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クリエイター名 |
中野珠 |
サンプル
少し汗ばんだ肌が冷え始める。絡めた肢が冷たい。 痩せた体を抱きしめ、その肌を舐めていく冷気を拒もうともがく。 しなやかな長い髪が俺の頬に貼りついて、彼女がそれをそっと払うのがくすぐったい。 眠りの世界ににわかに落ちていこうとする俺に、彼女はつぶやく。柔らかでささやかな愛の言葉を。 俺はそれに答えない。答えたら、何かが壊れて完全に構成されたこの温かな時間と空間が消えていきそうで、怖かった。眠るふりをして、なにも返さないで、ただひたすら、寒いふりをして彼女の白い裸体を強く抱きしめた。 せめてもの俺の思いを表す行為。 いつでも俺は彼女に恋をしている。愛じゃない。こんなのは愛じゃない。欲しがって、欲しがって、甘えて、甘えて。求め続けて俺だけが進みたい道を強要する。ついてくればいい、ついてきてほしい、どうか。信じてくれと言いたい、一緒にずっといてくれと強いたい。こんなのは愛じゃない、ただのエゴ、でもそれでも、俺の嘘いつわりのない気持ち。 彼女は俺にとっての一筋の光、眩しいような、目もくらむような強い光でもないのに、俺はあまりにもその尊さに静かに見つめることすらできやしない。聖なる光、まるで慈母そのもののように俺を包み、導き、愛してくれる。俺はただその存在を失うことを何よりも怖れるだけ。 彼女にもしも俺に対する暗く黒い思惑があるならば、きっと生きてはいけない。でもそうであったとしても彼女から離れられない。心の内ですがりながら、泣きながら彼女を抱きしめる。細く頼りない身体が折れんばかりに、俺は縛る、彼女の身体も心も、ずっとずっと。 「……寒いの?」 いつの間にか震えていたらしい。怖いのか。怖い。俺は自問自答する。この心を喪うのが何よりも怖い。 別れる日が来るなんて考えられない、考えたくもない。未来なら見えている。俺だけが描く未来が。それはもしかしたら彼女も望んでいる未来だ。 俺は無明の中にいる。それを照らしてくれるのは彼女だ。だから彼女なしでは生きられない。植物が空に向かって伸びるように、彼女の心へ向かって歩いていく、その闇の中を、ひたぶるに。 「……ねえ、答えてよ」 「ああ……」 不安そうな彼女の声。安心させようと俺は彼女の頬に軽く口づけを贈る。 「お前が」 その先の言葉は彼女以外の誰にも聞かせたくない。たとえこの闇夜が構成する空気にだって。だから耳元でそっと鼓膜を震わせるだけにとどめた。かすかに漏れる彼女の吐息。胸がどくん、と跳ね上がる。欲望が燃え上がる。先ほどまで睦み合っていたというのに、先ほどまで眠るつもりだったのに、この胸の中の焔に負けて俺はまた――。
夜明けは、もうずいぶん遅くなった。時刻自体は変わらず朝を残酷に表すが、それでも雪明りは優しさを隠せない。この夜明け前の明るさ。月など出なくとも雪の白さはわずかな街灯の光を反射して闇を明るくしてくれる。ああ、まるで、それは。 雪の光――。 まるで暗闇を包みこむようにそっと匂い立つ光に、彼女を重ねる。 つかの間の眠りに互いに落ちていくその瞬間、真実を知った。
抱き合ったまま眠ってしまった数時間前の記憶。今思うと気恥ずかしくなるくらい求めた面影を、彼女の身体のあちこちに見出してしまう。その羞恥のあまり、誰にも知られずに褥の中でこめかみを押さえた。 彼女はまだ眠りの世界の中にいる。お前はどんな夢を見ているんだ。俺もその夢の中へ入っていきたい。夢の中だって、現実の世界だって、一緒にいたい、ずっといたい。静かな呼吸を繰り返す裸身の彼女は、俺の葛藤と想いなど亡きものにせんばかりに安らかな静寂に包まれている。このまま目を覚まさないのではないかと思うほどに。眠り姫か、それならば俺が王子になって接吻で目を覚ましてやろう。 額際の髪をかきあげ、そっとその白く美しい額にキスをする。乾いて冷たい唇は、彼女に届くのだろうか。閉じた瞼を彩る睫毛は化粧なんてしなくとも長く濃く、枕の上を広がる髪は艶やかで絹糸をよりかけたようだ。決して派手な顔立ちなどではないし、人目を引く絶世の美人などではない。それなのに、なぜだろう、この胸をかきむしる焦燥感は。 彼女の前では俺は俺を見失う。見境ない獣になる。それは肉体だけでなく精神をも喰い尽そうと必死になる飢え渇いた野獣だ。一方で、もし失ったらと考えると限りなく臆病になる狼でもある。牙を隠し、爪を折り、尻尾を垂らして憐憫を乞う。 彼女は聖母、俺にとってのマリア。それなのにつかみどころがなくて、切なくてたまらなくなる。うまく言葉に表せないが、きっとそれは『安らぎ』とでも言うのだろう。焦燥感に駆られると同時に彼女といると素顔の俺が出せる。それは生身の俺だ。戦場で傷つき、家路に就いたなり一杯の甘露を求める疲弊しきった戦士のような俺を、彼女はいつでも笑顔でお帰りと言ってくれるのだ。そんな存在にどうしてそれ以外の感情をいだけよう。 『あなたは……本当は傷つきやすくて脆いのを、私は知っているから。だからどんなときでも私はあなたにおかえりって言いたいの。つらいときはいつでも言ってね。私の心はいつだってあなたの傍にいるから』 なあ、泣きたくなるのをこらえてもいいか。 俺は顔をしかめながらベッドの縁に腰を掛け、彼女の眠る顔を見ながらその髪を梳いてその先から漂うシャンプーの香りに目を閉じる。 まるで暗闇を照らす光。 夜明けが来て、徐々に太陽の光に雪の光は侵蝕されていく。太陽は雪を溶かしていくだろう。けれど俺の中の雪明りは決して消えることがない。俺にとってはSunshineよりも美しく見えるSnowshine。この胸の中にずっと、生まれ変わっても大切にしたい『光』。 タイムリミットは近づいている。仕度をして行かなくては。ここを離れなければ。この安らぎの空間から去らなければ。今度会えるのはいつになるのだろう。でも抱き合うだけでもいい。視線を交わせるだけでもいい。それだけで心が洗われ、救われる気がするのだから。彼女はこんな俺をふがいないと思っているのだろう。だけど俺には俺のすべきことがあって、一方で彼女はいつでも待つことができないのを知っている。 未来を、書き留めようか。 眠りの世界にいる彼女を置いて、俺は出ていく。やっと取れた休みを俺のために割いてくれたのだ。少しでも休ませてやろう。物音を立てないようにシャワーを浴び、服を着て、荷物を取りにいったん自宅に戻る。寝返りを打ってこちら側を向いた彼女は、ひどく優しい微笑みを浮かべていて、俺の胸は締め付けられるように痛くなる。この胸を去来する感情はきっと、陳腐な俺なりの言葉で表すならばきっと。 『いとしい』。 めまぐるしいスケジュールの中でも、彼女へ連絡は欠かさない。メールがせいぜいで、電話さえなかなかできないけれど。仕事の合間に彼女へ短いメールを打つ。朝の挨拶と、気遣いの言葉と、そして何より欠かせない、感謝の言葉。いつだってありがとうと言いたい、傍にいてくれてありがとうと言いたい。それ以上のことはなかなか言えない。愛してるとか大好きだとか、そういう言葉はいつの間にか言えなくなった。三十路を迎えたせいなのか、それとも俺が大人になったからなのか、軽々しく口にするのはなんだか恥ずかしくなった。だから俺の歌詞の中からは直接的な表現は消えた。けれど『秘すれば花』であってほしいと思いながらひたすら物語をつづる毎日を、彼女もきっと感じてくれている。なぜなら彼女はこう言ったのだもの、『いつでも心はあなたの傍にいる』と。 俺だってそうさ、いつだって心はお前の傍にいるよ。たとえどんなに遠く離れていても。
――やがて迎えた冬のある日。 白い息を吐きながら街路樹のイルミネーションを眺める。 何気なく口ずさみながら、それを待つ。 それはきっと、俺が抱える俺自身の未来。 今までの俺は求めるばかりだったから、これからは俺を照らしてくれる光を、包み込もう。 身体だけでなく心までも温かく包みこもう。 そして言おう。 言えなかった言葉。 黒い車が止まる。 運転手より早くその扉から出てきたのは、予想通りのその姿。 近づいてくるその身体を抱きしめたいのは山々だが、と躊躇していたら、窓からさっと手を上げて運転手はそのまま去っていった。 千載一遇の好機。 俺たちは互いの体を重ねた。 理由は聞かないし聞く必要もない。 その冷たい肌を温めるべく、ダウンのコートを開いてその中に彼女の身体を入れて包み込む。 今度はその心も温めようと。 「ずっと一緒にいないか」 「うん」 間髪いれずの二つ返事。 「あなたがいてくれるなら、私は何にもほかに要らない。私の世界はあなたの世界」 「……それは言い過ぎ」 はにかんでしまった俺を励ますような、コートと俺の身体に包まれた彼女の笑顔。 俺の心身を限りなく熱くさせる。 ありがとういつまでも、俺と共にいてくれるなら俺は敵なしだ。 お前は俺の世界を照らしてくれる、『光』――。
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