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クリエイター名  水瀬翔
出目金(一部抜粋)

「出目金」


彼は、デメキンと呼ばれていた。

***

無論、欠片も罪悪感がなかった訳ではない。
その光景は、いつも授業が始まる少し前に起こった。
まず、教室の一番後ろのドアが鳴る。
すると、クラスのあちこちで繰り広げられていた話し声が、一瞬不自然に止む。
教室にいる全員が、薄暗く開いたドアを横目で見る。
そしてまた、目の前の友人達との会話に没頭する。
測って、数秒もかからない。
僕の教室で毎朝起こる、小さな棘と無理解に満ちた時間だ。
決まり切った挨拶を言うのと同じ感覚で、その繰り返しは繰り返されていた。
素っ気なさと紛い物の無関心。
両方を混ぜ合わせてから限界まで煮詰めて出来上がったのは、ろくでもない空気。
不透明で明瞭な、共通の爪弾き者へ向ける興味だった。
そして。
クラス全員の薄い視線を浴びながら、彼は進む。
ぺたぺたと彼の上履きが床を叩く音は、陸に誘き出された哀れな魚の横ヒレが、弱々しく地面を打ち付ける音にも似ていた。
ワックスがかかった薄汚れた床は、彼の上履きとこすれる度に軋む。
嫌な音だった。
独特の間隔で上履きを引きずる気配が僕に近付いて、遠ざかっていく。
教室の扉を開けた時からずっと俯いていた彼は、とうとう一度も顔を上げることなく自分の席についた。
前髪の間から覗く両眼(りょうがん)が、湿った色で黒板を睨む。

その、少しだけ丸い背中を眺めて、僕は彼から視線を外した。

***

彼がデメキンと呼ばれるようになったのはいつからだろう。よくは覚えていない。
少なくとも、僕が彼を知った時には、既に彼はデメキンと呼ばれていたし、きっと、周囲の誰もが彼の本当の名前を忘れてしまったのではないだろうか。
そんな錯覚に陥るくらい、その呼び方は僕たちの間に浸透しきっていた。

デメキン。……出目金。
不自然に眼球が飛び出た金魚の字(あざな)がついた理由は、至って明白で残酷だ。
何故なら、彼の両瞼は異様にはれ上がっていたのだ。
目を開けているのか開けていないのかさえ、まるきり分からないほどに。
彼を初めて見た人間は、その顔立ちの優劣など欠片も覚えていないだろう。
事実、僕はそうだった。
腐った果実の方が、まだ魅力的な香りを放つ。
それほど、著しくふくらんだ瞼の印象は強烈だ。
はれた瞼を隠しているつもりなのか、長く伸ばされた前髪はどろりと黒く濁っていて、肌の色は不健康に青白い。
どう控えめに表現したところで、彼の風貌は醜悪だとしか例えようがなかった。

容姿以外の面でも、彼は極めて異質だった。
彼を見た人間の大半が最初に見せる、安易な好奇の視線を真っ逆さまに引き千切ってから。
その後、自分へ興味を向けさせないようにする力に、彼は恐ろしいほど長けていた。
学校にいる間は、彼はいつも自分の席に座ったまま下を向いて、決して誰とも喋らない
希に口を開いたかと思っても、小さな声で何かをぶつぶつ呟いているだけだ。
それでもまだ、懲りずに話しかけようとする人間には、あの熟れきった瞼の下から魚の屍に似た眼光をくれてやる。
そうやって、外れ者の彼は僕たちから身を守っていた。
部外者でいることに、特別苦痛を感じている様子もなかった。
その無感動な態度が、僕たちにはまた、理解出来なかったのだ。
結果、学校中の人間が彼をいないものとして扱い、その影で勝手にデメキンとあだ名を付けて笑い者にしていた。
到底人間の顔ではない、先祖は魚だったのだろう、背中にヒレが生えているのではないか。
そんなようなことを吐き連ねて嘲笑っていた。
だが、散々彼の陰口を叩いていた生徒の内、正面切って彼の瞼を蔑視する人間はいなかった。
僕を含めて、誰一人として。

何故か。
つまり。
つまるところ、一言で言えば、彼はやはり、途方もなく気味が悪いのだった。


(中略)


青蛙だった。
三十匹を超える小さな蛙がビニール袋に詰められて、調理台の上に乗っていたのだった
僕たちが呆然と見ている前で、蛙の群れが口の開いたビニール袋から次々に飛び出し、濁った声で喘ぎ始める。
蛙の浅はかな目が、幾十も連なって僕を見上げていた。
すぐに、そこら中に蛙が跳ね騒ぐ。
低い鳴き声が耳に痛い。
嘔吐を重ねて押し潰したような音だ。
机の上、調理台の隙間、椅子の背もたれ。
何匹かの蛙が鳴きながら、床に転がった鍋の中へと飛び込んでいった。
視線を逸らした先。
どうやらステンレスの冷たさを気に入ったのか、鍋の中で青蛙が動き回っている。
途端、込み上げてきた嘔吐きを、僕は必死で押し殺した。
鮮烈な画だった。
脳が、全てを拒んでいる。
床に投げ捨てられた白いビニール袋に点々と浮かぶ、蛙独特の生臭さ。
水草の切れ端。
それから、溶けた目玉のように透明な、真っ黒い卵の群れ。
まるでそこは、壊れた沼だ。
ぶちまけられた蛙と卵と水草が、胡乱げに空中を睨んでいる。
蛙は好き勝手に跳び回り、水分をたっぷり含んだ卵がするすると滑っていく。
突如、一匹の蛙が高く跳んで、近くの女子の腕に収まった。
濡れた緑色の感触に、彼女の顔がみるみる内に青ざめていく。
ひっと息を呑んで、隣にいた彼女の友人が二歩、後退った。
腕に蛙を這わせた女生徒が、何かを叫びながら腕を振り回す。
衝撃で宙を横切った蛙が、別の女子の首筋に張り付く。
ぺとりと、薄い皮膚に落ちた其れに、女子の顔が一際大きく歪んだ。

それが合図だった。
叫んだ女子生徒が泣きながら頭を乱す。
連なった混乱。
飛び遊ぶ蛙達。
潰れた鳴き声がうるさい。
蛙と、水草と、卵と、籠った沼の匂いが立ち昇る。
呆れるほど、誰一人として冷静な者はいなかった。
狭い調理実習室が、瞬く間に悲鳴と混乱の渦に呑み込まれる。

僕も同じだった。
右ひじを、調理台の上のフォークにぶつける。
鈍い衝撃を感じたあと、フォークが調理台から滑り落ちた。
三つに割れた先端が床にぶつかる金属的な音が、いつまでも鼓膜の中で響いている。
そうかと思えば。
ひび割れた声で鳴く蛙が、僕の目の前の机に飛んでくる。
調理器具に押し潰されたその蛙の足は一本、もげていた。
蛙が喚く。
湿った両の目は両生類特有の冷たさを持っている。
僕の背中を、冷や汗よりも尚温度の低い悪寒が震わせていた。
奇形の蛙が滑稽に跳ね回り、不自然に机の上を渡り歩く。
見たくない。
見たいはずがない。
……それなのに、僕の視線は無意識に、蛙の動きを追いかけていた。

そう。
そして。
僕はその刹那、真っ向からデメキンと目があったのだ。

渦巻く混乱の向こうに、彼は立っていた。
彼は一切の笑いも浮かべずに、無表情にはれた瞼の奥から、うごめく青蛙の群れを見つめていた。



(一部抜粋)
 
 
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