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クリエイター名 |
佐野麻雪 |
メチレン
メチレン
子供のときのことを訊かれるのは苦手だ。 真実を話しているのに、冗談だと思われるから。 (それならまだマシかもね) 中にはこんな助言をしてくる人までいるのだから。 「トラウマってやつで記憶が書き換えられているんじゃないの? 専門家に会うべきだよ」 (書き換え? よりによって、こんな突拍子のない事情に?) ――私の記憶は正しい。父には顔がなかった。顔のあるべきところには、スカイブルーの水が、温そうに揺らいでいたのだ。
私が五才のとき、飼っていた金魚が死んだ。 その翌日に父は失踪した。
――父のことは思い出すまいとして生きてきた。 にもかかわらず、父の面影はいつも私の心の底で暮らし、息をし、その呼吸の循環を私の喉元で行い続けた。だから私は周囲に変な顔をされようとも、訊かれればありのままのことを話していた。声に出さずにはいられなかったから。 「お父さんの顔はないの。あるのは水だけ。いつもさざなみを立てていたんだよ。そこに映し出される景色が好きだった」
そんな生き方をしてきたのだから、夫と出会ったのは必然に近いだろう。
あれは私の誕生日だった。時間は夕方だったと思う。 私は仏頂面を装いながら、小さなお店でホールケーキを買った。 (十九歳にもなって、誕生日ケーキだなんて) いらないと言ったのに、母は頑固なんだから。 しかしまんざらでもない気持ちで店から出ると――突然喉が焼けるのを感じた。私は息をするのを忘れるほど驚いて、あやうくケーキを落とすところだった。 (いつもの“循環”にしては強すぎる) まるで喉に炎を灯したようで、鋭い痛みを感じる。 今までこんなことはなかった。 (お父さんが何かを伝えようとしている?) あたりを見渡したところで――私は息を飲んだ。
視界に入ったのは若い男性だ。小柄な私では見上げなければならない程、背が高い。父とは正反対だ。 しかし顔のあるべきところには水が波紋を作り出し、中心には私と、後ろの街路樹が歪んで映し出されている。その柔らかな線の下には細い喉仏が突き出ていた。 (お父さんに似ている) ――喉の熱さに強弱の波が起こっていた。まるで父が頷きでもするように。 (この人なのね? お父さん) 気付くと私は彼に声をかけていて、そんな自分に戸惑いながら話をしていた。 「あなたによく似た人を知っているんです。嘘だと思われるかもしれませんが、本当なんです。……失礼ですが、それで少しお話がしたくて」 ――彼は怒りもしなかったし、誤解による下卑た表情も浮かべなかった。 ただ彼は“特定の組み合わせの言葉”を機械のように喋るだけで――それは私を安心させるリズムを持っていた。父も寡黙な人だった。
しかし私が彼との結婚を決めたのは、そんな些細な理由からではない。もっと大きな、ある超越した存在をその中に認めたからだ。 彼に抱き寄せられて“水”が瞳一杯に広がるとき――私は温んだ中でその生き物を見つける。 赤と白の更紗模様。目の上には赤い線が心地よく引かれている。薄い尾ビレは身体を包み込むように舞い、ハネ物ながら優しげな雰囲気をもたらしていた。
私が飼っていた金魚だ。
一月の早朝、寒さでじっとしている金魚を可哀想に思い、お湯を注いで死なせてしまった。私は泣きじゃくり、今度は本当に動かなくなってしまったペットを庭に埋めた。私を慰めてくれた父も、翌日に目を覚ますといなくなっていた。 (わたしのせいだ) (ばかなことをしたから、金魚はしんだんだ) (金魚をころしてしまったから、おとうさんがいなくなった) 考えすぎだと母に言われた。気にしないでいいと叔母夫婦に言われた。被害妄想ではないかと影で言う人もいた。 だが私のせいなのだと、今も思っている。直感的確信を持って。
その金魚が――私をずっと観察している。 生きていた頃のようなエサをねだる仕草はせずに、こちらを凝視し、感情を思い出ごとさらっていく。 失わせた命が燃え出していた。
私の意識下で、金魚は泳ぎ始める。
粘っこい風が私を撫ぜた。風の先頭では、尾ビレが私を誘っているのだ。 (過去へ、過去へと) 緩慢な呼吸がエラを通して伝わってくる。 ――やがて私の手の甲は一枚の鱗に触れた。 薄い粘膜を指で取り去る。乾いた鱗はザクロのようにどす紅く見え、私がつけた傷のようにも思えた。 (なぜあなたは戻ってきたの?) 理屈は私をいだきはしない。感覚のみが入ってくる。ゴム鞠のような弾力が生々しく私を押し返す。心という水は温んでいくばかり――私は静かに蝕まれていくのだ。
独り言のような私の問いにも、彼は動じずに答えてくれる。
「私に会うために戻ってきたの?」 「ああ、そうだよ」 「私のことが好きだから?」 「ああ、そうだよ」
――夜毎金魚は泳ぐ。 私の中で、悠々と。 父の幻影が、炎が、喉の奥で揺れている。 温んだ水は熱するのも早い。 (頭が真っ白になりそう)
「……また死んじゃうよ」 「ああ、そうだよ」
――それはひとつの奇妙な感覚。 私の中に金魚が泳ぎ、その金魚の中にも“わたし”が浮かんでいる。“わたし”は幼い指と深爪した小さな爪を持っていて、外にいる“私”の鼓動を数えている。まるで羊を数えるように、深く目を閉じて。 (……いち、に、さん、し……) (はやい、かぞえられない) (ご、ろく、しち、はち……) (はちは どう かくんだっけ) (……まる。まるを たてに ふたつ) 来週に控えた二十二の誕生日は、永遠に来ない気がする。 小さな“わたし”と大きな“私”は、水に放られた氷のように、金魚の粘膜へじんわりと溶け出していきそうで――。
「私のことが憎い?」 「ああ、そうだよ」
機械的な口調が私を肉体に留まらせる。 ――彼はそれしか喋れなかった。
終。
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