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クリエイター名 |
清水英幹 |
サンプル
「ナイトフォール」
男は気づくとカウンターに突っ伏して寝てしまっていた。突然のめざめにあわてた男は今、自分がどこにいるのか把握しかねていた。記憶を順繰りに思い返していく。会社を出て、電車にのり、いつもの駅で降りて、とそこまで思い出したところで記憶の連鎖がはた、と止まってしまった。男はいったい今どこにいるんだと不安になりあたりを見回す。目の前には黒光りするカウンターテーブル、その先にはビンが整然と並んだバックバーがある。するとここはどこかのバーなのか、バーに入った覚えはないのだが酒を飲んで記憶が途切れているのだろうか、と頭の中で思いをめぐらせていると、隣の椅子に誰かが腰掛けているのが目の端に入った。そうだ、自分がいつからここにいるのか知っているかもしれない、と隣に目をやる。
そこには、男と同じくらいの年齢の黒髪が綺麗な女性が座っていた。男が視線を彼女にやるのと同時に、女の方も男に顔を向けた。すると女はどこかあどけなさの残る笑顔をつくり男に、大丈夫ですか、と声をかけてきた。 男はその女の顔をみて不思議な気持ちに襲われた。その女とは初対面であるという確信が心の中にあるのだが、反面どこかで会ったことがある、いやその顔や表情から懐かしささえ覚えるのだ。どこかで会ったことがあるのだろうか、と疑問を抱いたが今自分のおかれている状況がまざまざとよみがえりそんな疑問はどこかへ消し飛んでしまった。
「今、何時ですか」 男は会話の切り口にと思い、女にそう聞いてみた。女は笑顔をたたえたまま腕時計に目をやり時刻を告げた。どうやらもう終電はなさそうだ、と男はそんな遅くまで酒を飲んでいたのかと苦々しい気分になった。するとこの女も終電が行ってしまって始発がくるまでこのバーで飲み続けようというのだろうか、と頭によぎった。だんだんと自分のおかれている状況がわかってきた男は、肝がすわってきた。とことん飲んでやろうと。男の目の前には空のタンブラーが一つ置かれていた。周囲に目をやるとどうやら客は男と女だけらしい。バーテンもカウンターから姿を消している。
「うっかり寝てしまったみたいで。失礼ですが・・・」 続けて、私はいつからここにいるか御存知ですか、と男は尋ねようとしたのだが、その時脳裏にこの女はいつからここにいるのだろうと疑問が浮かんだ。その時言い知れぬ粘着質の感覚が頭の中を占拠し思考を停止させようと働いた。と同時に男の頭には頭痛が走り反射的に頭に手をやる。 「飲みすぎたみたいですね。大丈夫ですか」 と女は上半身を男のほうに向けた。その女の胸には金のブローチが飾られている。中央にトパーズがはめこまれそれを囲うようにいくつものガーネットが光り輝いている。男はその女の魅力をより引き立てているブローチだなと思った。
「お酒、あまりお強くないのじゃありませんか」 長めの前髪を左手ですくい上げるしぐさをしながら女は男に声をかけた。 「いえ、普段は平気なんですが、今日はちょっと飲みすぎたみたいで」 「なにか悩み事でもおありなんじゃないですか」 「いや別にやけ酒というわけじゃないんで」 と男は答えたが不意に不安感に襲われた。何かに取り残されるような、捨て去られてしまうようなそんな不安だった。 女は見透かしたかのように 「悲しい事でもあったのかしら。恋人と別れたとか」 「彼女はいないんです」 彼女、と自分の出した言葉に引っかかる何かを覚えた。俺っていつから彼女いないんだ、彼女なんていたっけ、夢から覚めた後で現実と夢とのはき違いを起こしたときのような、なんとも不明瞭でつかみ所のない思考が頭の中で湧き上がる。 「あら、恋人がいないんじゃ寂しいじゃない。それともどなたか好きな方がいらっしゃるの」 「ええ、まあ」 たぶん、と心の中で語尾につけてみて重大な事に気がついた。自分の事はよくわかる。だが、問われて好きな女の事を思い出す事ができないのだ。心の中に恋焦がれている女は確かに存在するのだが、それが誰だかさっぱりと思い出す事ができない。より強く思い出そうとすると頭痛が酷くなりめまいまでしてしまい、おもわずカウンターに突っ伏してしまった。遠くの方で女の大丈夫ですか、という声が聞こえるが激しいめまいと頭痛のため応える事もできない。しだいに心拍数まで上がりだし体中で鼓動をうつような強い振動をおぼえた。
どれくらいの時間がたっただろうか。男はやっとのおもいで頭をあげ、まだかすかに残るめまいと格闘しながら姿勢を正した。 「具合、悪いのじゃありませんか」 女の声がまじかで聞こえた。隣を向くとすぐ目の前に女の顔があった。線の細い印象を与える輪郭やパッチリと開いた二重まぶたの眼、顔の印象からみると少しふっくらした鼻のライン。少し厚めの唇。白すぎるくらいの顔の色。 何故だろうこの顔とても鮮明に憶えている、いや、知っているのだ、と男は驚きをおぼえつつ、その女の顔を見るととても落ち着く自分に気がついた。男は意を決して女に尋ねた。 「どこかでお会いしませんでしたか。それもつい最近か、それともとても遠くの過去かもしれませんが。よく思い出してみてもらえませんか」 「どうしたんですか。顔色、よくありませんよ」 「いや僕は大丈夫。それよりもあなたとの事を思い出すほうがとても重要なんです」 男は確信に満ちた声で女に問いかけた。確信があったのだ。自分の好きな人、いやかつて恋人だった女について関係があると。だが、恋人と隣にいる女がどういう関係なのか、この女と自分にどういうつながりがあるのか分からずにいるのだが、衝動に満ちた質問は口から自然と溢れ出してきた。 「海、そうだ。海だ。季節外れの海岸で」 ここまで口に出すとまた頭痛が酷くなる。だが、何かとても重要な事が思い出されようとしているという強い思いがした。海、海岸、季節外れの海岸、最後のデート、誕生日プレゼントのブローチ、キスをすると甘い香りのする暖かな唇・・・一度に奔流が記憶をすべて押し流してきてくれた。 その時頭の中でグラスが繊細な悲鳴をあげて割れたような音を上げて疑問がいっきに払拭された。男は全てを思い出した。
「思い出しちゃった」 女は今までとはうって変わって弱々しく男に尋ねた。 「どうして俺思い出しちゃったんだ。それにお前記憶は」 「私飲まなかったの。最後の最後であなたがあれを一息に飲む姿を見て怖くなっちゃったのよ」 「怖い?記憶を消す事が」 「違うの。違うのよ。あなたとの思い出だけを消しちゃうのが、怖かったのよ。思い出だけでもいいから私の中に閉じ込めておきたかった」 「だから、閉じ込めるために二人で飲んだんじゃないか」 「それは違うわ。二人の思い出だけを消す事ができる魔法のお酒なんて卑怯じゃない。自分から逃げてるだけじゃない」 言い争いはもう飽き飽きだ、だから二人で、二人だけの思い出を消してしまって二人別々に生きていこうとしたんじゃないのか、そのためにあの酒を飲んだんじゃないか、と男は憤った。しかし、こうして記憶が戻ってしまったのはどうしてだ、男は疑った。二人の苦い思いも楽しい思い出も同時に全て消してしまう魔法のカクテル。単なる噂に過ぎなかったのか。女は男の気持ちを察知したのか呟いた。 「私が飲まなかったからよ。このカクテルが効くのは二人同時に飲まなきゃいけないの。だから、私が飲まなかったから、あなたは思い出したのよ」 「二人で決めた事だろう。お互いのため、これ以上傷つけあうのが怖くなったから全て忘れてしまおうって。」 「私は傷ついてもいい。あなたのことを大切に思っていたい。思い出だけを大切にして」
いくらいっても駄目だろう。今までもこうやって付き合ってきて話がまとまらず傷つけあいの連続だったのだから。男は疲れ果てていた。だが、女も疲れていた。これ以上傷つけあうのはもう耐えられなかった。 「わかったわ。今度こそ、本当に二人で飲みましょう」 マスターと大きな声で男が呼ぶと奥の扉から顔をマスクで覆った者が現れた。 「ナイトフォール、もう一度、お願いします」 と男が頼むと、シェイカーに手早く材料と氷をいれ、蓋をするときにシェイカーの頭をちょんちょんと軽くたたいてシェイカーを振る。 「本当に今度こそいいんだな」 男は女に尋ねた。 「最後の台詞くらいもうちょっと気の聞いたこといって欲しいわ」 「楽しかったよ。喧嘩もよくしたけど、二人で飲んだモーニングコーヒーが何より美味しかった」 「気を利かせたつもりなのね。でも、私たちよく喧嘩したわね」 「喧嘩するほど仲がいい、なんていうけど」 「喧嘩はもうこりごり」 二人の前にコトリとタンブラーが置かれる。ストローが二本さされている。 今度こそ、きっぱり忘れるんだ、男はそう固く意を決してストローに口をつけごくごくと飲んでいく。飲むたびに気が遠くなる感覚を覚える。まるで堕落するように。
気がつくと男は眠っていた。女はストローに口をつけなかった。そしておもむろに男の鞄から財布を抜き出し 「マスターご馳走様」 と一万円札をマスターに渡し、バーの扉を開け出て行った。 (了)
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