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クリエイター名  水瀬翔
影折紙(一部抜粋)

「影折紙」


漆の塗られた文机に、朱色の和紙が一枚、泳いでいた。
和紙には、水面を掻き乱した時に浮かぶ波紋の模様が染め抜かれている。

其れは決して広い部屋ではなかった。天井に近く空けられた格子の窓から、橙に濡れた光が差し込む。夕暮れの時分だ。
他に、部屋に明かりはなかった。全く静かで、息をする音一つ聞こえてこなかった。
カァ、と外でカラスが鳴く。つがいのカラスは姦しく騒いで、バタバタと羽を動かしたのか。小さな窓の向こうで、数枚の木の葉が落ちていく。
カァカァ。真っ黒な嘴が夕陽色を食んでいる。カァカァ。あちらで鳴けばこちらでバタリ。カァカァ。カァカァ。二羽のつがいガラスが空中を低く飛びあさって、餌の蝗虫を探しているのだ。
部屋は未だ薄暗い。ぼんやりとした陰影が壁に映っている。
簡素な時計が秒を刻む音だけが、やたらと大きく響いている。一周。十周。数十周。
いつの頃からかその暗い部屋の中では男が一人、文机に向かって正座していた。やたらと背筋が良い。す……と伸ばされた腕は白く、微かに骨張っている。
男はまるで、薄闇から抜け出してきたかのようだった。線が細く、髪には白髪が混じり始めていた。しかしそれほど歳は重ねていまい。その証拠に、夕闇に浮かび上がる横顔は若く、少しばかり痩けた頬も十分に張りを残していた。
男は襦袢の上から、檜皮の地味な着物を羽織っている。抜き紋は笹竜胆。丸みを帯びた家紋が一点鮮やかに、男の背中を彩っていた。
袂が揺らめく。色味の薄い灰色の眼差しが、文机に置かれた和紙を見据えていた。
男が伸ばした指は、寸分の狂いもなく正確に和紙を摘み上げた。
丁寧に切りそろえられた爪の先が一度、和紙の表面をなぞる。和紙の濃淡を確かめながら、男の手の平が朱色の紙を覆った。指先にちりりと朱色が纏わり付く。
和紙の端と端を合わせて、淀みない手つきで中に折り込む。紙は手すき和紙だった。目の荒さが手に馴染んで、するすると回りながら形作られていく。
其れは全く、無駄のない動作だった。
男が和紙を折り始めてから、時計の秒針が三度ほど真上を差した。或いは四度。
否、その間、時間は止まっていたのかもしれない。部屋は、ひたひたと水の表面を叩くような、呼吸さえ拒む静けさに満ちていた。ぴぃんと張り巡らされた静寂の奥で、男は無言で朱和紙を折り続ける。
軈て。
静まりかえった部屋の中で男は、ふぅ……と大きく息を削った。
それが合図だった。
男の手の上に、見事な秋金が乗せられていた。繊細に折りたたまれた尾ひれが紅葉の形に広がっている。
光沢のある黒の上で作られた金魚は、あたかも一滴、朱墨が零された様に似ていた。
男は流麗な仕草で折った金魚の、その尾ひれに向けて顔を近づける。
左手で朱い魚を掬い上げると――ふっ……、と息を吹きかけた。男の息に煽られて、金魚の尾ひれが緩やかにはためく。
二度目。深く、息を吸い込む。
強く、鋭く。空気に押し出されて、金魚は男の手の平から飛び出し。

ツツ――といとも滑らかに、部屋の中を泳ぎ始めた。


***


男の指先が並外れて器用なのは、祖母の血を引いているからであろう。
初めて折り紙に触ったのは、少年と言われるよりもずっと以前のことだ。
そう、きっと同じように蝉が鳴いていた。寝苦しく、汗を拭いながら天井を見つめていた、夏の夜。
枕が重たく汗を吸い込んで、何度目か分からぬ寝返りを打った時。父はとうに寝入っていて、時折聞こえる唸り声のような鼾がうるさかった。
母は病気がちだった。幼い頃から肺が悪かったと聞いている。彼の記憶の中では、いつも弱々しい笑みを浮かべている女性だった。咳がひどいからといって、夜は別の部屋にこもってしまっている。
彼は寝返りを打った。
遠くから聞こえてくる蝉の音。べとついた髪の毛が額にかかった。
夏はあまり、好きではない。
今夜は風が少ないらしい。開け放した窓の横に吊された風鈴はことりとも音を立てず、蒸した空気が口と鼻を塞ぐ。
口を開ける度に流れ込む生温い酸素は不快だった。ごろん。身体を転がす。
喉がひどく渇いて、舌が貼りつきそうだった。だが、起き上がって水を取りに行くのも億劫なのだ。不愉快な暑さは動こうとする気力を根刮ぎ奪いつくす。
彼はまた、寝返りを打った。
天井の木目を数えるのにも飽きてしまったのだ。朝までまだ、幾分と時間がある。
彼はふと、庭の池で飼われている錦鯉を羨ましく思った。夏の水はそこまで冷たくないかもしれないが、鯉はこんなじめじめとした暑さは知らずに育ったに違いない。
反して彼は、毎夜暑苦しい思いにさせられる。不公平だと思わないか。
例えば。
敷布が水で。枕が蓮の葉ならば、彼は鯉になれるのだろうか。
そう考えながら、彼は布団を右往する。途中で、未発達の足が隣の敷布を蹴飛ばしてしまったらしく不規則に聞こえていた鼾が消えた。
ドンと苛立たしげに床を叩かれて彼は首を竦める。
慌てて掛け布団を引っ張り上げるときつく目を瞑り、熟睡している様を装う。それから、瞼越しに恐る恐る様子を窺った。
父親を起こすのは厄介だった。父親は優しいが、目覚めはひどく悪い。
幸い、父が起きた様子はなかった。彼は安堵して、ゆっくりと目を開ける。
暗闇に慣れた目に、前よりもずっと鮮明に部屋の凹凸が浮かび上がった。真っ正面に木目模様。少し視線を下げると、壁にかけられた千字文の条幅。濃紺の掛け軸の右下で仄かに光る、青白い光。
青白い光。
彼は呆けた。まず最初に、夢を見ているのかと思った。続いて、不愉快な暑さのせいでとうとう幻覚を見るようになったのかとも思った。
両目を瞬かせる。一際強く目を瞑っても光は消えることなくちらちらと彼の網膜を刺激していた。
はっきりと残像が浮遊する。明瞭な輪郭に、もしかしたらあの光は現実の出来事なのかもしれない。彼は最後にそんなことを考えた。
緩い温かみを持った光は、ふわふわと彼の方へ漂ってきた。闇をくぐり抜けて、黒を吸い込みながら。
音もなく彼の元に現れた光の実体を見て、彼は息を呑む。
「……鶴?」
繊細に作られた一対の折り鶴が、軽やかに両翼をはためかせていた。暗闇に浮かび上がる二羽の鶴は幻影か否か。
両方とも白い鶴だ。幻だと笑ってしまうには、暗闇にぼんやりと浮かぶ白い折り鶴は鮮明過ぎた。
そ、っと手の平を上に向ける。彼の目の前でパタパタと羽ばたいていた二羽の鶴は彼が手を差しだした途端、羽を動かすのを止めて静かに彼の手へと降りてきた。受け取ろうと手を伸ばすと、折り鶴は彼の人差し指に嘴を押しつけた。爪と指の間に、紙特有の鋭さを感じる。
そうして鶴は羽ばたきを止めた。また動き出さないだろうかと思って、彼は、数回、鶴を乗せた腕を上下に振った。
けれども、それきり鶴は動かなかった。二羽の鶴は寄り添って、彼の手の上で眠っている。もう、ただの折り鶴だ。飛んだりもしないし羽を寄せたりもしない。
いつの間にか、鶴を包んでいた仄白い光も消えていた。
真っ暗な室内。鼾でひび割れた父親の寝言。一対の折り鶴。蝉の声。影。
彼は順々にそれらを眺めて、立ち上がった。鶴を握りしめて部屋を出て行く。



(一部抜粋)
 
 
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