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クリエイター名 |
方佐摩華闇 |
サンプル
桃子ちゃん
桃子ちゃん。 わたしは自分の妻のことをいつもこう呼んでいる。 自分で言うのも何だが、桃子ちゃんはとてもかわいくてセクシーだ。 芸能人に例えるなら、若い頃のダブ夫人にそっくりなシャイなガールで、はにかんだときにできる右頬のえくぼがたまらなく愛しい。 あまりに愛しいので、わたしはときどき桃子ちゃんの体をぎゅっと抱きしめてしまう。 今日もわたしは会社から帰って、玄関まで出迎えてくれたエプロン姿の桃子ちゃんに力強い愛の包容を施した。 「ただいま、桃子ちゃん」 「………………」 彼女は無言だった。 いつもなら「おかえりなさい、ダーリン」と可愛らしく微笑んで、わたしの頬に熱い接吻をくれるはずなのに、今日の彼女はなぜか消極的だった。 奇妙な違和感を感じて、わたしは桃子ちゃんの体をそっと引きはなした。 「あっ!」 わたしは叫んだ。 叫ばずにはいられなかった。 彼女の体が奇妙な方向に曲がっているのである。 上半身が腰のあたりから斜め後ろの方向に、かすかにだが歪んで見える。 よく見ると、桃子ちゃんは白目をむいて泡を吐いていた。 わたしは嫌な予感につき動かされ、彼女の首筋にそっと指を当てた。 「………………」 脈はなかった。 息もしていない。 どうやら死んでいるらしい。 わたしは慌てた。考えたくはないが、彼女が死んだのはおそらくわたしのせいだろう。 彼女を抱きしめたとき、ちょっと力を込めすぎてしまった。 わたしはどうすればいいのかわからなかった。 なにせ今までこんな経験はしたことがない。 どうすれば……。 そのとき突然、玄関口からインターフォンのベルが鳴り響いてきた。 ピンポーン。 「はーい!」 ……あっ!、と口を押さえたのはその直後である。 つい声が出てしまった。 わたしは慌てて玄関のマジックミラーを覗き込んだ。 「おーい、青島ぁ。いるんだろー?」 外にいるのは会社の同僚の鈴村だった。 会社の帰りか、スーツを着たまま右手には酒瓶をぶら下げている。 まずい、この状態は非常にまずいぞ……。 わたしは急いで桃子ちゃんの遺体を奥の間の押入れに運び込み、そしてすぐさま玄関に戻った。 本当は居留守を使ってやりたかったが、声を聞かれたのでそうもいかない。 「どうしたんだ、こんな夜遅く?」 わたしはできるだけ平静を装って玄関のドアを小さく開けた。 「いま疲れてるんだ。用なら明日にしてくれないか?」 わたしは速攻で鈴村を追い返そうとさも迷惑そうな顔を作ってみせたが、彼は右手の酒瓶を掲げてみせて、ずかずかと強引に家の中に入ってきた。 「そんなこと言うなよ。せっかく上等なワインを持ってきてやったんだぜ?」 なんて強引なやつだ! ……わたしは内心でののしりながら、必死になって鈴村を引き留めた。 「や、やめてくれ、鈴村。今日は本当に調子が悪いんだ。酒なら明日飲もう、な?」 「そりゃないだろう、青島、約束だったじゃないか」 そう言えば……とわたしは思い出した。 いつだったか、わたしは鈴村と酒を飲む約束をしていたのだ。 その日が今日だったことをすっかり忘れていた。 仕事が終わってわたしはさっさと家に帰ってしまったが、鈴村はそのことを覚えていて、残業のあとわざわざわたしの家まで押しかけてきたのだ。 よりによってこんな時に……。 「俺は今日という日を楽しみにしてたんだ。……グラス借りるぜ?」 鈴村は勝手に棚のワイングラスを取って酒を注ぎはじめた。 仕方なくわたしもグラスを取り、キッチンのテーブルに座る。 「いやあ、仕事の後の酒は格別だな、青島よ」 「あ、ああ」 適当に相づちをうちながら、わたしは内心では奥の間の桃子ちゃんのことが気になって、気が気ではいられなかった。 もし彼女のことが鈴村にばれたら、わたしは一生塀の中で臭いメシを食うハメになってしまう。 なんとしてもそれだけは避けねばならない。 しばらくして鈴村は、キッチンに置いてあったテレビをつけ、酒を飲みながらくだらないバラエティー番組を見始めた。 あつかましいことに、どうやら鈴村はここに長居するつもりでいるらしかった。 わたしは酒を飲むペースを上げた。 一刻も早くボトルの酒を空にして、彼を家から追い出さねばならない。 さらにしばらくして、鈴村が酒瓶を持ち上げてカラカラと振って見せた。 「なんだ、もうボトルが空だよ。青島、新しい酒はないのか?」 「そんなものはない!」 わたしは即座に答えた。 本当は奥の間に秘蔵のワインが一瓶置いてあったが、それをくれてやるほどわたしは馬鹿ではないし、お人好しでもない。 鈴村は、仕方がない、といった体で椅子から立ち上がった。 「それじゃ仕方がないな。青島、俺はそろそろ失礼するよ」 やった! わたしは安堵のため息をほっと吐き出した。 玄関まで鈴村を送ってやり、二、三言葉を交わしたあと、ようやく彼は家を出て行き……と思ったのだが、 「ちょっとまってくれ」 鈴村は玄関口で急に立ち止まった。 「ちょっと、もよおしてきた。トイレを貸してくれないか?」 わたしは思わずこの男を蹴飛ばしてやりたくなった。 しかしその衝動を必死に押さえつけ、引きつった笑みを顔に張り付かせながら、わたしはトイレの方を指さした。 「あ、ああ、いいぜ。トイレはキッチンの向こうの廊下の奥だ」 鈴村はそそくさとトイレに入っていった。 はやく帰れ、早く帰れ、早く帰れ……。 わたしは切実に祈った。 大便なのだろうか、やけに時間が長く感じられる。 だがようやく鈴村がトイレから出たとき、つけっぱなしだったテレビから、こんな話題が飛び出てきた。 『続いてのゲストはダブ夫人です……』 「そう言えば、おまえの奥さんって、若い頃のダブ夫人に似てたよな」 あろうことか鈴村がその話題に興味を引き、キッチンに戻って再びテレビの前に腰を下ろしてしまった。 わたしは非常にうろたえた。 よりにもよって、この男の口から桃子ちゃんの話題が引っぱり出されてこようとは思ってもみなかったのだ。 「そう言えば、今日は奥さんはいないのか?」 ……ぎくっ! 「も、桃子ちゃんは今日は高校の同窓会に行ってて……」 「そうか」 鈴村はわたしの言葉に素直に頷いた。 どうやら怪しまれずにすんだらしい。 わたしは背中に多量の冷や汗を流しながら、表面では愛想のいい作り笑いを浮かべた。 ようやく鈴村は椅子から立ち上がった。 「それじゃ、奥さんが帰ってきたらよろしく言っておいてくれ」 「もう帰るのか?」 わたしはうれしさを押さえてわざとらしく残念がった。 鈴村は頷いた。 「ああ、明日も早いからな。まったく、年末は会社も忙しくて困る」 なら早く帰れ、と思いつつ、わたしはあくまでも外面は愛想良く振る舞った。 だがそのとき、奥の間の方からなにやら物音が聞こえてきた。 がりっ、がりっ……。 「ん?」 鈴村が不振そうにその場に立ち止まった。 ……わたしは背筋を凍り付かせた。 がりがりがりがり……。 「奥に、誰かいるのか?」 鈴村が奥の間の方に目をやってわたしに尋ねてきた。 わたしはふるえが止まらなかった。 がりがりがりがりがりがり……。 何かを引っ掻くような音がしだいに大きくなり、やがて部屋中に響いてくる……わたしはすぐにピンときた。 まさか……まさか! 桃子ちゃんはまだ生きている! 彼女が意識を取り戻して、押し入れの戸を爪で引っ掻いているのだ! まずい、これは非常にまずいぞ! わたしは自分の不運に絶望を感じた。 もし彼女が生きていたら、わたしの罪がすべて鈴村にばれてしまうではないか。 殺人に死体遺棄といえば重罪だ。 無期懲役、いや下手をすると死刑になってしまうかもしれない。 そうなったらわたしは、一生臭いメシを食う羽目になってしまう。 がりがりがりがりがりがりがりがりがり……。 鈴村はすっかり音の方に興味を引かれたようだった。 立ち止まったまま、じっと奥の間の方に目をやっている。 「青島、奥の間に……?」 「そう言えば鈴村、そろそろ年賀状の季節だな」 わたしはなんとか鈴村の興味を逸らさなくてはと思い、適当な話題を持ちかけた。 「年賀状といえば新年だ。来年はどんな年になるんだろうな」 「さ、さあな。それより青島、奥の間に……」 「実は鈴村、おれ最近思うことがあるんだ! 地球に優しいエコロジーってなんだろう……」 「青島!」 さすがに怪しく思ったのか、鈴村はわたしの必死の誤魔化しを遮って、疑わしげな目つきでこちらを見つめた。 「……青島、おまえ何か俺に隠してないか?」 「い、いや別に……」 「奥の間に、誰かいるんじゃないのか?」 鈴村はわたしの肩越しから再び奥の間の方に目をやった。 わたしは必死に彼の視線を遮った。 「だ、誰もいないよ!」 「本当か?」 鈴村は完全にわたしを疑っていた。 目を見ればわかる。 いつもは友達面をしているくせに、こういうときは掌を返したように冷酷な目つきでわたしを見つめるのだ。 もうこれ以上は誤魔化しきれない……! わたしはついに決心した。 「……ちょっと、そこで待っててくれ」 わたしは立ち上がり、奥の間に入ってぴしゃりと戸を閉めた。 これでキッチンからはこちら側が見えなくなる。 ふるえる手で、わたしはタンスの上に置いてあったごついワインボトルをつかんだ。 がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり……。 無機質で不気味な音が押し入れの中から沸いてくる。 胸の悪くなる気分だった。 わたしは押し入れに手をかけ、ゆっくりと引き戸を開いた。 はたしてそこには、桃子ちゃんが恨めしそうな顔でこちらを見上げていた。 きれいな黒髪が幾重にも顔に張り付き、あのかわいかった彼女の面影はもはやどこにもない。 彼女の口を封じよう……。 わたしの頭はもはや正気を失っていた。 手に力を込め、愛しい桃子ちゃんの頭に思いっきりボトルの角をぶつける。 ごつっ。 鈍い音が押し入れの中に響いた。 桃子ちゃんはぐったりと床に倒れ、手足をぴくぴくと痙攣させた。 わたしは念のためにもう二、三度桃子ちゃんの頭にボトルをぶつけた。 すると今度は完全に彼女の体は動かなくなった。 わたしはさらに彼女の頭を殴りつけた。 もう二度と起きあがって押し入れの戸を爪で引っ掻いたりしないように何度も何度もボトルを彼女の頭に振り下ろす。 ごつっごつっごつっごつ……。 「はあ、はあ、はあ……」 桃子ちゃんは頭からどす黒い血をぼたぼたと流しながら、ぴくりとも動かなくなった。 もう大丈夫だろう。 わたしは肩で息をしながら、安堵のため息をもらした。 これで鈴村に怪しまれずにすむ。 わたしは思わず口元に笑みを浮かべた。 安心感と脱力感が同時に心を満たしていく。 何やら重大な間違いを犯してしまったような気がしてならなかったが、わたしはとりあえず押し入れの戸を閉めて、さっさとキッチンへ戻ろうとした。 だがそのとき、 「青島……おまえ、なにやってんだ!?」 後ろを振り向くと、鈴村がキッチンの戸を開いて驚愕の表情でこちらを見つめていた 「青島! その押し入れの中には、いったいだれがいたんだ!?」 鈴村の形相はすさまじかった。 まるでわたしを、殺人鬼でも見るような目つきで睨み付けてくるのだ。 わたしはがっくりと膝を落とした。 よく見ると、わたしの手には血に塗れたワインボトルが握られていた。 もはや言い逃れはできない。 わたしは観念して、今度は鈴村に向かってワインボトルを振りかざしていた。
了
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