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クリエイター名 |
城崎そばえ |
サンプル1
「今日の夢は、綺麗だったんだ」 そう言って彼、綾部陸人は慣れた手つきで色鉛筆をペンケースから取り出す。 青色、水色、藍色、うす青色、青磁色、薄群青色、群青色。 緑色、黄緑色、松葉色、灰緑色、深緑色、常盤色、エメラルドグリーン。――それから、青緑色に薄青緑色。 彼は四十八色の色鉛筆の中から、「青色」と「緑色」と呼べる色の鉛筆を、取り出せるだけ取り出している。彼の後ろで、美術室の小さな丸椅子にちょこんと座っている私も、彼がこうして四十八色の色鉛筆を自在に使いこなしている姿を見るまで、青色と緑色と呼べる色鉛筆がこんなにあるなど知らなかった。 彼の使っている色鉛筆は、私が誕生日に送ったものだ。 一端の女子高生が画材店で買うことの出来る値段で、ほぼ上限に近いものを買って送ったのだが、四十八色の色鉛筆だけでは、彼のような国立の美大を志望する人間にはまるでなんでもないおもちゃのように感じるのかもしれない。 しかし彼には、そんなことはない。どんなに限られた色でも、それを使う人の腕次第でどんな色だって出せる、そう否定されてしまったのだが。 最後に彼は色鉛筆用の消しゴムを取り出して、ペンケースのチャックを閉める。彼が使っているペンケースは、持ち運びの際にかさばらないようにと私が色鉛筆と一緒に送ったものだ。彼は色鉛筆と一緒に、ペンケースも愛用してくれている。送ったのは私なのに、実際にそれを使っているところを見ると嬉しいやらむずがゆいやらで、ちょっと複雑だ。 「今日は、青空の夢を見た」 なるほど、だから今日は青色と緑色の色鉛筆ばかりを取り出していたのか。頭の中でそう納得しながら、嬉しそうにスケッチブックを開く彼の姿をじっと眺める。 ――どんなに限られた数の色鉛筆でも、それを使う人の腕次第で、どんな鮮やかな色だって出せる。 彼がスケッチブックに描く、沢山の夢達を見ていると、それも決して嘘ではないと思う。私が送ったものがたとえ二十四色、十二色の色鉛筆だったとしても、彼にとってそれは大した問題ではないのだろう。 「どんな夢だったの?」 「綺麗な、青空の夢」 そうぽつりとこぼした後、水色の色鉛筆を机の上に置き、かわりに青色と薄群青色の色鉛筆を手に取る。そして先ほど水色の色鉛筆を滑らせた紙の上に、絶妙な感覚で青色と薄群青色の色鉛筆を滑らせ、見事な青空を描き出していく。 きっとこれが、彼が夢の中で見た光景だったのだろう。 「緑の芝生と青空しかない場所に、俺は立っていた。青空が、本当に綺麗だったんだ」 彼は、自分の見た夢の絵を描く。 彼は夢を見る度、自分が見た夢の一部分を、まるで写真を撮るかのようにスケッチブックに描き出す。 勿論、私が見た夢がそうであるように、彼の見る夢はその時その時で如何様にも姿を変える。だから時に彼の絵は印象派の絵のようになれば、抽象画のような絵にもなるのだ。 ――夢は良い。 普段の自分の頭では想像も出来ないことを、夢はいくつも見せてくれる。だから、それを描かないなんてもったいないことなんだ。 この人と付き合いだした頃、何故夢の絵ばかりを描くのか、そう私が聞いた時に彼が答えたことだ。 「少し強めの風が吹いていて、その風で芝生がざわざわと音を立てて、波みたいに揺れていた。雲は西の空に向かって動いていて……そうだ、ちょうどこんなふうに……」 私に向けて言っているのか、それとも単なる独り言なのか、聞いている私がわからなくなってしまうほど、彼は凄い早さで色鉛筆を持つ手を動かしている。 それぞれの色鉛筆の微妙な違いなど私にはわからなくて、全部同じ色のように見えてしまうのに、彼はそれぞれの微妙な違いをわかっている。だから、どこでどの色鉛筆を使えば、この絵は自分が描きたいもの、すなわち夢で見た空にどれだけ近くなるのか、彼はそれも本能的にわかっているのだ。 「本当に、綺麗な夢だったんだね。陸人が描いている絵から伝わってくるよ」 「……ああ」 私の言葉に応える時間すらも惜しいのだろう。絵を描くことだけに全ての神経を使っているらしい彼は、適当に相槌を打った後、そのまま絵に没頭してしまう。 これ以上はきっと、何も口にしない方がいい。今は彼の後ろに座っているけれど、こうなってはもう話しかけるのはおろか後ろに座るのもいけない。彼の邪魔になってしまうからだ。 天才肌とでも言うべきなのか。才気溢れる絵を描く能力の代償とでも言うのか。彼はとにかく繊細だ。絵を描いている時はとても小さな音や、人の視線や気配だけでも気が散って絵が描けなくなってしまうらしい。 私はこの人の彼女とだけあって、絵を描いている時でも同じ空間にいることを許されている。それでもこの空間の中で彼に視線を送ることや、大きな音を立てることは絶対にしてはいけないことだ。 一切音を立てないよう、私は慎重に椅子から立ち上がり、彼から死角になるところにある別の椅子に座り、鞄の中から暇つぶし用の文庫本を取り出す。 勿論億劫ではあるけれど、希代の芸術家達も、キャンバスに向かっている時はきっとこんな調子だったに違いない。そう思えば、大したことではないし、それに私は彼の中で、絵を描いている時でも同じ空間にいることを許された存在。そう考えれば、大したことではないどころか、それを誇りたくなるくらいだ。 「今日は、」 「……え?」 「今日は話しかけてくれてもかまわない。……本当に綺麗な夢だったんだ。だから、あきほに話したい」 思いがけない言葉に、膝の上の文庫本を落としかけてしまい、あわてて文庫本を胸に抱く。本が落ちる音ですら、彼にとってはインスピレーションを阻害するものなのだ。 「べ、別にいいけど……絵に集中できないんじゃないかな」 私の言葉を聞いている間も、彼は色鉛筆を動かす腕を止めていなかった。しかし、その速度がわずかに下がっているのを私は見逃さなかった。 それから少し後彼は手を完全に止め、少しだけ考え込み、そして。 「それも、そうかもしれない」 「でしょ? だから、絵に集中した方がいいと思うの。それに完成した絵さえ見れば、陸人がどんな綺麗な夢を見たのか、私にも伝わるよ」 「そうか……そうだな。俺も話したいって言っても、なんて言ったらいいのか、よくわからない」 「いいよ。何て表現したらいいのかわからないほど、素敵な夢だったんでしょ? だから、陸人はそれを絵にしたい」 「ああ。だったら、口で表現するより手で表現した方が早いかもしれないな。……それにしても」 今までずっと色鉛筆を握り続けていた彼が、何故かそれを机の上に置いた。そして窓の外を見、穏やかに笑って、 「綺麗な、空だ。……夢の中の空と、同じくらいに」 そう言われて、私も窓の外を見る。そこには点々と小さな白い雲が浮いている、青い空があった。 今週は週末まで今日のように晴れわたった一日となるでしょう。――そう、ニュースの気象予報士が言っていたのを思い出す。 「女心と、秋の……空?」 「へ?」 「いや、なんとなく頭に浮かんだだけだ。……どんな意味だったっけな」 「ええと、秋の空模様が変わりやすいように、女の子の心も凄く変わりやすい……そんな意味だったと思う」 「あきほの心は、変わりやすいのか」 「わ、私はそんなに変わりやすくないよ……たぶん。それと週末まで、今日みたいに晴れた日が続くみたい。だからこの空も、そんなに簡単には変わらないよ」 「……そうか」 どのように会話を続けたらいいのかわからなくて、とりあえず先ほど思い出した気象予報士の台詞を、そのまま口にしてみる。彼はまだ、窓の外を見つめ続けていた。 「あきほは、どこかに行きたいか?」 「へ?」 「明日は祝日なんだし、こんなに夢の中みたいに空が綺麗なんだ。あきほと一緒にどこかに行きたい」 ばさり。 先ほどあれだけ気をつけていたはずなのに、驚きのあまり持っていた文庫本をまた落としてしまった。あわてて拾い上げるが、彼は先ほどの音は気にしてない様子だ。絵を中断していた時でよかった、と思う。 「……本当?」 「ああ。どこに、行きたい?」 「そ、そんなこと言われても、思いつかない……それに、陸人は人混みが嫌いでしょ? だったら、一緒に行けるところは限られちゃうと思うの」 「……俺が、頑張って耐えればいい」 「だ、駄目だよそんなの。前に立川に行った時みたいに倒れられたら元も子もないし、陸人だって辛いのは嫌でしょ?」 私が言ったとおり、彼はとにかく繊細なだけあって、人混みを嫌う。そんな繊細な部分も、まるでお話の中でよくある芸術家のようで、彼が芸術に関し天性の才能を持ち合わせていることをより強く感じるのだが、一緒に付き合うとなるとその繊細さも困りものだ。 どうも彼は人混みの中に居ると頭が痛くなったり目眩がしてくるらしい。実際に数ヶ月前、私と彼が一緒に立川に行った時は、彼は人混みに耐えられなかったらしく、往来の真ん中で倒れて救急車で運ばれてしまったのだ。その時はわざわざ私達の家があるあきる野から立川まで私の両親と彼の両親が駆けつけ、大騒ぎになったのをよく覚えている。 それに、彼は元々滅多に外に出ない。元々出不精らしいのと、絵を描くために外に出るにしても、眠りについて夢さえ見れば描きたいものなどいくらでも出てくるからだ。 事実遅めの夏が終わって、日に焼けた生徒達が男女問わず教室には沢山居るのに、彼の肌は日焼けに気を使っている女の子並に白い。もちろん日焼け止めなど彼は使わない。 それなのにスケッチブックをそっと撫でるその指は、私よりも白いのだ。 「そうか、じゃあ……俺が描き終わるまで、ちょっと考えておいてくれ。描き終わったら、一緒に考えよう」 そう言って、彼はまた色鉛筆を手に取る。今度は数本の緑の色鉛筆を使って芝生を描き始めている。 どうやら彼は出任せでもなんでもなく、本当に私と一緒にどこかに行きたいと考えてくれているらしい。 さっきも言ったとおり彼は人混みを嫌う上に出不精なので、一緒にどこかに行ったことなどほとんどない。大体いつも学校で昼休みを一緒に過ごすか、どちらかの家で遊ぶか、せいぜいそのくらいだ。 だから、彼がこうしてどこかに行きたいと切り出すのは、付き合い初めてから一年以上経つのに、数えるほどしかなかったはずだ。それが嬉しくて、恥ずかしくて、思わず持っていた文庫本で赤い顔を隠した。 でも、文庫本で赤い顔を隠したって意味がないのだ。 だって彼はこんな私に気がつかず、絵に集中しているのだから。 「(でも)」 こんなに赤い顔は見られたくない。早く顔のほてりが引いて元に戻ってしまえばいいのに。とりあえず、照れ隠しにいくつか頭の中で候補を上げる。 カラオケとか、映画館とか、遊園地とか、私が友達と一緒に居くような人の多い場所はもちろん全部駄目だ。プールや夏祭りとか、夏らしいものは沢山出てくるのに、秋らしい場所というとさっぱり出てこない。紅葉狩りという案もあるかもしれないけれど、紅葉の季節には九月はまだ早すぎる。だからこれも駄目。 「(河原……とか?)」 東京都内に住んでいると言っても、私達の住むあきる野は緑が多く、それにバスに乗って少し行けば秋川がある。キャンプ場の近くや遊泳場なら人は多いかもしれないが、場所を選べば人の少ない、静かな場所だってきっとあるはずだ。 自分の見る夢の絵がある意味風景画に近いので、彼が実際の風景を描くことはあまりない。でも綺麗な場所に行けば、きっと彼も風景画を描いてくれるだろうか。 「(描いてくれればいいな)」 彼は基本的にどんな絵でも描ける。だからきっと私達が訪れるだろう場所も、美しいままにスケッチブックに写し取ってくれるだろう。 「(河原で、いいかな)」 高校生が行くような場所じゃないとか、私が日に焼けるとか、彼は何か言ってくるかもしれない。でも私は、彼の絵が好きなのだ。夢の絵でも、そうでなくても。 見れば、彼の描いていた絵ももう完成しようとしていた。満足行く出来に仕上がれば、きっと彼は私の方を向いて、行きたい場所は決まったのか、そう聞いてくるはずだ。 「(そうしたら、ちゃんと言おう)」 ことん、と小さな音がした。ここからだとスケッチブックの内容はよく見えないけれど、きっと満足いく絵に仕上がったのだろう。 「行きたい場所、決まったか?」 私は持っていた本を、膝の上に置いて、 「あのね陸人、私……」
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