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クリエイター名 |
真野かおる |
サンプル
チリン………と、澄んだ鈴の音が小さく聞こえてきた事に、とよは首を傾げて後を振り返った。 歩いて来た小径は、鬱蒼と茂る木々が黄昏の薄闇を一層濃くして、手に持つ提灯の灯りも頼りなく思えるほどだった。 肩を震わせて、抱える風呂敷包みを持つ手に思わず力が入る。あの茂みの向こうの、濃い闇から怖いものが飛び出してきそうな、そんな錯覚さえ覚えた。 誰か、木陰にでも隠れて脅かしているのではないかと、じっと闇に目を凝らすが、猫一匹茂みから飛び出して来る気配もなければ、小動物が動いている様子もない。 とよは、小さな唇を何かを堪えるようにして噛みしめると、止めてしまっていた足を再び動かした。 向かう先は、奉公先の屋敷である。大店の隠居が暮らす別宅に少女は奉公していた。大奥御用達の看板を掲げる小間物問屋大坂屋五郎左右衛門と言えば、江戸の商人達の間でも有名であった。商売上手の上に、公儀重役達らとそつなく付き合い、店を大きくした。その五郎左右衛門も、一度病に倒れてからは、店を息子に譲って、堀川の別宅に移り住んでいた。 とよが大坂屋に奉公に入ったのは、春先の事である。十二才のとよは、最初は大坂屋の台所で下働きをしていたが、近頃になって隠居した五郎左右衛門の別宅に移った。 別宅には、辰吉という中年男と、お染という名の夫婦者が、五郎左右衛門の身の回りの世話をしていた。 とよは、お染に付いて、台所仕事や使い走りをするのが主な仕事で、その他の事と言えば五郎左右衛門の側についている。 巷の評判では、とにかく怖い人だと聞いていたが、とよの前では、五郎左右衛門は穏やかな人柄を感じさせる好々爺だった。 数日に一度は、読み書きなどを教えてくれもする。 とよは、五郎左右衛門が好きだった。躾には厳しいが、優しい。村では、親兄弟にあまり優しくされていなかったので、五郎左右衛門の優しさが身に浸みた。 大旦那様の為なら、どんな事だってしよう。とよは本気でそう思うほどに、五郎左右衛門が好きだった。慕っているとも言って良い。 砂利を踏みしめる音を小さく響かせながら、とよは小走りに屋敷への小径を急いだ。 後から怖いものが追いかけてきているような、そんな気がする。使いに出て、この刻限に外を歩くのは珍しい事ではないが、先程の鈴の音が、今日は格別にとよを怖がらせていた。 息を切らして、小径を抜ける。 目の前に、屋敷の門が小さく見えると、とよは安堵の吐息を零した。 肩で息をしながら、とよは後を振り返った。通ってきた小径がすっかり昏くなっており、よくもこの小径を抜けてこれたものだと我ながら感心もした。 「おや、お前はそんなに怖かったのかえ?」 チリンと、今度は確かな音と一緒に、艶やかな男の声がとよにかけられた。 いきなり声をかけられたのと、何時の間に人がという驚きに、とよは提灯を落とした。 落ちた提灯は形を崩して、燃え上がる。紙の焼ける匂いが足下から立ちこめて、昇る煙と一緒に恐る恐ると顔を上げて見れば、何時の間に立っていたのか、珍しい着物を着た若い男の顔で視線が止まった。 「まぁ、主様。娘をすっかり驚かせてしまったようです」 「ほんに、可哀相に。かように怯えているではありませぬか」 男の後から、赤い光を発している提灯のようなものを持った、童女が二人現れて言う。 二人とも、とよと年が変わらないような背格好だったが、赤く引いた口紅や、鮮やかな花柄模様の振り袖を着て大層美しい。薄明かりの中で目を凝らして見れば、二人ともうり二つの容貌である。着ている振り袖の模様が同じであれば、きっと見分けが付かないだろう。 「浅緋、深緋。お前達は下がっておいで」 男が言うと、童女達はつまらなさそうに赤い唇を尖らせる。 「ま、主様」 「つれない事をおっしゃいますこと。妾達も、とよ殿と遊びとうございます」 「焦るでないよ。灯りだけ掲げておいで」 男が言えば、童女達は手に持つ灯りを高く上げた。それで、その灯りが酸漿だというのがとよには判った。とは言え、今はほおづきの季節ではない。 朱色の灯りの中に、小さな黒い影が飛び回るのが見える。 「この灯りが珍しいようだねぇ。ご覧の通り、ほおづきの中に虫を入れている」 「…………はぁ……」 とよは惚けたように、灯りを見てから、再び男に目をあてた。 綺麗な人だと、とよは思った。 「あの、大旦那様のお客様でございますか?」 おずおずと問えば、男はふわりと微笑を浮かべた。朱色の灯りを受けて、その容貌は、未だ幼いとよでも心奪われるほどに美しかった。 「座真……ではなかったな、あれの名前は名前は何と言ったか?」 「五郎左右衛門でございまし、主様」 「そうそう、五郎左右衛門」 男は微笑いまじりに頷く。 不思議なお人達だと、とよは思う。主を呼び捨てにするのも不思議だし、うり二つの童女達も何やら不思議な気がする。立烏帽子や侍烏帽子はつけていないものの古来の直垂姿である若い男。その装いが、直垂だという事にとよが判るはずもない。お侍様の裃姿とは様子がかなり違うので、変わった着物を着ているという認識しか出来ない。 ゆったりと背に流している黒髪も艶やかで、つぶらな黒い瞳に男を映して、とよは胸が高鳴るのを覚えた。 「五郎左右衛門には、もう会ってきたゆえ、これから帰るところだが、途中でお前を見つけたので、声をかけてみただけのこと」 「そうでございますか……」 男は、とよの顔をじっと見つめたまま、手を伸ばしてきて、とよの小さな顎の下に指を添えた。 「うむ。良い器じゃ」 「え?」 「あれに任せてどうなるかと思っていたが、なかなかに良い。純真で素直だ」 「あのぉ………?」 男が何を言っているか意味が判らないので、困ったように小首を傾げる。灯りを掲げている童女達が声を立てて笑い出した。 「主様、とよ殿が困惑しておられまする」 「おからかいあそばすのはおやめなさいまし」 「さようですとも。あと少しもすれば、好きなだけ……」 「そうそう、あと少しのご辛抱」 くすくすと笑いまじりに童女達が言うと、男は微かに眉間を寄せる。 「やれやれ、お前達に窘めらるとは。まぁ、良い。焦らずとも、あと少しの事だ」 そう言うと、男は名残惜しげに、とよから手を離した。 「さて、あまり長く留守にすれば、加賀夜が煩い故」 「主様が怖いのは」 「御前様の悋気」 「浅緋に深緋、余計な事を言うでない。さて、娘───」 男は胸紐の先につけてある、小さな鈴を解き取ると、それをとよの手に乗せた。 「持っておいで。この鈴の音が曇る事のないよう、純真で素直で待っているが良いぞ」 手の平に乗せられた小さな銀の鈴に、訳が判らないなりにも、 「あ、ありがとうございます」 と、礼を言う。 男は先程の、それは秀麗な笑みを浮かべると、とよに背を向けて、すっかり闇の中に溶け込んだ小径へと向かっていく。 童女達が小走りに、男の後を追いかけて、ほおずきの灯りを左右に揺らす。 奇妙な三人の姿は、闇の中へ消えていき、ゆっくりと小さくなっていく朱い灯りが二つ見えるだけとなったが、その光もすぐに見えなくなってしまった。 暫く呆然と、三人が消えてしまった一点を見つめていたが、とよは夢から覚めたように目をしばたかせると、風呂敷包みを両手で抱きしめて、屋敷の向かって走り出した。 手の平の中の鈴が、コロコロと鳴っているのが、今の事は夢ではなかったと教えたが、それにしても何と奇妙な人達だっただろうと、今更ながらに身が震えてくる。 「お染さんっ」 勝手口から台所へとまろぶように駆け込み、お染の名を呼ぶ。 この刻限なら台所に立っているはずの、お染の姿は無く、息を弾ませながら、とよは土間やその奥へと目を向ける。 使いを済ませて帰って来た事を報せないといけない事もあり、とよは五郎左右衛門の部屋へ向かった。 本当は走って行きたいのだが、それをすると五郎左右衛門に行儀が悪いと叱られるのは判っているので、静かに廊下を歩いて行く。 奥の、五郎左右衛門の部屋には灯りが煌々とついている。行燈の明るい光に、とよの気持ちも落ち着いたが、その目に障子に揺らめくように移った異様な影を見ると、 「わぁぁぁっ」 と、悲鳴を上げたのだった。 板敷きの上に尻餅を付く大きな音と、恐怖に引きつった顔と、何を言っているのか判らない呻き声がとよの口から漏れる。 さらりと音もなく障子が開けられて顔を出したのは、台所にはいなかったお染である。 「まぁ、なんだい。おとよの行儀の悪いこと」 廊下に尻餅をついているとよの姿に眉間を寄せた。 「お、お染さんっ」 「あんまり帰りが遅いもんだから、迎えに出ようかと思ってたところだよ。旦那様に心配かけちゃいけないだろう。さっさとご挨拶をおし」 とよの側まで寄って来ると、尻餅をついて動けないでいるとよの腕を引っ張って、立ち上がらせた。 その拍子に、とよの手から小さな鈴が転がり落ちた。それを目で追いかけて、お染は鈴を拾い上げた。 「おや、春瀬様にお会いになったのかい?」 「しゅ……んらい様?」 「通り名で春瀬様とおっしゃる。そうかい、それで遅くなったのだね」 お染は、表情を柔らかくすると、鈴をとよの手に戻した。 もっと叱られるかと思ったが、お染はこれ以上叱る様子でもない。 「とにかく、旦那様にご挨拶をしておいで」 「あの、お染さん。今、長いお髭のある蛇みたいな大きな影が障子に映ったんですっ。旦那様のお部屋に蛇とかいるんじゃっ」 お染の袂をキュっと掴んで必死の様子で言うとよに、お染は驚いたように目を見開いたが、すぐに大声で笑い出した。 「あははは、馬鹿な事を言うもんでないよ。そんな大きな蛇がいたら、すぐに判るってものさ。寝ぼけてたんじゃないのかい?」 「寝ぼけてなんかいませんって」 「良いから、ご挨拶しておいで。お腹空いているだろう? あたし達も夕餉にしよう」 笑いまじりに言うと、お染はとよの背中を軽く叩いて、台所の方へと歩き去って行く。 心細い思いをしながら、お染の背中を見送り、そろりとした足取りで、主人の部屋の前へ行く。 「大旦那様、とよです。ただいま帰りました」 控えめに障子の前に座して挨拶をすると、部屋の中から穏やかな老人の声が返って来る。 「おかえり。帰りが遅いものだから、辰吉に迎えに出させようかと言ってたところだよ」 「申し訳ありません。表で、お客様にお会いしまして」 「どうやらそうらしいねぇ。おとよ、良いからお入り」 言われて、とよは障子の外から畳の上へ上がった。五郎左右衛門は、茶碗を膳の上に置くと、穏やかな目でとよを見る。 「春瀬様は何かおっしゃってたかい?」 そう問われて、とよは貰った小さな鈴を五郎左右衛門に見せた。 「これを頂きました。素直でいろとも言われました」 表であったことを、とよは隠さずに五郎左右衛門に話すと、最後に、 「何とも不思議なお人達でございます」 と、小首を傾げてくくったのだった。 「おやおや。まぁ、それはさておいてだね、さっきもお染と話していたのだけれど、来月からお前に琴など習わせようと思っている。良い先生を見つけてあげるから、せいぜい励むんだよ」 五郎左右衛門の言葉に、とよは驚いたように目を丸くした。 「読み書きを教えて頂いてるだけでも充分ですのに、琴なんて勿体ないです。あたし、そんな器用でもありませんし」 「器用かどうかは習ってみないと判らないだろう? お客様の前で爪弾いてもらえれば、良い接待にもなるし、春瀬様も喜ばれよう。さ、もう良いからお下がり。お腹が空いているだろうから、ご飯にしておいで」 にっこりと笑んで言う五郎左右衛門に、恐縮しながらとよはぺこりと頭を下げて部屋を後にした。 廊下を歩きながら、とよは鈴を見つめる。 この鈴をくれた人は、もしかしてとても身分の高い方だったのだろうと、漠然とそう思ったのだった。でなければ、五郎左右衛門が敬称で呼ぶこともないだろうし、お染の小言がすぐにおさまったのだろうとも思った。 今度お会いする時は、ちゃんとご挨拶して、今日の不調法を謝らないと駄目だと、とよは切実に思ったのだった。
とよが去った後の五郎左右衛門の部屋に、辰吉が縁側から上がり込む。 「主様は、無事に邸に戻られました」 「そうか。お見送り、ご苦労だったな」 五郎左右衛門の口から出た言葉は、さっきまでの口調とはまるで違う。声音も、見かけの好々爺からはまるで違う、低い声色に変わっていた。 辰吉の声も、とよが聞けば驚くほど、いつもの声色が違う。別人の声だった。 「どうやら、我慢できずにとよ殿を見に来たらしい。せっかちな主様であられる」 「五十年でしたかな」 「たかだか五十年だが、ご寵愛の姫君を早くを手元に戻したいのであろ? 静夜の姫君が器を亡くされて、魂だけとなって冥府の預かりになって五十年。やっと器となる躰が転生したのがつい先頃。主様にしては良くご辛抱された方であろ」 「まったくでございます」 くつくつと笑いながら辰吉が頷く。 「とにもかくにも、とよ殿が十六になるまで、此処でお守りして、躾てさしあげねば。我らが加賀夜様のお叱りを受けてしまう」 五郎左右衛門はそう言って、吐息をついた。その目が、行燈の光を受けて金色に鈍く光ったのを見たのは、幸いなことに辰吉一人だった。
世界なるものが、人の住まう地上だけとは限らず、万物に宿る霊魂、精霊らが住まう世界もまた然り在り。 別世から、人の世に紛れ込む存在もあり。 人はそれらを魔物とも妖怪とも呼ぶ場合もあり。 はたして、とよは何者に魅入られてしまったか。 これより四年先の事になるが、とよの故郷から、二番目の兄が、妹を訪ねて大坂屋の裏口を叩く。 「おとよ?」 相手に出てきた女中は、その名を聞いて首を傾げた。 「へぇ。三年ほど前に妹から手紙を貰いまして、こちらのご隠居された大旦那様の邸でそれは可愛がってもらっていると。親父が病を患って、年内もつかどうかの瀬戸際です。せめて妹に最後の別れなどと思いまして、ご隠居様のお屋敷の場所を教えてくれませんですか?」 見るからに百姓という出で立ちの、小汚い格好をした青年を、中年の女中は訝しそうに見た。上手い事を言って、どうせ大店に奉公している妹に金をせびりに来たのだろうとも思ったが、それは口にはしない。 「おかしな事をお言いだねぇ。確かにお店は、四年か五年前に、今の旦那さんが継いだけれど、大旦那様は隠居なんかしてやしないよ。心の臓を煩っておいででね、とっくにお亡くなりになってるさ。だから、旦那さんがお店を継いだよ」 「それじゃ、おとよは?」 女中の言葉に青年は目を丸くする。 「さぁねぇ。おとよって娘が下働きに上がったのは覚えてるけど、すぐに別の店に移ったんだよ。何処に移ったかは知らないよ。大店だからね、奉公人の出入りも激しくてねぇ。神田屋の番頭訪ねてごらん。うちの奉公人は、皆、あそこの仲介で来るから」 それだけ言うと、女中は裏口の戸をぴしゃりと閉めた。 素っ気ない返答に、青年は暫し呆然と立ち尽くしていたが、忌々しそうに舌打ちをすると、その場を去ったのだった。 この後、神田屋という仲介を訪ねても、とよの兄は、妹の所在を探し当てることは叶わなかったという。
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