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クリエイター名 |
中野珠 |
I wanna change.
それは拍子抜けするほど、あっけなくて残酷だった。 (私にかけてくれた言葉は、全部嘘だったの……?) 恋人と別れた。 半年付き合って、それなりに将来も考えてたつもりだった。 でも、別れた。 正確に言うと、ふられた。 それで別れてしまったあとは、自己嫌悪だけが残った。 (嫌い) (嫌い) (嫌い!) (……大嫌い!) 夜通し泣いて、まぶたを腫らして迎える朝。 鏡の前の『私』は、恋に負けてしまった哀れな女。 化粧を塗りつけて、服を着て、周囲が見慣れた『私』に変装する。 (でも、もう、疲れちゃった……) 精神的にも、肉体的にも、けだるい日々が続いた。 (私……このまま、死んじゃうかも) そんなことを思い続けて、一ヶ月。 ちょうど年下の男友達と会う約束があった。 大学時代のサークルで仲良くなって、その縁は今でも途切れることなく続いている。 気分転換に会うのもいいか、と、キャンセルすることなく当日がやってきた。 平日の夜、小料理屋。 私たちくらいの年齢で行くのには、ちょっと敷居が高い。 落ち着いた店で、いかにも大人の雰囲気と言った感じ。 でも、『たまにこういう店はどう』って彼の方が言いだしてくれたから、その場所に決まった。 先に入って、東北の日本酒を一合頼んだ。 よく冷えた透明な液体が、いつもより酔わせる。 座敷で飲んでいると、大将の『いらっしゃい』という声が聞こえた。 「よ」 すっと手を上げて、にこっと微笑む。 私も釣られて手を上げた。 「よう」 「お疲れ。待ったでしょ」 「待った待った。すいません、もう一合。今度は冷酒でおすすめの」 私はからになったガラスのとっくりを掲げて、お運びさんの持ってきた盆の上に置く。 「俺も」 「あんたはビール。あと何かおなかに入れなよ。どうせ腹ペコなんでしょ?」 「お見通しだなあ」 彼は疲れているのかどっかと座敷に座り、おもむろにデニムシャツを脱いだ。 かすかな汗の匂いが立ちのぼる。 (子供が泥だらけになって遊んで帰ってきたみたい) 懐かしい香りに、私は思わず目を細めた。 「何がいい?」 メニューを開いて渡す。 「えーとね、俺、生ビールと、そら豆と。それから若鶏の竜田揚げと、もずく」 「じゃあ私、それにアスパラベーコンと、お刺身盛り合わせ三人前」 「おっ、おごり?」 その形のいい唇を愉快そうにゆがめて、彼は笑った。 「分かったよ。たまには私がおごりもいいかもね」 「オッケー。じゃ、そういうことで。この後は俺が払うから」 「うん」 やがて運ばれてきたお通しをがっつく彼を見ながら、自分で酒をガラスの杯に注ぐ。 手酌も女のおごりも許される、気の置けない大切なオトモダチ。 それが彼。 「ビール来たよ」 「おう」 「じゃあ、乾杯」 「かんぱーい。お疲れー」 かちん、と宙で種類の違うグラスがぶつかって鳴る。 私たちは忙しく語らい、食べ、飲んだ。 「……飲んだねえ」 「うん」 たらふく食べたあと、 どこかの喫茶店で甘いものでも、という話になった。 「夜中でもやってるの?」 「……まだ十時だよ。喫茶店くらいならどこでもやってるよ」 提案されたのは、この小料理屋から少し離れた喫茶店。 歩いていけば、十五分くらい。 コーヒーがうまいのだと、彼は言った。 「タクシーで行く?」 「酔い覚ましには歩きでしょ」 「そりゃそうね」 その喫茶店を私は知ってはいたが、行ったことはなかった。 彼がいつの間にその場所を覚えたのかと、ふっと視線が遠くなる。 喫茶店へ向かう。 涼風が肌をなぶる裏路地を、二人で歩いた。 「結構、まだ夜は涼しいね」 「……うん」 「どうしたの」 「……うん」 「ねえってば」 「……うん」 しつこく問いたくなる。 細身で長身の彼は、私よりもずっと背が高い。 ヒールを履いていても頭ひとつ、違う。 そんな彼が突然言い出した。 「とりあえず手、貸して」 「……え?」 問う暇もなく、手を取られ握りしめられた。 どぎまぎと言葉を失っていると、彼が前を向いたまま呟いた。 ひとりごとのようだった。 「別れたんでしょ」 「……ええ?」 「だから、別れたんでしょ、って聞いた」 「誰とよ」 彼がこちらを向いた。 悲しそうな瞳が、ほろ酔いの涙の向こうに揺れている。 ……ああ、それでやっと気づく。 私は泣いていたんだ。 泣いていたから。 私の、心の動きに気づいてくれたんだ。 つむがれる、言葉。 「ずっと、見てた」 「……何を」 「お前のこと」 「……ふざけないで」 私はつながれた手をふりほどいて、涙を払いきっと彼の瞳をにらみつけた。 彼の目は悲しそうにずっと揺れていた。 「酔っ払ってるからって、……許さないわよ」 「酔ってるからじゃない」 「説得力ない」 「確かに」 (悲しそうに笑わないでよ。あんたは……。あんたはそんな風に複雑な表情のできる男じゃなかったくせに) いつの間にか大人になっていた彼のことを、少し見くびっていたのかもしれない。 この仲良しの男に、体以外は何もかも許して、いい気になっていた私を私は見下した。 じり、と彼が私に向かって歩みより、再び手を差し伸べる。 細くて長い指、しなやかな掌。 (何度も慰められた。何度も励まされたっけ……) でも、このぬくもりから逃げなくては、私は変われないと思ったのだ。 いつまで経っても頼りっきり、甘えっぱなしじゃ駄目だと思った。 だから、逃げた。 目の前にある安らぎを放棄して、スリルに身を委ねることで変わろうと思った。 (こんなに苦しい思いをしたの、私が逃げたからだったんだ) 認めたくない、本当の気持ち。 「……馬鹿言わないで!」 馬鹿を言っているのは私だ。 それでもその事実から目をそらしたくて、後ずさる。 瞬間、すとん、と音がした。 鈍くて強い痛みが走って、同時に彼が私の名前を叫ぶ声がした。 それと一緒に、私の意識は夜の空に消えていった。
――変わりたかったのよ。 ――分かってる。 ――でも変わり方をきっと間違えたの。 ――大丈夫。お前は、ちゃんと変われるよ。
(あったかい言葉……) 一度は捨てた安らぎがここにある。 (変わるって、難しいことじゃないのかな) 自分の中の、面倒くさいって感情、我がままな本音、そして何よりも。 自分が嫌いって、そういう感情を自分と認めること。 それも、変わることへの一歩なのかもしれない。 「……目、覚めた?」 「ん……」 白い天井と、白いカーテン。 ずきり、と体が痛む。 「軽い脳しんとう。と、捻挫。……でもびっくりしたよ。歩道を踏み外して後ろから転ぶんだもの」 「ここ、病院?」 「うん。今、午前二時。起きたら、帰っていいって」 頭もちょっと痛い、と探ったら、大きなたんこぶが後頭部にできていてぷっくり膨れていた。 (さっきの、あの会話は何だったんだろう?) 無意識が見せた幻か、それとも。 私が実際につぶやいていたのだろうか。 誰よりも変わりたかった。 この目の前でおだやかに微笑む人から逃れるために。 (だから……) 「ねえ」 「なに?」 「私……変われる?」 唐突にも聞こえるその問いに、ふと彼は微笑みを深くした。 (ああ、優しい) 私はこれが欲しくて、でも自分の中でそれを否定して、変わることさえも拒絶したのだ。 「変われる。お前が望めば」 「そっか」 「うん。大丈夫」 夢の中の繰り返し?よく似た言い回しの運び。 デジャビュ。 「怖い」 「大丈夫。怖くない」 「あの……」 「なに?」 「抱きしめて」 私が勇気を振り絞って言った。 すると彼はそっと肩に手を添えて、やわらかく抱きしめてくれた。 何かが氷解していく。 パズルのピースがかちっと当てはまる。 「足が治ったら、またどこかに飲みに行こう」 「……ありがとう」 「今日話せなかった分、ゆっくり話すから」 「うん」 いつの間にかまた、泣いていた。涙が止まらない。 そんな私に彼は辛抱強く付き合ってくれている。 小さな灯から逃げようとしていた私を許してくれる? まだ間に合う? それは、夜が明けたら聞いてみよう。
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