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クリエイター名 |
秋里紅良 |
サンプル
春の夜。 早々にシャッターの降ろされた人気のない商店街を、あからさまに憮然として歩く少年の足に、白足袋をはいた黒猫がのどを鳴らして小さな体をすり寄せる。足元でうろちょろされては蹴りつけそうで歩きにくく、余計に怒りを増長させるだけだとわかっているのか、機嫌を取っているつもりらしい黒猫のすり寄ってくる体をすげなく避けて、少年はきっぱりとした声を聞かせた。 「気持ち悪いからすり寄らないで下さい」 冷ややかな声音だった。 等間隔に並んだ街路灯に眼鏡を鋭く光らせて、絶対零度もかくやという声を聞かせた少年に、人語を解するらしい黒猫はぐがぁんとショックを受けた顔で一瞬立ち止まる。そしてよたよたと少年から数歩離れると、ぽてっと横ざまにひっくり返った。 少年のすらりと伸びた長身は、まだ成長期ゆえに厚みにかけたが貧相な感じはしない。どころか、さらさらの黒髪に切れ長の鋭い光を宿した黒い瞳や、通った鼻筋にかかった銀縁の眼鏡、冷たい印象さえも受ける整った顔立ちとあいまって、どこか近寄り難い威圧感を伴ったクールな少年に仕立てていた。 その、それでなくても冷然とした少年にまさしく冷酷に接されて、黒猫のショックはメガトン級だったようだ。だが起き上がってくるのを待ってやれる気には到底なれず、少年は一人で歩を進める。 しかしそれも束の間、ふふっと無気味に笑って黒猫は素早く立ち直った。そのままひっくり返っていても助けてはもらえず、置いて行かれるだけだと早々に悟ったのかもしれない。 「そんな言い方をするもんじゃないよ、螢斗{ケイト}。君のことを知らない人が聞いたら冷たい人だって誤解されちゃうでしょ」 人語を解するどころか操ることもできる黒猫は、ちっちっち、と顔の前で人差し指を振った――というより、正確にはつもりになった。 「誤解じゃなくてその通りなんですよ」 「そんなことないよ!」 ぴんと耳を立てて強い声で否定し、しかしすぐにほわっと夢見がちな顔で黒猫は微笑んだ。 「螢斗はとっても優しい子だよ。でも同じくらい照れ屋さんだからそういう言い方になっちゃうんだよね」 おまえは正気なのかと問いただしたくなるような鳥肌もののセリフをてらいもなく吐いた黒猫に、螢斗と呼ばれた少年は立ち止まって悪寒に耐える。 「――……父上」 どうしてこんなふざけた性格の物体が自分の父親なのかと、もしかしたらこれは新手の嫌がらせなのかと真剣に悩み、いや天然だから始末におえないのだと結論づけた螢斗は抑えた声で黒猫を呼んだ。 「あなたが想像の中でどんな俺を作り上げようとそれはあなたの自由です。けれど、それを俺に押しつけないでくださいませんか」 「何で? だって螢斗は本当に優しいじゃないか。嫌だ嫌だって言ってても、いつだって最後にはお父さんのお願いを聞いてくれるし」 はにかんだように長い尻尾を揺らめかせる黒猫に、押しつけたの間違いだろうと怒鳴りたくなるのを螢斗は何とか堪える。 それにしても、こんな傍若無人な考え方をしていたのでは、いくら螢斗が小言を垂れたところで一向に行状が改まらないのも当然のことかもしれない。 人が死ぬと、その魂は次の転生のために備える。 それが『泰山{タイザン}』と呼ばれる死後の世界――冥界である。 その泰山を統括する主――府君{フクン}こそ、黒猫に身をやつした螢斗の父だ。 彼が泰山府君になれたのは冥界の七不思議の一つに数えられ、冠された形容詞は螢斗が知るだけでも数十にのぼる。メジャーなところで昼行灯、冥界きっての無駄飯食らい、天界、人界、冥界の三界きっての給料泥棒などのオリジナリティのない物から、猫の手を借りたいほど忙しいときでも、泰山府君の手だけは借りるなという、教訓を含んだ物まで多岐にわたる。 そしてそれらの不名誉な形容詞は、我が父のことながら反論できる材料はどこを探しても何一つなかった。 どころか。 はっきり言うが、父の迷惑を一番に被っているのは螢斗だ。 学生の身でありながら、次から次へとおかす数々の父の不始末の尻拭いに奔走しているのである。父が三界一の給料泥棒なら、螢斗は三界一の無料奉仕者だといえよう。おかげで、学生にとっては本業のはずの勉学はすっかりおろそかで、成績は悪くなくてもそれだけではカバーしきれない出席日数不足のために、留年が決定する日も近かった。 そこまで迷惑をかけられ、今日こそは今日こそはと何度も心に決めながらも、何故自分はこの父を見捨てられないのか、我ながら不思議でしょうがないと螢斗の口からため息が零れる。 自分が役立たずの代名詞である猫にも劣ると言われているのを知っているのかいないのか、お忍びのために黒猫に化けた泰山府君は、螢斗が口を利いたことを仲直りの合図ととったらしく、ご機嫌麗しくしっぽを振り振り道を歩いていく。見捨てられないからといって聖人ならぬ身に怒りがわかないわけもなく、黒猫の尻を蹴り飛ばしたい衝動に大人気なく駆られて、螢斗は視線を逸らした。 「ここですか? 無常鬼が言っていた廃病院って」 逸らした視線の先に目的地を見つけて、螢斗は黒猫に視線を戻した。 目的地は商店街と住宅地を隔てる、葉桜が青々と茂る桜並木を抜けてすぐのところにある廃病院だ。 半年ほど前に不景気のあおりを受けてかつぶれたこの私立病院は、やぶとして名高かった。そういう病院だからなのか、それとも病院にそういう噂はつき物なのか、営業していた当時からこの病院には『出る』という噂が絶えない。 螢斗の言葉にうん、と頷いて、黒猫はさして大きくない四階建ての病院をおそるおそる見上げた。 「ホントに何か出そうだよねぇ」 「何を寝ぼけたことを……」 寝言なら寝てから言ってくれと眉間に深く皺を刻んで、螢斗は頭痛を覚えて秀麗な額を押さえる。 「本当に出ると無常鬼から報告を受けたからきたんでしょう」 何も出ないなら、危ない出席日数をますます危なくしてここまで出向く必要はなかったのだ。 しかし息子の窮地を知らない能天気な父は、ああそっか、と能天気に声を上げて、てへっと笑う。 「うっかり忘れちゃってた。やだなぁもう、お父さんってばつい、螢斗とのデートに浮かれちゃって」 ここで父を殺してもきっと罪にはなるまい死んでその性格を直してこい、と、覚えず手が闇雲に殺意に走って戦慄く。しかしながら、非常識な父を持ったばかりに異常に発達した鉄の理性に阻まれて、今日こそは、と螢斗は心の中で誓うにとどめた。 「この仕事が終わったら今日こそは必ず見捨ててやる……ッ」 「え? 何か言った? 螢斗」 「いいえ、何にも言ってませんよ、父上」 心にとどめるには覚えた殺意はあまりに大きすぎ、口からあふれてしまった誓いを聞きとがめて黒猫が螢斗を振り仰いだ。内容は聞き取れなかったらしい黒猫を無駄にうつくしい笑顔で煙に巻き、誓いを一刻も早く現実にするべく螢斗は病院を見上げた。 配電を止められているのか、常夜灯の明かりさえもなく黒々と立ちふさがる病院は、確かに黒猫の言うとおり見た目だけでも充分に何か出そうな異様を誇っている。実際心霊スポットとしても有名で、営業していたときにはさすがになかったようだが、つぶれてからはテレビ番組の心霊特集でも何度か取り上げられているようだった。 門扉はなく、歩道と敷地を隔てる高く設えられた植え込みと植え込みの間に鎖が渡してある。鎖の向こうには小さいながらもロータリーがあり、正面には外来用の玄関、脇には救急指定だったらしく担架の搬入口があった。 侵入を防ぐ障害としてはあまりにお粗末な鎖を軽々とまたいで、螢斗は敷地の中へと入る。 途端、肌がぴりぴりと粟立った。 わずかだが敷地の中だけ、周囲よりも闇が深い。 予想していたものよりはるかに悪い状況に眉根を寄せて病院を仰いだ螢斗の隣へ、鎖をくぐった黒猫が同じように立った。 「瘴気が強い……もう魔に落ちてしまったのかな」 「誰のせいですか誰の」 思わしげな声を聞かせた黒猫の、瘴気に当てられて立っているのもつらそうな小さな体を螢斗は腕に抱き上げる。 生前の恨みや妬みなど心囚われる何かを抱えた魂は、冥界に還る術を見つけられずに地上で迷う。何故見つけられないのかは諸説あるが、負の感情というものは冥界では瘴気と呼ばれ、その瘴気が目くらましになってしまっているのだという説が強い。そんな迷った魂を回収するのは、無常鬼という、冥界でも学校を出たての下っ端の役人の勤めだ。 しかし負の感情というものは育つものだ。 死んで肉体を失い、もう生前の喜びも、苦しみも、悲しみも、楽しみも、全てのしがらみから開放された。酷な言い方だが、もう何にも関われない身でありながら、それでも囚われるほどの感情を、肉体という時間に檻を失ったために忘却という時間の恩恵を受けることもできずに育ててしまうのだ。 時間が経つにつれ育ってしまった瘴気は、もう無常鬼の手にはおえない。 「螢斗…」 「だからいつも申し上げてるでしょう。地上で迷った魂は時間が経てば経つほど瘴気が育ってしまうんです。そうしたらもう殺すしか方法がなくなってしまう」 時間が経つに連れどんどん瘴気を深めていくと人間の生をも脅かすほど瘴気を強め、その状態は魔に落ちたといわれ、その魂を殺すしかなくなるのだ。肉体が滅びても人は何度も生まれ変わり、違う人生を生きる。しかし魂を滅ぼせば、それは全き死だ。 だというのに、無常鬼から手におえないと報告のあった魂を一月近くも放っておいたというのだから、呆れて物も言えない。 螢斗の瘴気に囚われた魂を冥界に還す力は、冥界でも一、二を争うものだ。けれどそれだって限界というものがある。瘴気は薄ければ薄いほど助けやすいのだ。 そう何度小言を垂れても毎度毎度もう魔に落ちる寸前の、どうしようもないという状況になってから螢斗のもとに持ち込んでくれるのだ、この鳥頭の父は。その度に今日こそは見捨ててやると誓いを立てるのだが、未だに達成されていなかった。 「あなたは少しは反省してください」 父の傍若無人さ加減を反芻してぶり返した怒りに今日こそはと誓いを新たにし、螢斗は声を厳しくする。 耳を伏せてうん、としおらしく頷いて、螢斗の腕の中で黒猫は涙に潤んだ目を上げた。 「もう、この人はだめかなぁ? 殺すしかないのかなぁ?」 「いえ、多分ぎりぎりってところでしょう」 鳥頭の父が、小言を垂れたときだけ殊勝なのはいつものことなので、泣かれたところでたいして心を打たれず、螢斗は病院に棲む魂へと気持ちを切り替える。 「どうしてこんなに瘴気が強いんだろう」 一月という時間がたったとはいえ、普通では考えられないほど瘴気が強い。 眼鏡の中心を中指で押し上げながら問うでなく零れた螢斗の言葉に、黒猫は小動物特有の愛らしさで小首を傾げた。 「瘴気が急激に育つ場合って、普通は恨む相手に憑くことで、常に憎しみを再確認しちゃうような場合だよね?」 「そうです。ですから恨む対象がない状態では、瘴気が育つ速度もそれなりのはずなんですが」 「じゃあ、病院の中に何か恨む対象があるってこと?」 「それはどうでしょう」 呟いて螢斗は眉根を寄せる。 恨む対象が傍にないときでも、闇雲に瘴気を育ててしまうときが一つだけある。 「螢斗、あれ……ッ」 黒猫が螢斗の腕の中からするりと抜けだして、ロータリーの真ん中へと駆けていく。 「父上?」 ロータリーの真ん中で前足を揃えて座った黒猫の背後に立って、目に入ったものに螢斗は顔をしかめた。 「テレビ…なのかな? 確か心霊特集で紹介されたとか言ってたよね」 白いコンクリートに黒く焼け焦げた痕があった。 たぶん、ここにいる魂を払うために霊能者が護摩でも炊いたのだろう。 その焦げた痕はまるで、魂が受けた痛みのようで心に重く、螢斗は眼鏡の奥の目をやりきれなさに細めた。 「同じ人間なのに……」 焼け焦げた痕を螢斗と同じように感じるのか、そっと肉球でいたわるように触れて、黒猫は小さく息を落とす。 「どうしてわかってあげられないんだろ。きっと生きてるときにとてもつらいことがあったんだって、だから迷ってしまったんだって……」 うなだれた背中に、切なげにしっぽが揺れる。 「そういう人を、テレビ番組なんて、そんな娯楽のために殺そうとするなんて……」 瘴気を持った魂は存在する力を強め、人間にその存在を明かしてしまうことになる。ただそこにいるだけでも、霊というものは何故か歓迎されない。 その上、人を傷つける魂もある。 自分の中の癒されない苦しみを、生きている人にぶつけて、自分と同じ苦しみを味あわせようとするのだ。 そんな悪意をぶつけられた人の苦しみを思わないわけではない。 けれど、もしその魂が死んでいない、生きた人間だとしたら。 生きた人間にも、他人を傷つけるものもいる。 自分の中の苦しみを、他人にぶつけて、その苦しみを晴らそうとするものもいろだろう。 しかし、自分を悪意で持って苦しめるものが生きていれば、人は殺したりはしないだろう。ましてや殺すところをテレビで放映するなんていうことは、決してないはずだ。 確かに生きた人間と違って法によって裁けない魂というものに、取れる手段は少ない。それでも、供養などで、その苦しみを癒そうとしてくれる霊能者はあまりにも少なかった。 ただそれがもう生きてはいないというだけで、魂はたやすく殺されてしまうのだ。 生きた人間と、死んだ人間を隔てるものは、ただ器のあるなしでしかないというのに。 「同じ人間から追われてきっとつらかっただろうね、苦しかっただろうね」 「父上……」 霊能者に追いつめられて、闇雲に負の感情を育ててしまったのだろう魂を思って沈んでいく父の心に、かける言葉を見つけられず言葉の先がただ闇にとける。 たとえ、泰山府君になれたのが冥界の七不思議に数えられようと、昼行灯と言われようとと、冥界きっての無駄飯食らいだろうと、三界きっての給料泥棒だろうと、猫より役に立たなかろうと、死ぬほど迷惑かけられようと、勿論ちっとも欠片もよくはない。 それでも。 父の人の痛みを思いやろうとする部分は、とても尊いものだと螢斗には思える。 けれどそういう父の優しさは、同時に父自身を今のように傷つけてしまう諸刃の剣でもあった。 他人の痛みを思って、その痛みをまるで我がことのように受け止めて、自分の無力さに涙を流す。 その優しさをわずかでも支えられればと願った子供の頃を思い出して、螢斗は苦笑を零した。 だからこそ、螢斗は瘴気に囚われた魂を冥界に還すのが巧みなのだ。その才能にあまり恵まれなかった父の代わりに、少しでも多くの魂を冥界に還そうと、そのための努力をしてきたのだから。 これではいくら願ったところで、父を見捨てることは適わなかったはずだと、螢斗は知らず黒猫を見つめる目を和また。 子供の頃からすでに、自分の世界は父を中心に回っているのだから。 「……螢斗?」 笑みを零した螢斗を、黒猫が不思議そうに見上げる。 その傍らに片膝をついて、螢斗は黒猫に手を伸ばす。そっとその頭をなでて、再び小さな体を螢斗は抱き上げた。 惑いながらも腕におとなしく抱き上げられた黒猫の、心を映して揺れる瞳に螢斗は微笑みかける。 「大丈夫、何があっても助けますよ。あなたは俺を信じていればいいんです」 うん、と何度も頷いて、爪を立ててしがみつく黒猫に、これでまた父は同じことを繰り返すのだろうと墓穴を掘った甘い自分に苦笑しながら、螢斗は何度目かにまた廃病院を見上げた。 わずかでも力になれればとただ純粋に願っていた子供の頃は遠い。 今は、父の非常識さ加減に何度も切れそうになって、何度も今日こそは見捨ててやると心に誓ったりもするのだろう。 人が生まれ変わり死に変わり何度も人生を生きるように、一度の人生の中にも何度も何度も同じことを送り返すのだろう。 けれども――。 それは決して無駄なことではなく、そうやって少しずつ大切な何かを得ていくのだ。学校では学ぶことの出来ない、けれどとても大切な何かを。 そうやって得てきた力を手に、瘴気に囚われた魂を冥界に還すべく螢斗は来客用玄関へと向かう。 その魂がまた、違う人生を生きられるように――大切な何かを得られるようにと、そう願いながら。
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