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クリエイター名 |
橘瑞樹 |
サンプル
幻惑
雪が降っている。…幻惑の扉は開かれた。誘惑は私の心を奪い去ろうとする。
蝶が飛んでいる。…貴方はそれを手のひらで追う。潰すつもりなのだろうか。 私に向かい、取って欲しいという。 貴方はとても残酷だ。…残酷だ。 蝶のたおやかな動きは、貴方のイメージととてもかぶる。貴方のその長い髪がゆれるたびにそう思う。 貴方の眸が、細められる。 私は蝶を捕まえた。…貴方はそれをどうするだろうか。貴方は私の手から蝶を受け取り、微笑んだ。そのまま、鱗粉を手になすりつけた。蝶のは羽から、鱗粉がそがれてゆく。蝶は変貌する、貴方の手のひらの中で。透明な羽をもった蝶に変わる。 蝶としては、とてもみすぼらしい姿だ。けれど私たちの眼には、それはとても、神聖なものに思えた。 途端に…、 私と貴方の距離が近くなったような気がした。幻想だろうか? いや、そうではない。貴方の指は羽からすべての鱗粉を取り払い、蝶を逃がした。そして貴方は、私の唇にその指を当てたのだ。鱗粉が、唇に移される。 貴方はあでやかに笑い、私の着物の掛け衿に指を進める。割れ目から、手のひらを入れる。私は貴方の手のひらを掴んだ。細い手首が、私の嗜虐心をあおる。貴方は私の心をよく理解している。 …そして、私には解かっている。 貴方のうなじに唇を寄せても、…貴方を手に入れることはできないと。 鱗粉を付けたまま、貴方の唇に触れるのは、貴方を汚すようでいやだった。けれど私は、敢えてそうした。 貴方は崇高な人だ。…決して手に入らない。 私には解かっている。 貴方の自信に満ちたまなざしが私の心を暗いところへと追い詰めていく。…決して貴方は手に入らない。 太陽と月は追いかけあう。けれどそれらは相反するものだ。だから絶対に交わらない。解かっている。 私は貴方の髪に触れた。この愚かな思いに身をやつしたいという希いが、私を襲う。 貴方を手に入れたい、愚かでもいい。たとえ今、自分自身が幻影にとらわれていると知っていても…私は手に入れたい。私は貴方を、手に入れたい。 貴方の唇は、とても冷たかった。私は貴方の唇と降りしきる雪に体温を奪われてしまいそうだ。でもそれでも、本当は構わない。 貴方は私を、何処へ誘(いざな)ってくれるだろうか。
貴方は三日前に、…死んだ。
貴方の身体が、雪に沈む。私は貴方の帯を解き、恭しく肌に口付けをした。その肌の色は、雪にも負けない。…浮き立って見える貴方の紅い唇が虚ろに開かれていた。 私は堕ちていくのだろう。 雪の降りしきる中、貴方を抱いて。
私が貴方から逃れることは、もう、できない。
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