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クリエイター名 |
今宮和己 |
サンプル
『あの夏のアムネジア』 <終末テーマのホラー>
「ねえ博美。一昨年の夏、何があったか覚えてる?」 それが私の聞いた京子の最後の言葉だった。 閑散とした学生食堂。午前中の講義を終えてから図書館でしばらく時間を潰し、いつものように二人で遅めのランチを取っていたときだ。 とりとめのない会話が何となく途切れたそのとき、不意に浴びせられた質問。ありふれた言葉とは裏腹の、京子の妙に真剣で切実な様子に気押され、私はただ曖昧に言葉を濁して首を振ることしか出来なかった。 私の凡庸な反応に対し、京子の顔に明らかな失望が浮かんだ。だがその次の瞬間、京子はなぜかホッと安堵したような、慈しむような眼差しで私を見つめ、 「そう、それならいいの」 と小さく首を横に振った。 そしてその三時間後、京子は夕暮れの校舎から飛び立った。もう二度と、私の手が届かない世界へと。 田畑がところどころに残る穏やかな地方都市で行われた京子の葬儀は、ごく身内だけの慎ましいしものだった。家族と親戚、それに大学進学と同時に上京するまで、京子が十八年間を共に過ごした地元の友人が数人。大学関係の出席者は私だけだった。本当は学長の代理で誰か大学の職員も出席する予定だったようだが、それは京子の両親が丁重にお断りしたらしい。……当たり前だ。おそらくは京子の名前も初めて知ったような人間に、訳知り顔で形通りのお悔やみを述べられるなど絶対に耐えられない。 集まった人数こそ少なかったものの、誰もが心の底から京子の死を悲しんでいた。改めて京子を慕い、突然の別れに呆然としていた。京子は決して自分から前に出る性格ではなかった。だが誰よりも思慮深く、優しかった。誰かの悲しみを自分の悲しみとし、誰かの幸せを自分の幸せとする。普段はそっと陰になり、それでいて側にいて欲しい時には必ず寄り添ってくれた。静かに深く、相手の心の奥に住まう。それが京子だった。何も知らない他人が土足で踏み込む余地などあるはずがない。 そしてそんな京子だからこそ、その場に集まった全員が言葉に出せない同じ疑問を共有していた。なぜあの京子が、自殺などしなければならなかったのか、と。 やがて葬儀が終わり、心に靄を抱えたまま立ち去ろうとした私を、京子の母親が不意に呼び止めた。そっと歩み寄って喪服の袂から一枚の布包みを取り出す。おそらく帰省の際に京子から写真を見せられて私の顔を知っていたのだろう。私は戸惑いながらも布包みを受け取り、促されるままに布を解いた。 布の中から現れたのは、一通の封筒と、京子のアパートの鍵だった。私はそのとき初めて、京子が遺書を残していたことを知った。震える手で遺書を開くと、見慣れた几帳面な字が目に飛び込んで来た。遺書には自殺の理由は何も書かれていなかった。ただひたすら自分の身勝手を詫び、遺される人たちを気遣い、そしてアパートの荷物の整理を私に頼みたい旨を申し訳なさそうにしたためてあった。 遺書に重なるように京子の控えめな笑顔が浮かび、我慢できずにみるみる視界がぼやけていく。だが遺書の最後の部分に目を通した瞬間、私の背筋を駆け抜けたのは、悲しみでも喪失感でもなく……戦慄だった。 おそらく何度も迷い、消し、書き直したのだろう。そこだけ紙が破れそうにボロボロになっていた。筆跡もその部分だけ明らかに違っている。動揺をそのまま映したような乱れた文字で、そこには京子の声にならない悲鳴が書き残されていたのだ。 「一人で逃げてごめん。でも私、思い出しちゃったから」と。
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