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クリエイター名  県 裕樹
白い吐息の向こうに

 ン……
 心地よい微睡の中から、引き摺り出されるこの瞬間。
 前は、これが嫌で嫌でたまらなかった。
「……よし、今日もアタシの勝ちだね」
 何と戦っているんだか、そんな勝利とやらに意味なんかあるのか……等と脳内で自分に対して苦笑いを向けながら、目覚まし時計がヒステリックな音を立てないように、その頭を軽く撫でてやる。
 カーテンを開くと、漸く白み始めた空が見える。小さく蕾を付け始めた梅の木が、柔らかな光を受けてキラキラと輝いている。
 未だ甘い誘惑を投げ掛けて来る布団を勢いよく退けると、遠慮と云うものを知らない冷えた空気が薄い寝間着を貫いて、一気に眠気を取り去って行く。
 その寝間着すらも取り去って、潔く素肌を曝け出す。室内だと云うのに、何という寒さだろうか。身に着けている下着には、それに抗うだけの力は無い。
 一枚、一枚と、着衣を重ねていく。そして最後に、トレーニングウェアを着込んで準備は完了だ。
 おっと、タオルを忘れてはいけない。吐息が白くなる程の空の下でも、此処に戻って来る頃には汗だくになっているのだから。
「さ、行こうか」
 手に取った薄桃色のバンダナに向かって、ニッコリと微笑み掛ける。それで、長く伸ばしている髪を後ろで一つに纏めると、音を立てぬように気を付けながら、玄関の戸を潜る。
 軽いストレッチを、4〜5分。四肢の関節や心肺にダメージを与えない為の、準備運動だ。それが済むと、『うん』と頷いて、何時ものように走り出す。アタシはこれを、毎日必ず繰り返している。
(今日は、もしかしたら……ううん、在り得ないから。でも……)
 毎朝の、定時トレーニング。ただそれだけの筈……そう、それだけの筈なんだ。
 そう自分に言い聞かせながら、アタシは緩い坂道を駆け上がり、広い通りに出る。あと数時間もすれば、このキレイな空気も車の排ガスで淀んでしまうだろう。この長い直線を走破した後、公園の中を前け抜けて、最初の角を曲がる。この瞬間、いつもアタシは……やっぱ、今日も居ないんだね、と……心の中で呟いてしまう。そんな毎日を、アタシはずっと続けている。

***

「ハァ、ハァ、ハァ……」
 高校入学を果たした後、中学生の頃『仲良しクラブ』であった筈の吹奏楽部は、一気にその装いを変えた。
「確かに、レベルの高さじゃ定評あるって聞いてはいたけど……自主トレしないと、とてもついて行けないよ!」
 入部は、希望すれば誰にでも出来るのだ。しかし、スポットライトを浴びてステージに立つ資格を得るのは、一部の強者のみ。お遊び気分でやりたい人は、それなりにユルユルとやっていれば良い。けど、アタシはそんなぬるま湯に浸かるつもりは無い! と、皆の前で勢い良く啖呵を切ってしまった手前、もう後には引けない。
「我ながら、損な性格だよね。意地だけでやってるようなモン……来た!」
 背後から、リズミカルな足音が迫って来る。そのテンポからして、かなりのハイペースだという事が分かる。
(今日こそ、ついて行って見せる!)
 年頃は、たぶん同じぐらいだと思う。近所じゃ見た事の無い人だけど、きっと高校生だ。
 背が高くて、ちょっと見ると女子と見紛うような、厭味ったらしいぐらいに整った目鼻立ちの男子。それがアイツだった。
(……! やっぱ速い!)
 必死に追い掛ける。けど、一度追い抜かれたら、もう追い付く事は出来ない。
 いや、別に彼と競争をしている訳では無いのだから、無理に追い掛ける必要など全く無い……筈なのだが。
「クッ……ハァ、ハァ、ハァ……駄目だ! 今日も、負けた……」
 きっと、向こうは此方の事など意にも介していないだろう。けれど、涼やかな顔で自分を追い抜いていく時に、一瞬だけ合う視線……それがアタシには侮蔑の眼差しに見え、更に対抗心を燃やす事となった。
(まーた居るよ、あのドン亀……とか思ってるに違いないよ! 今に見てなさいよ、スパーンとぶち抜いてやるんだから!)
 だから、誰と戦ってるんだアタシは……そんな事を考えながら、既に豆粒ほどの大きさになっている後姿を目で追い続ける。そんな毎日を、アタシは続けていた。その甲斐あってか、初めの頃はあっという間に視界から消えていったあの後姿が、今では数分間ではあるが、見え続けるようになったのだ。
(相手も同じ人間……そんなに差は無い筈! 追い付ける、きっと追い付ける!)
 段々と、目的がすり替わってきている事に気付きもせず、アタシは毎日毎日走り続けた。風の日も、雨の日も……

***

 アイツの足音が聞こえ始めるタイミングが、段々と遅くなってきた。互いに走り出す時間を変えてないのだとしたら、確実にアタシがアイツに追い付いて来ているという証拠だ。まぁ『追い抜かれ、そして追い付けない』というパターンは同じなのだが、抜き去られるまでの間、目を合わせている時間が段々と長くなって来ているのだ。
 そして遂に、アタシは捉えた。アイツの背中を。何時もは大きく差を付けられた後に漸く到達する、曲がり角の向こうで。
 そう、今日は追い抜かれた後にペースを上げ、必死に追尾していたのだ。
(今日は付いて行ける……付いて行けてる!)
 特に自分のコンディションが良かった訳でも無いが、アイツが手心を加えている訳でも無さそうだ。それが証拠に、アイツも驚いたような顔でアタシの顔を見ていたのだ。
(そうか、あの路地裏を抜けて来て、同じ道に合流してたのか……という事は、中学はたぶん……って、そんな探りを入れて、どうしようってんだ、アタシは!)
 ぶんぶんと、頭を振って思考を散らす。今は集中だ、このペースを守っていれば……抜けないまでも、離される事は無いんだ! 
 つまらない意地だけど、これは自分自身との戦いでもあるんだ……と、アタシは必死でアイツの背中を追い続けた。
 そんな時だ。アイツがスッとペースを落とし、そして立ち止まったのは。
「……どうして、君まで立ち止まるんだ? 俺は此処が終点だから、止まっただけなんだけど」
「え? あ……あれ?」
 キョトンとした顔で、アタシの顔をアイツが覗き込んでいる。
 そう言えばアタシ、何で立ち止まってるんだろう?
「あ! アンタをペースメーカーにしてたから、つい釣られて……」
「何だそれ? おかしな奴だなぁ」
 そうか、此処がコイツのゴール地点だったのか。つまり、この近くに家があるんだな。だから何時もあの角を曲がった後に、姿が見えなくなっていたんだな……と、一人で納得していると、おもむろにアイツが話し掛けて来た。
「君、初めて見た頃はノロかったのに……メチャクチャ速くなったな。何処のランナーだ?」
「アタシ、ランナーじゃない。吹奏楽部だよ」
「えぇ!? 俺、文化部の奴を振り切れなかったのか!?」
 ……かなりショックだったみたい。だって彼、本気で頭抱えてるんだもん。
 だから言い返してやったんだ。
 『文化部の奴に』とか言われたのがカチンと来た、ってのもあるけど……言わずにいられなかったから。
「文化部だから何? アンタがアタシに追い付かれて、振り切れなかったのは事実でしょ!?」
「あ、わ、ワリ。そんなつもりじゃなかったんだけど……何? 本職が素人に負けた、みたいな?」
「そう言うアンタは、何やってんのよ?」
 言わなきゃダメか? と云う感じで、アイツは回答に困っていた。曰く『素人』に食い付かれて、立つ瀬が無かったのだろう。
 そんなアイツの口から出て来たのは……やはりと言うか。想像通りの答えだった。
「お察しの通り、陸上部さ。5千メートルのレギュラー取り賭けて、トレーニングしてたんだよ」
「アタシには、陸上競技のレベルがどんなだかは分からないけど……今日の事って、自信なくしちゃうぐらいの事なの?」
「え? ……いや、俺はいつもの調子だった。それで走り切った。タイムだって悪くは無いんだ」
 聞けば、この地点は自宅前からスタートして街を一周し、同じ場所に戻って来て、丁度1万メートルなのだそうだ。彼が選手を目指している競技で走る、倍の距離である。今日のタイムも、それを2で割って出した値が、5千メートル走の平均タイムを遥かに上回る記録をマークしているとの事だった。つまり彼のレベルは相当高い、という事になる。
「だから、俺がショックを受けるのは可笑しいんだけど……なぁ、吹奏楽やってる奴って、皆そのぐらいで走れるものなのか?」
「分かんない。心肺機能をかなり鍛える必要があるから、皆トレーニングやってるのは事実だけど……アタシの場合、アンタをぶち抜いてやる! の一念で走って来たからさ。言ったでしょ? アンタを目標にしてたって」
「さっきは、ペースメーカーって言ってなかったか?」
 その言を聞き、アタシは何故か急に気恥ずかしくなった。
 どうしてだろう、『アナタを追い掛けていたら、いつの間にか速くなっていた』と云う事実が『アナタに追い付きたかった』と云う意訳になってしまうのが、照れ臭かったのだろうか。
 アタシは、この男に特別な感情は抱いて居ない……筈だ。なのにアタシの心臓は、何故こんなにドキドキ言っているのだろう。
「……どうでも良いけど、俺……そろそろ家に入りたいんだけど」
「え? ……あ、ゴメン……アタシも早く戻らなきゃ! じゃ、じゃあね!」
 その時は、後ろを振り返る事が出来なかった。訳は分からなかった、しかし……猛烈に恥ずかしかったのは間違いなかった。

(後略)
 
 
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