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クリエイター名  西東慶三
サンプル

「守護神は誰がために」

「シーガルス、ピッチャーの交代をお知らせいたします」
「ウグイス嬢」の名に相応しい、高く澄んだ声が球場内に静かに響く。
回は九回表、得点は二対一でシーガルス一点のリード。
この状況でピッチャー交代となれば、抑えの切り札の投入以外にあり得ない。
そして、今のシーガルスの抑えの切り札といえば一人しかいなかった。
球場全体がその男の登場を待ち望む中、皆の思いを代表するかのようにウグイス嬢が
その名前をコールした。
「ピッチャー、森岡に代わりまして、倉橋」
今ではすっかり耳慣れた物になったそのアナウンスを聞きながら、倉橋はふと一年前
のことを思い出していた。





倉橋京介は三十四歳、今年でプロ十二年目になる。
高校時代はエース兼キャプテンとして必ずしも強豪とは言えないチームを引っ張って
準々決勝まで行き、大学に入ってからは四年間で二度リーグ最優秀防御率のタイトル
を獲得した。
そして鳴り物入りでプロ入りした彼は、一年目こそプロの壁に阻まれてファーム暮ら
しを余儀なくされたが、二年目には見事先発ローテーションの一角に食い込んで十勝
五敗の成績を上げ、新人王にも輝いた。
さらに、その後も安定した成績でチームを牽引し、十年目までに六度もチームの勝ち
頭となった。

その倉橋に転機が訪れたのは昨年、プロ入りから十一年目の夏だった。
「倉橋、お前、後半戦はストッパーをやってくれないか」
前半戦最後の試合の後、倉橋は監督の久保田にこう言われたのだ。
確かに、その年の倉橋の成績はあまり良くなかった。
オールスター前の時点で四勝三敗、防御率も四点代半ばまで落ち込んでいた。
そして何より、完封はおろか完投も記録していなかったのである。

この年の倉橋は、明らかに八回辺りから球威が落ちていた。
先発投手の責任回数は五回であること、そして一般的にも先発投手は七回くらいまで
投げればまぁ合格で、あとはセットアッパー及びストッパーの役目であるとされてい
ることなどを考えれば、必ずしも「先発失格」と言うほどのことではなかったが、や
はりエースが完投できないというのは問題だった。

だが、それでも倉橋には納得できなかった。

――ニシさんがいてくれたら、オレはもう七勝はしているハズなんだ!

ニシさんというのは、一昨年を最後に引退したシーガルスの抑え投手、西潟のチーム
内での愛称だった。
若い頃からスタミナの配分が苦手で、短いイニングを全力で投げきることしかできな
かった彼は、セットアッパーを経て、七年前からシーガルスの「守護神」となっていた。
しかし一昨年、四十三試合に登板して一勝三敗二十一セーブというそれなりの成績を
残しながらも「自分の思うとおりの球が投げられなくなった」として引退を表明。
球団側があまり強く慰留しなかったこともあって、西潟はそのまま任意引退となった。

そして昨年。
シーガルスの首脳陣はクローザーとしてまだ若い三年目の山下に白羽の矢を立てたが
、これが大誤算だった。
昨年は中継ぎとしてそれなりの成績を残した山下だったが、抑えに転向してからは持
ち前の思い切りの良さが影を潜め、コントロールにも今までにはなかったような乱れ
が出てきた。

四球や暴投でピンチを招き、カウントを稼ぎに行った甘い球を痛打されて点を失う。
その上、セーブに失敗するたびに山下はどんどん萎縮してしまい、ますます調子を落
としていった。

久保田は五月早々に山下に見切りをつけ、山下をファームで再調整させるとともに当
面の間は「抑え投手なし」で行くことを宣言した。
「中継ぎ投手の中から、その時調子のいい者を抑えとして起用する」という彼の作戦
は必ずしも間違ってはいなかったが、試合終盤に「急造の抑え投手」が崩れて同点に
追いつかれ、また逆転を許すようなことも少なくなく、その度に「抑え投手不在の不
利」を思い知らされてきた。

もちろん、そのようなチーム状態のわからない倉橋ではない。
むしろ、完投することの出来ない倉橋こそがこの状況の最大の「被害者」であったと
言っても良いだろう。
しかし、彼には彼なりの先発投手の座に対するこだわりがあった。
そう簡単に、抑え投手への転向を承諾することは出来なかった。

「お言葉を返すようですが」
倉橋がそう言うと、久保田は「言いたいことはわかっている」と言うように軽く手を
振った。
「ニシのことだろ、お前が言いたいのは」
図星をつかれて倉橋は少し驚いたが、同時に「そこまでわかっていてどうして」と言
う憤りも感じずにはいられなかった。
そんな倉橋の様子に気づいたのか、久保田は軽く苦笑しながらこう言った。
「ニシを引き留めなかったことについては、何も後悔はしていない」

――何を言っているんだ、この人は!?

倉橋はそう思わずにはいられなかった。
西潟の投球は、確かに全盛期と比べれば衰えていたものの、まだまだ他の中継ぎ投手
の及ぶところではなかったし、抑え投手としても十分に通用するレベルだった。
彼を引き留めていれば、現在のこのピンチはなかったはずなのだ。
それなのに、監督は「引き留めなかったことを後悔していない」と言う。
倉橋が理解に苦しんでいると、再び久保田が口を開いた。
「確かに、オレの見た感じでは、アイツはあと二、三年は通用したはずだ」
「それなら、どうして?」
即座に問い返す倉橋。
久保田の言葉は、彼が理解するにはあまりにも矛盾しすぎている。
まだまだ十二分に通用する抑え投手を、次が育つ前に引退させてしまい、しかもそれ
を後悔していないというのは一体どういうことなのか?
いくら考えても、倉橋に答えを出すことは出来なかった。

「けどな」
久保田のつぶやきにも似た言葉が、倉橋の意識を引き戻した。
見ると、先ほどまでの苦笑いは久保田の顔から消え去っており、彼の表情は「監督・
久保田」が一度も見せたことのない、沈痛とも言える表情に変わっていた。

――あの時の顔だ。

倉橋は直感した。
それは、久保田が監督に就任するより十年以上も前に、「プロ野球選手・久保田」が
引退を発表したときの顔に似ていた。
突然の彼の変わり様に驚きを隠せない倉橋。
それに気づいているのかいないのか、うつむいたまま久保田は続けた。
「それはあくまで相手の打者に通用するかどうかという話だ。
 今のアイツには、もうアイツ自身が納得できるような球を投げることは出来ないんだ」
久保田はそこで一旦言葉を切ると、静かに顔を上げて倉橋を見つめた。
「自分の納得できない球を投げ続けることがどれだけ辛いか、それはお前だってよく
わかるだろう?」
その言葉に、倉橋は首を縦に振ることしかできなかった。

「そのニシからな、この前電話があった」
しばしの間続いていた沈黙は、久保田のこの言葉で破られた。
「それで、ニシさんは何と?」
「自分が抜けたせいで、チームに迷惑がかかってるんじゃないか。
 アイツはそう言ってた。正直、かなり悩んでいるようだったな」
それを聞いて、倉橋の胸は痛んだ。
倉橋も一度、肘の故障で長期離脱を余儀なくされたことがあった。
そしてその間、エースを失ったチームは極度の不振に陥り、大きく順位を落とした。
(オレのせいだ。オレがいれば、こんなことにはならなかったろうに)
故障が完治するまでの間、倉橋はずっと自責の念に駆られていた。

――ひょっとすると、今のニシさんも同じ気持ちなのだろうか?

倉橋がそんなことを考えていると、久保田がその思いを見透かしたようにこう続けた。
「ニシに一番助けてもらっていたのはお前だろ?
 今度は、お前がニシを助けてやって欲しいんだ。
 それができるのは、今のウチにはお前しかいないんだよ」
その言葉を最後に、再び沈黙がその場を支配する。
それを破ったのは、今度は倉橋の方だった。
「卑怯ですよ、監督」
出来るだけ不機嫌そうな声で、軽くなじるように言う倉橋。
しかし、久保田はただ黙って苦笑いを浮かべただけだった。
それを見て、倉橋も「やれやれ」と言った感じで笑ってみせた。
「そこまで言われたら、いくらオレでも断れるわけがないじゃないですか」





リリーフカーを降り、倉橋はゆっくりとマウンドに向かった。

あれから一年。
シーガルスのエースであった倉橋の抑え投手転向は、周囲の人間を大いに驚かせた。
ある者はこれを久保田監督の英断と称賛し、またある者は絶対にうまくいくはずがな
いと断言した。
そして、そのどちらも、ある意味では正しかった。
昨シーズン後半の倉橋の成績は必ずしもほめられたものではなかった。
五勝八敗十セーブ――抑え投手転向後の成績だけを見れば、一勝四敗十セーブになる。
つまり、彼が三回に一回はセーブに失敗していたのである。
だが、そのことから彼が学んだ物はその失敗を補って余りある物だった。
先発の時とは違う、抑え投手としての投球術。
一点たりとも失うことを許されない、抑えの役割の難しさ。
自分自身の勝敗のみならず、以前に投げた投手の勝敗をも左右してしまうと言う責任
の重大さ。
そして、最後の一人を抑える喜びを、毎試合でも味わえるという充実感。
それらのことごとくを実感し、シーズンを終える頃には、どのチームの抑え投手にも
引けを取らない「守護神・倉橋」が誕生していた。

――人間、変われば変わるものだ。

さんざんに踏み荒らされたマウンドを見下ろして、倉橋はつくづくそう思った。
以前ならば、誰かが踏み荒らしたようなマウンドに上がるなど、優勝争いのさなかの
スクランブル登板でもない限りプライドが許さなかっただろう。
それが、今では毎日のようにこうして荒れたマウンドに立つ、リーグトップのセーブ
ポイントを誇る抑え投手だ。
今シーズン、倉橋がチームの開幕ダッシュとともにセーブポイントを積み重ねると、
これまで彼について酷評していた解説者達も掌を返すように彼を称賛するようになった。
だが、倉橋にとってそれより嬉しかったのは、「西潟がいてくれたら」というファン
の声がすっかり聞かれなくなったことであった。

『自分が抜けたせいで、チームに迷惑がかかってるんじゃないか』

久保田に聞いた西潟の言葉は、今も倉橋の耳に残っている。
その時以来、彼は西潟への恩返しのために投げていたと言ってもいい。
プロ入り二年目の最終戦、新人王を勝ち取るためには欠かせない十勝目の権利を手に
しながら七回に崩れてしまった倉橋に、「後は任せろ」と言って笑ってくれた西潟の
ために。

「頼むぞ、倉橋」
そう言って、今年から就任した投手コーチが倉橋にボールを手渡す。
そのボールを受け取ると、倉橋は笑顔でこう答えた。
「ええ、後は任せて下さい。西潟コーチ
 
 
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