に打ち捨てられていたのを彼女が拾ってきたくらいだから。でも猫に血統も何もそんなものは関係ない、と僕は思う。だってそんなのは人間が勝手に自分たちの都合でつけただけじゃないか、といつも思っていたからだ。『猫』とって大切なのはそんなことじゃない。この世に生きているか死んでいるか?いや。それも違うと思おう。たぶん、うん。僕は最近確信する。『猫』にとって大切なもの、それは自分が誰かに愛されているかいないか、自分が信頼できる飼い主、に巡りあえること、じゃないかと思うようになってきた。

 そう、すべてこいつと生きるようになってから。こいつは僕に『猫』ばかりでない、『人間』としての大切なものは何かを教えてくれたような気がするのだ。

 だが、本当は『猫』にとって人間の都合などどうでもいいのだ。

ある日。あの雨上がりの朝。うっかり窓を少しばかり開けて外出した僕は、『猫』の姿がいなくなっているのに気がついた。
 そう。まるで忽然と姿を消すように『猫』はいなくなったのだ。まるでそれが前からの約束ごとであったかのように、まるで今までもその存在がなかったかの様に、『猫』は突然いなくなった。何の前触れもなく。そう、まるであの『彼女』が去った時のように。
 僕はどうしたかって?。そう、普通なら探すところだろ?とそう思うかも知れない。でも僕は探さなかった。
別に邪魔だったからだとか、この方がいいや、と思ったからだとかそういうわけではなく、ソレが決められていた約束事のように思われたからだ。なぜかって?さあ。僕にもわからない。ただ、そうあるのが自然の流れ、決められた道、のような気がしたんだ。
 もう探しても、『猫』はかえってこないってね。こころのどこかにそんな思い込みがあったのかもしれない。

 そしてあの日。『猫』がいなくなったあの日の新聞に載っていた囲み記事を、僕は多分生涯忘れることな無いだろう。それは朝刊の中ほどに枠囲みで取り上げらていた記事。

「日本人女性初の国際写真賞入選」
というタイトルの記事。ともすれば見落としがちなその記事に、僕の目は釘付けになった

 なぜかって?そう。そこに写っていた写真家は‥‥。

 その日の昼下がり。部屋のドアのカギがいきなり開けられる。そしてそこにたたずんでいたのは‥‥。
「ただいま」
という懐かしい声と、懐かしい笑顔。

 これだけで十分だった。あとは何も説明は要らない。すべてはきっとあの『猫』が知っているだろうから。

 あれ以来、僕は『猫』を飼うことをやめた。





 

 
 
 
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