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クリエイター名  県 裕樹
心の鏡

 私はどうして、こんなところを飛んでいるんだろう……
 まるでミルクの中を泳いでいるかのような、ハッキリとしない意識。目は覚めているし、耳も聞こえる。勿論、視界も良好。だが、意識が……と言うより、気力が底を付きかけて、ふわふわと風に流されるままに、状況に身を任せて宙に浮いているのだ。
「幾ら弱種とはいえ、私だってヴァンパイア……人間ぐらい、簡単に御し切れると思っていたのに……」
 ひとえに吸血鬼と言っても、様々な種類がある。有名なところでは、蝙蝠の姿を借りて夜の地上を闊歩する、ドラキュラ伯を筆頭とする種族。彼らには日光に弱いという弱点があり、行動できる時間帯は夜間に限られるが、その身体能力は人間の比ではなく、逆に夜間であればほぼ無敵と言って良かった。ニンニクや十字架に弱いという弱点が伝えられているが、それはあくまで俗説であり、彼らに十字架を見せたところで怯みもしないし、ニンニクの臭いを嗅がせたところで何の効果も無い。
 その他、人型を持たない獣型、果ては昆虫型なども存在していたが、その何れもが、力関係では人間を凌駕していた。そう、人間は吸血鬼に敵わない……これはもはや常識であった。ところが……
「まさか、あんな小さな女の子にすら敵わないなんて……私って、一体なんなのかしら……」
 彼女達の一族も、確かにヴァンパイアの一種ではある。が、吸血『鬼』と名乗る事が憚られるほど、弱い種族だった。無論、その体力や腕力には個体差があり、単純な力量では人間を凌駕する者もいる。だが、肝心な吸血鬼としての能力は『蚊』に近く、殆ど無力と言って良いほど弱かった。無論彼らには、変身能力も備わっていない。
「空は飛べる、他の種族の血を吸って栄養に出来る……だから、人間より優れているはずなのに……」
 彼女は、襲い掛かった相手にことごとく返り討ちに……と言うより、殆ど相手にされず、酷い時には存在にすら気付いて貰えずにあしらわれ続け、それを繰り返すうちに、ついに自信を喪失してしまったのである。
「皆が外界に降りた後、帰って来なかった理由がやっと分かった……帰りたくても帰れなかったんだ。みんな、人間や他の種族に負けちゃったんだ……」
 彼女の想像は強ち外れではなかったが、少々オーバー気味であった。現に、彼女と同じ種族の者でも、キチンと帰還している者も居るのだ。彼女の両親も然りで、立派に人間を従えた経歴を持っている。その話を幼い頃から聞いていたからこそ、臆病者の彼女も異界へ旅立つ気になったのだ。しかし現実はこの通り。これでは両親の居る、元の世界に戻る事はできない。彼女達の世界の掟として、一度外の世界に出たら、その世界の種族を一度は従え、主従の契りを交わさなければ、元の世界に戻る資格を得られない……というものがあったからだ。
 彼女も最初のうちは、何とか帰還を果たそうと必死になり、狙う相手を男性から女性、大人から子供へと……段々と弱そうな者に変えていったが、先刻ついに、小さな女の子相手に負けてしまったのである。これはもはや、能力が云々と語る以前の問題であった。彼女達の力量は、そのモチベーションに比例して変化する。すっかり自信とやる気を失った今の彼女では、たとえ赤子が相手でも御せはしないだろう。
「もう、帰るのも無理……何だか疲れちゃったな。ああ、このまま泡にでもなって消えてしまえたら……」
 そんな感じで、彼女はすっかり空気と同化しながら、風任せにフワフワと漂っているのであった。

**********

「なぁ、いいじゃないかよぉ。お前の肩を揉んでやるから、その紅茶を譲ってくれってんだ、無理な相談じゃないだろう?」
「無理に決まってるでしょ! それに、アンタの場合は肩だけじゃなくて、胸まで揉んでくるじゃない! お断りだよ!」
「サービスだよ、サービス!」
「そんなサービスなら要らないよ! さ、買わないなら帰った帰った! 商売の邪魔だよっ!」
「チェッ、なんでぇ! 融通の利かねぇ女だな!」
 男は不満そうに、舌打ちをしながら露天商に背を向けた。どうやら顔馴染みのようであったが、お世辞にも良い客とは言えず……いや、客と呼べる代物であるかどうかさえ怪しい態度であった。
「つまらん……ユーモアを理解しない連中は嫌だねぇ。あーあ、面白くねぇ!」
 彼は名をバッカスといい、その名が示す通り、常に酔っ払っているかのような言動で知られた、ちょっとした変人であった。とにかく自分勝手で、我が儘で、それでいて他者の言葉には全く聞く耳を持たないという……ローマ神話のバッカスが聞いたら、ほぼ確実に嫌がるであろう程の、悪い意味での有名人であった。おまけに自他共に認める好色で、『バッカスを見たら娘を隠せ』と噂されるほどの、酷評の主でもあった。尤も、実害が出ていない為、それはあくまで噂の範疇を出なかったが。
「ふん……街は駄目だな、皆して俺を避けやがる。機嫌直しに、少し風でも浴びに行くか……」
 自業自得、という言葉は彼の辞書には無いようだ。自分の行いが自分の首を絞めている事に気付かない……いや、自覚できないのだ。尤も、それが出来るぐらいなら、最初から嫌われ者にはなっていないのだろうが。
 そんな彼でも、一応は傷つくのだろうか。先程のやり取りで機嫌を損ない、気分を悪くしていたのだ。そんな時、彼は決まって、ある場所に行く。手には一本の小瓶。中身はスコッチウィスキーだ。これを喉に流し込みながら、街外れにある小高い丘の上で昼寝をするのだ。すると、酔いが醒めて目覚める頃には、不機嫌の元は忘却の彼方。これを繰り返す事で、彼は『反省』という行動から無縁になっていくのだった。
「いい風だ。見慣れた街の景色も、酒の肴にするには悪くねぇな」
 少し酔いが回り、いい気分になって来た頃合。このタイミングが、彼の最も機嫌の良い時である……しかし反面、彼が一番ワガママを爆発させるのもまた、このタイミングなのであった。が、幸か不幸か、このタイミングで彼に接した者は皆無であった為、彼自身もその事を自覚してはいなかったのだ。
「……ん?」
 ふと空を見上げると、フワフワと宙を漂っている女が居るではないか。年の頃は16〜7と言ったところか、好色の彼から見れば少し青い感じではあるが、悪くは無い。
「どうして女が空から降って来るのかは分からねぇが……コイツを拾わねぇ手はねぇよな……」
 酔いの回った頭の中で、思考回路など働くはずは無い。どうして人が空から降って来るのか、そんな事はどうでも良かった。とにかく、目の前に降りてくる『好物』に向かって、彼はまっしぐらに手を伸ばした。
「……えっ!?」
 驚いたのは彼女である。幾らモチベーションが最低で、もはや消えてしまいたいとまで思っていても、いきなり誰かに抱き止められて、驚かない訳は無い。
「へぇー、顔も可愛いじゃないか。こりゃあ今日はついてるぞ!」
「え……えぇ!?  な、何なの!?  何が起こったの!?」
「何が起こったも無いもんだ、風で飛ばされたシャツのように、お前が降ってきたから……俺はそれを拾ってやったんだ」
「飛ばされたんじゃない、飛んでいたのだ! はっ、離しなさい!」
 突然の出来事に驚いた彼女であったが、目の前で酒臭い息を吐く見知らぬ男を見て、本能的に身の危険を感じたのだろう。即座に臨戦態勢を整え、抵抗を試みる。が……
「……そんな格好で幾ら睨んでも、ちっとも怖くないんだけど?」
「あうぅ……」
 そう、彼女はバッカスの腕の中にスッポリと納まり、しっかりと抱き止められている格好になっていたのだ。この格好では、幾ら牙を剥いた所で、怖くもなんとも無いのは当たり前であろう。増して、彼女は小さな女の子にすら負けてしまうほどの脆弱。大人の男であるバッカスに、敵う訳は無い。
「ふーん……ちょっと青いが、抱き心地は悪くない。気に入ったぜ、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんではない! 我が名はマグ! こう見えてもヴァンパイアだ、無礼は許さぬ!!」
「はい? ヴァンパイアって、あの……夜中にコウモリが変身する、アレか?」
「うっ……わ、我は……彼らのような高級種族ではないが……」
 彼女の虚勢は長くは続かず、既に弱腰になっている。反対に、バッカスの方はどんどん勢いがついて、もはやかなりの上機嫌。こうなると、酔っ払いというものは最早、手が付けられない生き物になっている事が多いのだ。が、マグとて黙っている訳にはいかない。相手は今、酒に酔った状態……それを逆手に取れば、契りを交わしてサッサとそれを破棄、実績だけを手に入れて故郷に帰る事も可能なのではないか……? と考えたのである。
「とっ、とにかく! お前は我と契りを交わし、我に従うのだ!」
「ん〜……? その、契りって……どうやるんだ?」
「簡単な事だ……我がお前の首を、軽く吸えば良いのだ」
「あっそ。こうかい?」
「なっ、違……それ逆! 私がアンタを……嫌あぁぁぁぁ!!」
 その叫びは、虚しく虚空に消えた。だが、しっかりと契りは交わされてしまった……主従関係が逆になっては居たが。つまり今、マグがバッカスの首筋に吸い付けば成功だったのだが、逆にバッカスがマグにキスをしてしまったのである。
「ん〜、美味しいねぇ……若い女の子は肌がスベスベで、良い匂いだ……こりゃあ……たまんねぇや……」
 既に酔いが回っていたバッカスは、そのままマグを抱き枕代わりにして眠ってしまった。マグの身体から発する甘い香りが、更なる安眠効果を与えたのだろうか。彼はマグを抱き締めて、ものの数秒で眠ってしまったのだ。
「うう……お酒臭いよぉ、恥ずかしいよぉ……離してよぅ……」
 しかし、その身体をガッチリとホールドされてしまったマグは、バッカスが目覚めるまで身動き一つ取れずに、ジッとしているしかなかった。尤も、事故とはいえ契りを……しかも主従関係が逆になった状態で結んでしまった為、この場を逃げたくても、逃げる事は出来ないのだが。

(後略)
 
 
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