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クリエイター名  橘瑞樹
サンプル

■放課後の音楽室


 受験生って厳しい。
 課外を終えて自分の荷物のある教室に帰ってくる。かばんの中にテキストを詰め込んだ。上手く入らなくて、一度中のものを出して詰め直す。参考書は、自分で買ったものだ。
 一応、受験生だし。そう言い聞かせながら毎日を過ごす。
 大学に行くことが絶対じゃないけれど、周りの教師にあおられてその気になっているだけかもしれないけれど、でも…やっぱり、行きたいな、と思う。
 明日も勉強なんだな。でも、自分が選んだ道だし。
 荷物をまとめながらぼんやりしていて、はっと気づいたら、一緒に教室に戻ってきたはずの友人がいなかった。
 「美咲?」
 教室を見渡すけれど、やっぱり友人はいなかった。かばんはまだあるから、校内にいるのだと解かった。だとしたら……。
 綾音には彼女のいる場所のある程度の予想がついた。
 音楽室だ。
 同じ階にある音楽室に向かう。引き戸を開けると、ラのフラットの音が聞こえた。清んだ、ちょっと硬めのピアノの音だ。
 その音で綾音には何故美咲がここにきたのかが解かった。その音は、次のコンクールで歌う曲の最高音だ。 綾音はピアノの前にいる美咲の傍にやってきて、優しく笑った。
「もう遅いよ? いい加減帰ろ?」
 けれどその誘いに美咲は首を振った。ゆっくりと手を伸ばし、楽譜の音符を辿る。
「この……」
 綾音も楽譜を覗き込んだ。
「この音、……上手く出なくて」
 それは、曲の一番盛り上がる部分。

 一瞬 閃く光が 少女を襲う

「……一番大事な部分ね。大丈夫、落ち着けば出来るわ。確かにこの音は高くて難しいけど、…今までやって来れたでしょ、美咲は」
 美咲はじっと譜面を見つめている。
 綾音は、付き合ってあげる、と椅子に座った。
「じゃあ、このDの部分から」
 指示を出し、歌わせた。
 音が上手く出ない、というのはソプラノがぶつかる壁だ。それに対してアルトがぶつかるのは音が弱い、という壁。低い音は高い音に比べて弱いのだ。メゾソプラノはアルトとソプラノとのバランスに悩むことになる。
 綾音は音を叩きながら、音が漏れていることに気づいた。
「…………そうね」
 声の出し方には三種類存在する。
 先ずは、地声。普通に出している声だ。そして裏声。大半の人は、高い音を出すときにこの声を使うと思っている。しかし実際歌うときに使う声は、歌声だ。
 歌声は裏声の発声の仕方は違う。敢えて言うなら、裏声と地声の間が歌声だ。
「空気の音がする」
 美咲の声には、息のもれる音が混じっている。スー、という音だ。その発声の仕方だと、声が空気に溶け込んでしまう。声が通らないのだ。裏声に近い。
「発声をやろう。『お』といいながら発声。弾くからついてきて」
 ピアノを弾いて、綾音がリードする。
 美咲は最近あんまり歌っていなかった。高校三年生にもなると、課外が増える。その合間を縫って部活に出ているが、やっぱり両方を上手くやるというのは難しい。
 歌わないと、発声の仕方も忘れてしまう。
 難しいところだ。
「いいわ。次は舌を出して発声、するわよ」
 美咲が制服のポケットからハンカチを出し、舌を押さえるのを見届けてピアノを弾き始める。
 大丈夫、ちゃんと出来ている。
「じゃあ……同じ咽喉の開け方で、もう一度、曲を、歌詞で歌おう」
 そしてソプラノとアルトの音を同時に弾く。

 人の 罪のために
 一瞬 閃く光が 少女を襲う

 歌い終わると、美咲は小さく溜め息をついて、
「……出た」
 呟くように言った。
「綺麗に、出てる。ね、出来たでしょ」
 だって美咲はいつでも努力していたもの。
 笑って綾音はピアノの蓋を閉じた。楽譜を閉じて、美咲に渡す。
 貴方はいつだって、一生懸命だったもの。
「……綾音、有難う」
 少しだけ恥ずかしそうに、美咲が言った。
「もー、可愛いな、美咲は」
 立ち上がり、三十センチ近く下にある岬の頭をぽんぽんと叩いた。
 小さいし、可愛い。
 上を向いた美咲のおでこをぱちんと叩いた。
「いたっ」
「そんな強く叩いてないでしょ?」
 笑って、おでこをさすりながら、前髪をかきあげる。
「美咲、眼、瞑ってて」
「へっ?」
 美咲が、わけの解かっていないうちに、綾音はキスをした。もちろん唇に、だ。
 一瞬、時が止まった気がした。
 暖かくてやわらかいけれど、弾力のある唇。キスっていうのは温かくて好きだな。セックスほど激しくなくて、無接触よりも心地よい。
 好きな人とするならなおさらだ。
 唇を離すと、美咲がしっかり眼を見開いて綾音を見ていた。どうやら目を開けたままキスしていたらしい。
「美咲さん、キスってのは眼を瞑ってやるものでしょ」
「……そうだけど」
「気持ちいいでしょ?」
「…そうだけど、でも、でも!」
 何か反論があるらしい。
「私たち、友達だよね?」
「うん」
「友達って、キスしないでしょ?」
「でも、気持ちいいでしょ? 気持ちいいものを大切な友人と共有して何が悪いの?」
「…そういうもの?」
「そういうもの」
 帰ろう、と綾音は美咲の背中を押した。歩きながら、納得いかない顔をしている美咲の耳に囁いた。
「……友達同士が駄目なら、恋人になってもいいんだよ」
 美咲は、え、と訊き返した。ちゃんと聞こえなかったらしい。綾音は少し考える。
「……まあ、いいわ」
「え、なに」
「いいの、帰ろう」
 そして二人は音楽室を去った。
 最後に綾音はもう一度だけ、美咲の頭をぽんぽんと叩いた。
 笑いあって、階段を駆け下りた。
 
 
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