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クリエイター名 |
浅葱ひろ |
サンプル
『 鏡月 ―The Another Moon― 』 浅葱ひろ
大丈夫よ、と少女は笑った。強がりで、心配性で。こんな時まで少年を気にかけて。 (ね、大丈夫だから、行って。みんなが待ってる) 弱々しい、けれど強い意思を込めた声が強制力を伴って少年の心にのしかかる。けれど、少年は少女の腕を離すことが出来ない。 (そうだ。みんなが待ってる。僕たち二人を待ってるんだ。だから…一緒に行こう) 湿った土と草の上で少女は少しだけ困った顔をする。二人の服はところどころが破れ、焦げたような跡があった。どす黒い染みは血が滲んだもの。特に、少女の方は…。 夕闇に影を膨らませてゆく森にはなぜか動くものの気配がない。少年はそんなことにも気付かないほど必死に少女の腕を掴んでいる。そして少女は、動物たちがいない理由を知っていた。 少女は焦っていた。半身を木の幹に預けて、自分に仄かな明かりを投げかけてくれる湖面の月を見る。ネコの爪、ナイフのように鋭く尖ったそれは、まるで鏡に映った月のようだ。 少女の瞳に湖面の月が儚げに揺れる。木々が作り出す闇の中、その湖だけが月の光を映している。風に揺れた木々がきまぐれに漏らした月光が少女へと注いで、少女が目を細める。少年はその瞬間に垣間見た少女の顔色の悪さに恐怖した。 (綺麗ね。ここなら平気。怖くない…) 突然の言葉。何が、とは言わない。少年も問うことが出来ない。少女があまりにも優しい微笑みを浮かべていたから。 身体を強張らせた少年の虚に乗じて少女は不意に視線を戻した。 (みんなのところへ行って…『ここ』を出て。『外』に出るの) 強い、強い瞳。 (置いて行くなんて出来ない! 約束したじゃないか、一緒に…) 少年は必死に瞳を瞬かせる。流れる涙よりも、少女の顔を見ていたかったから。喉元にこみ上げる想いは熱くて、まともに喋ることすら出来ない。 けれどもう、時間がない。少女は詰まりそうになる言葉を吐息と共にゆっくりともらした。 (…うん。約束、したね。だから…先に行って。みんなと会えたら、そしたら…人を呼んで来て?) 幼い子供に諭すように少女は小さく首を傾げて言う。途切れがちな吐息が少女の苦しさを物語っていて。そして少女は嘘を吐くことに耐えられなくて、嘘だと見破られたくなくて、瞳を閉じた。 (待ってるから…。ずっと、待ってるから) 少年の瞳から大粒の涙が溢れた。少女はもはや意思を変える気はないと全身で語っていた。 眠るように瞳を閉じた少女には普段の勝ち気な表情はどこにも無く、今はただ穏やかなそれがあるだけだった。 少年は静かに立ち上がる。背を向けた瞬間、少女のまぶたが震えたのには気付かなかった。 額に巻いていた布を湖に浸すと、湖面に広がった波紋に丸い月がぐにゃりと不気味に歪んだ。そして少年は再び少女の元へ戻ると、きつくまぶたを閉じた少女の頬に触れた。 不意に押しあてられた感触に驚いたのか、少女は重いまぶたを開いた。土と灰と、そして血に汚れた少女の顔を少年がそっと清める。どこか泣きそうな顔をした少女は、それでも苦笑いを浮かべて少年へと指を伸ばそうとした。 少年の額の火傷跡に触れようとした少女はその寸前で少年に抱きとめられる。額の刻印。それが何を意味するのか、少年は知らない。 忍び寄る冷たい夜気から互いを守るような、温もりを分け合うような抱擁。 彼らは互いから微かに『ここ』の…『中』の匂いを感じて泣きそうになった。自分達は『ここ』から逃れられないのだとそう言われているようだった。 ――たとえ今ここで死んでも。 今この瞬間、互いの事だけを想っているのに、彼らは互いに悲しみしか与えられない。それでも想いを伝える術を知らない子供たちはただお互いを抱き締めていた。 (行って。お願いよ。『私のため』に…) 目を伏せて発せられた少女の囁きは残酷な願いだった。 ここにいてはいけない。私たちはやっと『外』に出られるのだから。忌まわしい生活が過去のものになる。そうさせることが出来るのだから。…もう籠の中の鳥ではないのだから。 震える少年の背に月光が差し込んで、まるで光の翼のようだと少女は思う。触れたくて――懸命に伸ばした腕を落とす。 (…行くよ。みんなの所へ、行く。でも――) そっと身体を離して、俯いたままの少年の唇が小さく動いた。立ち上がって再び額に布を巻きつけると、少年は一度も振り返ることなく、森の向こう、まだ見ぬ『外』の大地へと走った。 …それが少女の望むことだと分かっていたから。
そして。 森に再び沈黙が訪れる。 少女は自らの手を月光にかざそうとし、その力すら残されていないことを知る。ゆっくりと視線を落とした先、血のこびりついた指先を見つめる。 (――っ) 怖かった。自分はこんなにも汚れてしまっていて。だから、少年の翼を汚してしまうと思った。 …絶望以上に恐怖を感じた。 瞳を閉じる。きつく、きつく。もうこれ以上自分の惨めな姿を見られないように。 そうだ。自分は惨めな鳥だった。閉じ込められた殻の中で広い世界を夢見て誰よりも早く目覚め、仲間と共に空を目指した。次々と飛び立ってゆく仲間たちを見送って、空の巣を見回して、そうして初めて気付いた。自分が――飛べない鳥だということに。自分は仲間たちの殻の破片の上にうずくまる事しか出来ない、惨めな羽の折れ曲がった鳥だった。 だから、少女は少年の最後の言葉に頷かなかった。ただ、笑みを返した。 (必ず戻る。だから、待っていて) そう言って飛び立った白い鳥はもう戻っては来ない。 返した微笑は確信。 託された少年のプレートを握り締めた手のひらの痛みは、微かに残った浅ましい願望。 そして視界を揺らすものは憧憬であったのかもしれない。 少女は嬉しかった。少年が自分の望みを叶えてくれた事が。 そして切なかった。自分が彼と共に行くことが出来ない事が。 (ごめん。…嘘つきだよね) 待つと言った自分が。待てと言わせた自分が。 応じることの出来ない約束…少年の言葉。少女は少年が走り去る姿を見なかった。最後の記憶として彼の後ろ姿を見ることは辛いと思ったから。置いて行けとそう望んだのは自分。彼は本当に戻って来るつもりなのだろう。…けれど、少年は戻ってこない。そして自分は少年を待つことを許されない。 少女は静かな森で木々の葉が擦れる音を聞く。 本能で危険を察し、森から逃げ出した動物たちの姿が見えないことに少女は少しだけ救われた。そして少しだけ寂しいとも思った。…彼らもまた、『行ってしまった』のだ。 (…本当は、いきたかった。私も…いきたかったの…) 行きたい、なのか、生きたい、なのか。おそらくそのどちらでもあったろう。 (どうか…生きて――) 知らず、止めていた呼吸。肺に溜まっていた血生臭い最後の吐息を吐き出して、少女はゆっくりと地面に伏した。…背にした大木にどす黒い血の軌跡を残して。 頬に冷たい地面の感触。息苦しさよりも切なさに胸が詰まる。 (―――) 唇が、微かに震えた。 そして――少女の瞳から、最初で最後の涙が零れ落ちた。
(必ず戻る。だから…待っていて)
少年は走った。暗闇の向こう、森の外で仲間たちの顔が不安から歓喜に色めくのが見えた。 「シュン…俊明! よかった、無事で…」 「シュン、お前一人…なのか?」 俯いたまま顔を上げることの出来ない俊明の呼吸が整うのも待たずに、仲間たちが口々に俊明に問いかけてくる。 足りない。まだ十三人目の仲間が…。 「僕一人だ。彼女は…鈴華は…」 答えの終わらないまま、カッ、と閃光が辺りを包んだ。それとほぼ同時に巻き起こった、鼓膜を突き破るような爆発音。そして――。 森の奥、闇を切り裂いて、一切の平穏を呑み尽くす紅蓮の炎の柱が夜空に昇った。 それはまさに、彼らが逃れて出てきた『あの場所』、そして少女を置いてきた場所…。 「―――――――っ!!」 少年の絶叫は、夜気を切り裂く爆音に掻き消された――。
(オリジナル小説『鏡月』のプロローグ部分を抜粋しました)
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