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サーカスの終幕

 世界が回る。
 私を軸にして回る。
 くるくると回る。
 回る、回る、くるくるくるくる、くるりくる。

■□■

「お疲れさーん!」
 団長の労いが明るく響くと、そこでやっとサーカスは終幕となる。
 団員達が緊張を解いて談笑を始めると、裸電球の灯る小屋の中に熱がこもりだした。夜の公演が終わり、彼らの体はくたくたのはずだが、どの顔にも見えるのは歓喜ばかりで疲労など欠片もない。なんせここにいる者は皆、この仕事を愛しているのだ。そうでなければなんじょう、このきつく、給料の安い仕事などしていられよう。
 夜を吹き飛ばさんばかりの活気に、団長は体には良くないけど、と言って揚げた芋が運び込ませた。
続いてビール、ジュース、果物、チキン、ラーメン――まだ舞台に上がれない新人達が列になり、皿を手に手に持ってやって来る。
 その最後部、真っ白なドレスの裾をふんわりと揺らしながら現れた女性は、一見場違いだが、れっきとしたサーカスの団員である。名前は蝶子。今ではサーカスの看板と言える存在だが、元が団員の世話係だったということもあり、こうして雑用の真似をすることは日常茶飯事だ。おかげで団員達からの支持もあつい。
 蝶子は綱渡り担当である。それもただの綱渡りではない。美しいレースの傘を差して、綱の上でくるくると回るのだ。散歩する貴婦人が、春の風に戯れるかのように。
 主役級の盛り上がりを見せた本人の登場に、小屋はますます熱狂した。その手から皿が置かれるや否や、あちこちから手が伸びて彼女をもみくちゃにした。
 白いドレスがしわくちゃになってしまった頃、ようやく蝶子は解放され、大粒の葡萄を一粒つまむことができた。実の尻を押せば、つるりと皮が外れて口に酸味が広がる。
 もう一粒と伸ばした手に、ビールを注いだジョッキがぐいと押し付けられた。
 怪訝な表情で顔を上げた蝶子は、相手の顔を認めるとにっと笑ってジョッキを受け取った。
「蝶子、今回の舞台も大成功だったじゃないか」
 そう言ったのはダン、団長以外では蝶子と最も付き合いの長いと言っていい男だ。
 蝶子は泡に口をつけながら茶化すように返した。
「あら、一番歓声を受けてた本人が何を言ってるのよ」
「んー、まああれはなぁ……俺っていうより、レオンの手柄だからなあ」
「馬鹿なことおっしゃい。あんたがいなかったらあの子、ただの野獣よ。今頃私達は豚箱住まいよ」
「そりゃあマズイ。お前さんに似合うのは虫籠だからな」
 ダンは豪快に笑うと、蝶子が食べようとしていた葡萄を一房掴んで、別の団員のところに行ってしまった。見かけによらず律儀な男で、公演の後は一人一人を労うのが常なのだ。
「嫌な男」
 蝶子は皿に一粒だけ残った葡萄の粒を眺めて一気にビールを干した。
 アルコールを急に摂取したためか、体が熱くなるのを感じた蝶子は立ち上がった。ダンは縄抜けの女と笑っている。蝶子は鼻を鳴らして外に出た。

 月が煌煌と照る夜に、白いドレスが良く映えた。月光を受けて光りながら、蝶子は当てもなくふらふらと歩く。何も考えずに足を進めれば、自然と行き慣れた場所に辿り着いていた。ライオンの檻、猛獣使いであるダンの相棒がいる。
「レオン、お元気?」
 檻の奥で玩具を噛んでいたレオンが、声に反応してわずかに振り向いた。しかし特になんのアクションを見せるでもなく、玩具を噛むのを再開した。
 蝶子はそれに悲しむでもなく、憤慨するでもなく、ただぼうとレオンの鬣を見つめた。あの美しい鬣、あれはダンが精魂込めて手入れしているのだ。あの鼻面、あれをダンは撫で、頬を摺り寄せる。あの肢、あの爪、あの尻尾――記憶の海に浸っていた蝶子はふと、レオンが噛んでいるものが奇妙な形をしているのに気付いた。レオンの檻に入れてあったのはボールだったはずだ。だがあれはどうも、細くて複雑な形をしているように見える。
「……レオン、あんた何食べてんの?」
 レオンの口元で棒切れのようなものが跳ねた。蝶子はさっと顔の色を変えた。
 ――人の腕。
 蝶子は震える手でドレスから檻の鍵を出した。未だに雑用をしている蝶子に、団長が預けたものだ。この一本だけを預けてくれた。蝶子にとってそれは、宝物のようなものであり、お守りだった。まさか本当に鍵として使うことがあるとは考えたこともなかった。
 焦る気持ちを宥めるように、引き攣った笑いを浮かべた蝶子は、ようやく檻の鍵を開けて扉を開いた。
「レオ」
 蝶子は何も見えなくなった。

■□■

 小屋では打ち上げが終わり、ダンも伸びをしながら外に出た。
 すっかり月の見えなくなってしまった空を見上げながら、レオンの檻へ足を向けようとする。だが目を向けた方向に見覚えのある姿を見つけて驚愕した。
「レオン? お前なんだってこんな所にいるんだ!?」
 慌てて駆け寄ると、レオンはダンの腹に頭を擦り付けた。その頭を撫で返すと、レオンの口周りに違和感を感じた。赤い端切れが引っ掛かっていた。
「なんか食ったのかよ……ったく、客が一人行方不明とか、聞きたくねぇぞ俺ゃあ」
 縁起でもないことを呟いて、ダンはレオンを檻に連れ戻した。鍵を確かめると、壊された形跡はない。閉め忘れたのだろう。
 俺も耄碌したかとごちながら、ダンはレオンを檻に追い立てた。檻の隅に目をやれば、朝方新しく与えたばかりの玩具が既に壊されていた。人型の玩具だなんて気味が悪いと言われていたから、ちょうど良かったかもしれない。
 今度は鍵をしっかり閉めたことを確認して、その場を去ろうとしたところへ、団長が疲れた顔でやってきた。
「団長御自らとは、珍しいですね」
 まあなと言って団長は肩をすくめた。
「なあ、蝶子を知らないか? あいつがいないと片付けがはかどらなくて……ダン?」
 獅子の口から垂れていた赤い布の鮮やかさは、まるで上等なシルクが今しがた染色されたような――。
 くるくるくるくる、ああ視界が回る。その回る視界は誰のものだった?
 
 
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