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クリエイター名 |
雨宮 |
言葉の魔法
ひぐらしが鳴く夏の夕方。夕方だろうと夏の暑さが容赦なく街を包み込む。 キーンコーンカーンコーン。 県内の高校では珍しい六階建ての学校からチャイムが鳴り響く。しかし今は夏休みのため生徒は誰もいない。一人を除いてだが。 その生徒、纏井 紡(まとい つむぎ)は屋上にいた。老朽化したフェンスに囲まれた屋上は生活音から隔離された平静な世界といえる。端の木陰で読んでいた小説を胸の上に置き、ただぼーっと空を眺めている。何を考えるわけでもなく何を思うわけでもなくただ眺めているだけ。たが、その静かな時間にもいずれ邪魔が入る。 キィという音と共に屋上の扉が開き、白いシャツに赤いスカートの少女が姿を現した。少女はそのまま高さ三メートルほどのフェンスに歩み寄り、下を見つめる。 数分が経つ。 そして、三度深呼吸をしたのちフェンスに足をかけ、よじ登ろうとする。 「死ぬの?」 纏井が少女に声をかけるとびくっと肩を震わした。誰もいないはずの屋上で声がしたのだ。誰だって驚く。 「だ、誰……?」 少女が怯えながら周りを見渡す。 「誰って聞かれると答え辛いな。貴重な青春時代を無駄に過ごすダメ人間って言っとく」 纏井は胸に乗せていた本を顔に被せ視界を閉ざす。少女は声の主が動いたことで位置が確認できたらしく視線を纏井に定めた。 「…………」 少女は纏井をじっと見つめたまま動かない。 「死ぬんじゃないの?心配しなくても止めないからそのまま続けていいよ」 まともな人間ならばすることのない発言をあっさりと口にする。大低、自殺者を目の前にしたら無理矢理止めに入るか、係わり合わないよう無視するか、何らかの感情を抱き傍観するかのいずれかが多いだろう。だが、纏井は止めるでもなく無視するでもなく傍観するでもなく促すことを選ぶ。 「わ、私は……」 少女が後ずさり、フェンスに背中が当たる。 「死ぬ気がないのなら早く出ていってくれない? うっとうしいことこの上ない」 少女は纏井に反論しようと口を開きかけるが、言葉が出てこないのかすぐに口を閉じる。 そして、力無くズルズルと背中をフェンスに擦りつけ地面に座り込む。 「どうしてこうなっちゃったんだろう……。少し前までは皆とも仲良しだったのに……」 誰に話すわけでもなく震える声で呟く。 「『死』は、常に生き物と隣り合わせに存在する。今ここで君が飛び降りても『死』という概念が君と重なり合ったってだけのこと。不自然でもなければ不条理でもない。自然の摂理だよ」 纏井は顔から本をどかすと寝転んだまま顔だけを少女に向ける。少女の向こうに沈みかけている綺麗な夕日が見えた。 「『死』の概念に触れてこの世から逃げる。それは世界中で起こる有り触れたこと。恥じるべき事ではないよ」 纏井の言葉に諭されるように少女は手を強く握ると、フェンスにもたれながら立ち上がる。パキン。金属が折れた音がした。 「え……」 刹那―――加えられた力に耐え切れずフェンスのボルトが折れ、きぃっと音を立てながらフェンスが倒れた。それに伴い、支えを失った少女の体が屋上から投げ出される。 「…………」 纏井は無言でゆっくり立ち上がり、感情のカケラも見せずフェンスが倒れた場所へ近づく。すると「う……、うぅ……」とすぐ下から声が聞こえた。覗き込むと少女が辛うじて繋がっているフェンスに必死に両手でしがみついている光景が目に入った。纏井は心底呆れた表情で手を差し延べることなく、見下すに近い眼差しで見つめる。 「そのまま手を離せば願いは叶うよ。君が望むなら手伝ってもいいけど?」 あろうことか今にも完全に折れそうなフェンスに足を乗せる。 「う……、あ……、やめ……、た、助けて……、死にたくな……、死にたくないよぉ……」 少女は涙で顔をくしゃくしゃにしながら助けを求める。 「これだから思春期の学生は……。原因は知らないけど一回死ぬ気で来たんだろ? たまたま屋上に人がいて本音の一部を話したくらいで気持ちを揺るがすなよ。本当ならもう死んでるんだからさ」 話している間も少女の握力は無くなっていき、汗で手が滑りだす。 限界が訪れた。少女の両手がフェンスから滑り落ちる。 「……ちっ」 纏井は咄嗟に身を乗り出し少女の片腕を掴む。宙吊りになりながらも必死に纏井の腕にしがみつく少女からははっきりと生に対しての執念が見られた。 汗で滑らないようゆっくり少女を引き上げる。 「はい、タイムオーバー」 完全に引き上げるのと同時に扉が勢いよく開く。 「お前たちここで何をしている!」 教師が二人、焦った様子で屋上に足を踏み入れる。しかし、タイミングがいい。よすぎるといってもいい。フェンスが外れかけた音を聞きつけて来たわけでもなさそうだ。 「はいはい、後よろしくお願いします」 纏井は少女を教師に引き渡す。 最初に叫んだ教師がもう一度二人に問いただそうと口を開きかけるが、もう一人の教師に制止される。 「纏井、ごくろうだったな。今回は少し遣り過ぎだった気もするが。まあいいだろう、また頼むぞ」 「はいはい。屋上の鍵の保有が継続できるのなら頑張りますよ」 いつの間にか手に持っていた携帯を目線の高さまで持ち上げる。 教師二人は少女を連れて屋上を出ようとする。 そこで纏井が出て行く少女に向かって最後の言葉を口にする。 「言葉ってのは人間が唯一使える魔法なんだ。言葉一つで人間関係の形成、崩壊、自己や他人への暗示、究極、人の命さえも救える。君は今の段階ではもう死ぬ気はないだろう? そういうことだよ。友達との間が壊れてもまた再構築することはできるし、他の縁を作ることはできる。要は自分次第だよ」 言い終わる頃には少女の姿が見えなくなっていた。だが、言い終える直前少女は纏井を一瞥し、微かに唇を動かした。だが、本当に微かだったため何を伝えたかったかは分からなかった。 再び屋上に平穏が戻った。 纏井はため息をつくと最初にいた場所へと移動し、同じように寝転がる。どれくらい時間がたったのだろう。日がほとんど消えかけて、空にはすでに星が見え始めていた。 ポツリと纏井が呟く。 「『死』の概念からの脱出……。人は皆『死』に囚われている。だから人の命は尊い。だから人間は生きている限り精一杯生きなければならない。ここでいくら自殺願望者の命を救ったところで自分自身に付き纏う『死』からは逃げられないか……。あーあ、せっかく静かになったってのに考え事ばっかりじゃここに居続ける意味が無いな……。仕方ない、帰ろ」 纏井は体を起こすとポケットから『持ち出し厳禁』と書かれた札が付いている鍵を取り出し、屋上を後にした。
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