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クリエイター名  ミナルママサキ
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 事故の瞬間はスローモーションに見えると言い出したのは、一体誰なのだろうか……
 そんな言葉を何となく思い出しながら、大空陽太はその瞬間を迎えた。
 楽しいはずの家族旅行の帰り、陽太とその両親が乗った車は、雨のためスピンをしてしまった反対車線を走っていたトラックと正面衝突。車体の半分を大破してしまうという大惨事になった。
 冷たい雨が降りしきる中、トラックの運転手が慌てて車の中から出てくる。額から血を流し、右腕をぶらりと下ろしていたが、致命傷ではないだろう。だが……
「誰か! 誰か救急車を呼んでくれ!!」
 半分が潰れてしまっている車体。もはや原型を留めていない姿を見て、中にいる人間の存亡は絶望的であった。
 人通りの少ない海沿いの道路。男の声は夜の雨の中いつまでも、どこまでも響き渡っていた。
 ……あぁ、この私の体が、動くのならば……この手を伸ばして、彼の身体を抱きしめてあげられるのならば……
 頭から血を流し、両足を壊れた車体に挟まれてしまっている陽太を見て、彼女は懸命に手を伸ばそうとした。
 しかし、その手が動くはずもなく――
「誰か! 誰か救急車を!」
 叫ぶ男の声だけが虚しくこだまする。
 その日、陽太の手に抱かれたまま彼女は雨の空を見上げていた。
 その時、雲が割れて月が顔を出す。
 狂おしいほどの、下弦半月。
彼女はその月を見上げ、一心に願った。
 ……あぁ、誰でもいいです。お願いだから、彼を助けてあげて……
 糸で作られた髪の毛は陽太の血で汚れ、黒いボタンで作られた瞳には雨が落ち、それは、まるで彼女が泣いているかのように見せていた。
 しかし、彼女は実際に泣いていた。その、汚れなき心の中で。
 彼女の名は、大空美月。
 陽太の母が作り上げた、一体の人形。
 それは、後に陽太が残す両親の唯一の形見となるのだった――


 月は嫌いだと、彼は言っていた。
 全ての世界を闇が覆っている中、自分の存在をあまりにも主張しすぎているから。ずっと見つめていると、このまま飲み込まれてしまうのではないかという錯覚を覚えるからだそうだ。
 それに、月を見上げているとどうしてもあの日を思いだしてしまうらしい。
 あの、雨の降っていた、下弦半月の夜。
 両足に燃えるような熱を感じた。この両足これから先二度と動かなくなるかもしれないということなど、あの時の彼に知る由はなかった。
 しかし今は、嫌と言うほどそのことを実感している。自分の力では、動かすことのできないその両足。今まで自由にその足で走り回っていたことなど、もう遠い昔のようだ。今は、まるで自分の物ではないかのように動かない。
 頑張ってリハビリを続ければ、今まで通りとはいかないが、自力で歩けるくらいに回復すると、医者は言っていた。
 ……でも、彼にその気がないことを、彼女は知っている。
 だって、足が治っても側にいてくれる人は誰もいないのだから。
 自分の隣で、いつも心配そうな顔をしてくれる人がいるとも気づかず……


「おはよう美月」
 陽太の一日は、今日も彼女の名前を呼ぶことから始まる。それは、この病院に来てから毎日欠かさないことであった。
 中学生の男の子が人形に話しかける――端から見たら、それは異様な光景なのかもしれない。実際、その光景を目の当たりにして眉根を寄せた人も少なくはない。だが、陽太はそんな人の目も気にすることなく決して返事をすることのない美月に話しかけていた。それは、この病院に来る前から繰り返されてきた日常。
 陽太が部屋を出ている間、ベッドのシーツを替えに二人の看護婦が部屋にやって来た。一人の看護婦は美月も何度か見たことがあるが、もう一人の看護婦は今日初めて見る看護婦だった。新人か何かなのだろうか。
その看護婦は、美月を見つけるなり汚い物を見るような目でこう呟いた。
「なに? この汚い人形は」
 そう、実際美月は汚かった。あの事故のせいでところどころ破れており、それを縫い直したあとはどうしても目立ってしまっていたし、洗っても取れない陽太の血が染みになってしまっている。その人形は、傍目から見るとどう見てもゴミとしか思えなかった。
でも、それでも陽太は美月を手放そうとはしなかった。その理由を知っている看護婦が、その看護婦をなだめるように囁く。
「駄目ですよ、これは陽太君が大切にしてる人形なんですから」
「大切に? こんなゴミみたいな人形がですか?」
「確かに、私達の目から見たらゴミみたいに見えるかもしれませんけど……。これは陽太君の亡くなったご両親の形見なのですよ? それに……」
 そこまで言って、その看護婦はそっと美月を抱き上げ、じっと見つめる。どこか、哀れむような瞳。
「これは、小さい時に亡くなられた陽太君の死んだ妹さんを思って作られたらしいのよ……。だから、このお人形の名前も死んだ妹さんの『美月』って言うらしいし」
「あ……。そうなんですか。すいません、出過ぎたことを言ってしまって……」
「いいのよ。でも陽太君の側では言っては駄目よ? 両親を亡くしたショックがまだ残っているんだから」
 同僚の話を聞き、美月をゴミ扱いしていた看護婦の目が変わった。小さく溜息を吐き、憂いを帯びたような瞳になる。
 この看護婦の目が、美月は嫌いだった。自分は悲しくなんかない、哀れんでもらう存在ではないのだ。
 陽太のベッドの真横にある棚に美月は飾られていた。陽太が美月に触れたいと思った時に、手を伸ばせば届く場所。
 美月は本当の美月が死んだ後に作られたので、陽太の妹がどんな人間だったのかは全く知らなかった。死因は事故死だったと聞いている。
ただ、母親が愛情のこめて美月を作ってくれたこと、陽太も惜しみない愛情を美月にぶつけてくれたことから、妹の美月は家族にとても愛されていたのだということは理解できた。
 ――自分に『心』があると知ったのは、一体いつの頃だろうか……。気がつけば、自分に話しかけてくる人間がいることに美月は気がついた。話の内容まではよく理解できなかったが、自分に向けられたその満面の笑みを見て美月はとても暖かい気持ちに包まれていた。返事をすることができない自分を疎ましくさえ思ったことがある。
 ……だが、それ以上は何も望まなかった。
 家で隣に置かれていたクマのぬいぐるみに、心の中から話しかけたことがある。だが、返答はなかった。その時に美月は悟ったのだ。これは、自分だけが得た物なのだと。
 そして、同時にこう思った。自分には、人間の声を聞いて何かを思う『心』を得た。が、それ以上は何も望まない。と。
 これ以上何かを望むことは、許されないことなのだと。
 そう、これ以上は、何も望まないはずだったのに……


「陽太君、リハビリの時間よ」
「行かない」
 その日も、いつもと変わらない会話が交わされていた。
「またそんなこと言って……。リハビリをしないと以前みたいに歩けるようにならないわよ?」
「別にいいよ。もう歩けなくたって」
「陽太君……」
 看護婦はうんざりとした表情でベッドに寝転んでいる陽太を見つめる。
 もう、幾度となく交わされた会話。
 あの事故からすでに三ヶ月が経過していた。陽太の足のギプスは取れ、これから元通り歩けるようになるためリハビリをしようと言い出した時、陽太は断固としてそれを拒否したのだ。看護婦がどんなに説得し、なだめても陽太は首を縦には振らなかった。
(……陽太さん……)
 その光景を、美月はいつも見ていた。そして、いつも心を痛めていた。
 美月は知っていた。陽太がリハビリを始めない理由を。
 陽太は怖いのだ。どんなにリハビリをしても、この足は治らないかもしれない。だから、どうしてもリハビリをするのをためらってしまう。
 リハビリをしても、もう二度と歩けないのかもしれない……それなら、いっそのことリハビリをしないで歩けなくなってしまった方がいい。
 他人が聞けば「何て馬鹿なことを」と思うかもしれない。だが、陽太にしては、これは一大決心だったのだ。陽太だって、本当はリハビリをして歩けるようになりたい。以前と同じように歩いて、またいろいろな所に出かけたい……。何度もそう思った。
 でも、もう陽太の隣には彼を励ましてくれる人がいないのだ。事故の後陽太が目を開けたのは事故から一週間が経過した時。即死だった両親の遺体はすでに埋葬されていて、陽太が再会したのは、かつて両親の身体を形成したと思われる骨が入っている二つの箱だけだった。
車椅子に乗り、線香の匂いが充満している暗い部屋の中で、陽太は両親と再会した。膝の上に美月を乗せて。
 しかし、不思議と涙は出なかった。
 陽太君は強い子だね。と看護婦に言われたが、別にそういう訳ではない。ただ、あの箱に両親の骨が入っていると言われても実感が沸かなかっただけなのだ。
陽太の記憶にあるのは、旅行の帰りに笑顔で運転をしていた父と母の横顔。その笑顔がもう見られないというのが、陽太にはとてもじゃないが信じられなかった。
もう、あの笑顔が二度と見られないということなど、信じたくなかったのだ。
 だから、陽太は涙を流さなかった。涙を流した日は、それを全て受けとめてしまう日だと思ったからだ。
 信じたくなかった。妹の美月だけでなく、両親までもが自分を置いてどこかに行ってしまったなんて……
 人形の美月は、いつも涙を流していた。
 もちろん美月は人形なので、その目から涙が出てくるはずもない。
 でも、美月はいつも泣いていた。その、汚れなき心の中で。
(私は、いつもここにいます……)
 その日の夜も、美月は泣いていた。
 陽太は今、トイレに行ったのか病室には美月しかいない。別に美月が泣いても誰かが気づくというわけではないのだが、美月は陽太のいる前では泣きたくなかったのだ。
(あぁ、誰か、陽太さんを元気付けてください……誰でもいいです、陽太さんに……)
 その時、風が吹き、窓を開けっぱなしにしていたため、カーテンがふわりとなびいた。カーテンの隙間から、空が覗ける。
 今夜は、下弦半月。
 ぼうっと空を見上げていると、一瞬月が揺らいだように見えた。
(……?)
 じっと、月を見つめてみる。
 今度は、月の周りがぼうっと光ったように見えた。そして――
(!)
 次の瞬間、美月は妙な錯覚を覚えた。何かに包まれているような、溶け込んでゆきそうな、そんな錯覚。その時だった。 
「誰?」
 聞き慣れた声が、耳に届く。美月は反射的にそちらを向いた。
(……あれ?)
 美月は、妙な違和感を覚える。
首が、動く。
「誰なんだい? どうして俺の病室に?」
 車椅子を漕ぎながら、陽太は美月の方に目を向ける。
(……私……?)
 どうしてこちらを見るのだ? 美月は不思議に思った。私のことなど、見慣れているはずなのに……
 しかし、次の瞬間美月はその陽太の不審な態度の理由を知ることになる。
 部屋に置かれてある、洗面台。その鏡に見慣れない人物が映っていたのだ。
 背を流れる艶やかな黒髪。月夜の光に青白く光る白い肌、夜風になびく白いワンピースを着ている十二、三歳の少女…そんな少女が、自分の座っているはずの棚の上に座っていたのだ。
「ここで何をしてるの?」
 陽太に声をかけられ、美月はそこで始めてそれが自分に語りかけられているのだとわかった。驚きのため、肩がビクッと動く。その時、鏡の中の少女の肩も自分と同じように肩を震わせた。
(……え……?)
 その時、やっと気がついた。自分の体が、自分の思うように動いていることに。
「どうしたの?」
 じっと遠くの鏡を見つめている少女を疑問に思ったのか、陽太はもう一度尋ねてみる。その時の陽太に、不思議と怖いなどの感情は浮かばなかった。むしろ、どこか懐かしいような――
「……いい月が出てるね」
 それが、美月が生まれて初めて発した言葉だった。静かに空を見上げ、月を仰ぐ。桜色の唇から鈴が鳴くような声が漏れた。陽太は思わずドキリとしてしまう。
「こんな夜は、何かが起きそうな気がしない?」
 そう言って陽太の方に向き直り、少し悪戯っぽく微笑んでみせる。
 声の出し方はわかっていた。どうやったら笑顔が作れるのかということも自然とできていた。
 美月が微笑むと、鏡の中の少女も微笑む。そう、あの鏡に映っているのは美月自身なのだ。
 美月はもう一度、窓から月を眺める。本当に綺麗な月。陽太はしばらくその少女の姿に見とれていてしまったが、しばらくしておもしろくなさそうに答えた。
「月は嫌いだよ」
「どうして?」
 聞き返したのは、社交辞令。しかし美月はこの理由を幾度となく聞かされてきた。彼自身の口から。
 陽太は窓から空を見上げる。一瞬眉根が寄ったのを、美月は見逃さなかった。
「暗闇に輝いているから」
 返って来たのは、美月の予想していた通りの言葉。なぜか、少しだけ悲しくなる。
「それだけの理由で?」
 これも、ずっと聞きたかった言葉。陽太から月が嫌いな理由は聞いていたが、本当にこれだけの理由で嫌いになれるのだろうか。私と……彼の愛する妹と同じ名を持つ、この月を。
「あの、月しか見えなかったんだ……」
 しばらくの沈黙のあと、陽太は口を開いた。
「交通事故にあったあの日、救急車が来るまでずっと空を見上げてた。雨は上がっていて、綺麗な夜空が見えたよ。月も、とても綺麗だった……」
 でも。と言って、陽太は息を呑む。この続きをこんな見知らぬ少女に言っていいものかと、ほんの少しだけためらう。
だが、その迷いはすぐに打ち消された。この少女になら話してもいい。なぜかそう思えたからだ。
「でも、月は俺を見下ろしてるだけだった。とても綺麗に輝いていたのに、月は俺に何もしてくれなかった。励ますことも、抱きしめてくれることも、叱り付けてくれることも。当たり前だと言われたらそれまでかもしれない。でも、あの時俺が頼りにしていたのはあの月だけだった。ずっと、月だけを見上げていた……それなのに、月は俺に何もしてくれなかった。それどころか、俺達がこんな事態に陥っているというのに、月は自分のことしか考えていないみたいに夜空に輝いていたんだ。……だから月は嫌いだ」
 私は? 私は、ずっとあなたの側にいました。私ではあなたの心の慰めにはならないのですか?
 美月は、心の中でそう思う。そして、それと同時に目頭が熱くなるのを感じた。
「どうして泣いてるの?」
 そう尋ねてきたのは陽太だった。美月はその時初めて自分が泣いているということに気がつく。そう言えば、陽太が病室から出た時に泣いていたのだっけ……美月は慌てて目をこすった。
「君もこの病院に入院してるの?」
 ふと陽太が、そんなことを尋ねてくる。美月は一瞬迷うが、すぐにゆっくりと頷く。それ以外に言い訳が見つからなかったからだ。
「俺は大空陽太。君は?」
 笑顔でそう言われ、美月は思わず嬉しくなってしまう。やはり、この人には笑顔が似合う。心からそう思った。
「……美月……」
 迷うことなく、そう答える。陽太はその名を聞いて目を何度か瞬きさせるが、すぐに先ほどの笑みを浮かべてくれた。
「……俺の妹と一緒の名前だよ」
 俺の妹と。
 そう言われ、胸がチクリと痛む。やはり、私では妹の代わりにはならないのだろうか。
「俺は太陽で、妹は美しい月。そういう意味でつけた名前なんだって。『大空』って苗字にも合ってるだろ? 気に入ってるんだ」
 これも、何度か聞かされた言葉。しかし美月はさも初めて聞いたかのように大きく頷いてみせた。
「いい名前をつけてもらったんですね」
 これは、初めてこのことを聞かされた時に返してやりたかった言葉。やっとこの言葉を本人に直に言えた喜びからか、美月の瞳に再び熱いものがこみ上げてきた。
「どうしたの?」
 陽太が、優しく声をかけてくれる。
 それだけで、とても嬉しかった。
 今まで幾度となく願ってきた。この人と、会話をしてみたいと。
 それは願ってはいけないことだとわかりつつ、願わずにはいられなかった。
 ……そう、これは夢ではないのだ。
 人形である私が人の姿を得られる魔術。
それは、彼女の心の想いが作り出したものなのだろうか……
 それとも、彼も願ってくれていたことなのだろうか……
 風が吹き、カーテンが揺れる。
 柔らかな月光が、二人を照らしだしていた。


「美月はどうしてこの病院に入院してるの?」
 陽太がそう尋ねてきた時は、さすがの美月も返答に困った。しかし陽太は、
「言いたくなかったらいいんだよ。聞かれたくないことだってあるもんね」
 そう、笑顔で言ってくれる。美月もニコリと微笑んだ。その気遣いが、今はとても嬉しい。
 すでに美月は棚から降り、陽太のベッドの隣に椅子を置いてそこに座っている。陽太はベッドに横たわり、首だけを美月の方に向けていた。
「ところで、その棚に置いてあった人形知らない? 俺の大切なものなんだけど」
 美月が棚から降りて初めて、陽太はそこにあの人形がないことに気づいた。布団から手を出し、棚を指差す。美月はあぁ。と呟いてから答えた。
「あの人形なら大丈夫です。朝になったら元の位置に戻ってるはずですから」
「? それならいいんだけど」
 何故そんなことが言えるのだ。と、陽太は探索しなかった。自分でもよくわからないのだが、この美月という少女の言うことはなんでも素直に聞き入れることができる。
それは、月夜が照らし出す少女の神秘的な姿のせいか、それとも、美月という妹と同じ名前のせいだろうか。
 その時、ふと陽太は窓から外を眺めた。相変わらず、月がこちらを見下ろしている。その月を見て一瞬陽太は目を伏せる。
「そんなに、月が嫌い?」
 陽太の態度を見ていた美月が、寂しそうに尋ねる。陽太は目を伏せたまま答える。
「月を見ると、どうしても思い出してしまうから。あの日のことを……」
 そのことを言われると、美月は何も言い返すことができなかった。
 あの事故の悲惨さ、両親を突然失った陽太の悲しみは、美月が一番よくわかっていたからだ。事故のことを忘れることなど、できるはずもないし、美月もそれは望んでいない。
ただ、どれだけ時間がかかっても構わないから、この事を陽太が思い出しても今ほど心を痛めずに済むように願うだけであった。
 美月は、そっと陽太の額に触れてみた。なんだか陽太の顔が赤い気がしたからだ。だが、その瞬間ものすごい勢いで陽太は上半身を起こして美月の手を払った。
「……あ……ゴメン……」
 驚いた顔をしている美月に、陽太が顔を真っ赤にして謝ってくる。
「あの、あの俺、あまり女の子とは縁がなかったから、そ、その、突然で驚いたっていうか……」
 しどろもどろに言葉を探す陽太を見て、美月はなんだかおかしくなってしまった。
 人形の私の前では、絶対に見せない反応。
「……ひどいなぁ。笑わなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい……なんだかおかしくて」
 クスクスと一人笑う美月を見て、陽太はますます顔を赤くした。それが更に美月を笑いの渦へと誘う。
 そう、こんなさり気ない日常を望んでいたのだ……


「妹の美月はね、俺より一つ年下で……とても意思の強い子だった。クラスでも人気者で、委員長もやっていたんだ。でも、美月とは違って俺は人見知りが激しくて引っ込み思案な性格だから、特定の仲のいい友達っていうのもいなくて、いつも一人でいたから、美月がとても羨ましくて……」
 それは、美月自身も初めて聞かされたことだった。妹がいて、自分はその妹を想って作られたということは知っていたが、妹の美月がどんな人物だったのかは、美月には話されたことはなかった。美月は静かに次の言葉を待つ。
「でも、それでも美月は俺の妹だった。いつも俺の後ろをついてきて、いじめるとすぐに泣いて、甘えん坊で……。他の人は美月をどんな風に思っていたのかは知らないけど、俺にはたった一人の妹だったんだ。……それなのに美月は俺や父さん達より先に天国に逝ってしまった。もう、美月には会えないんだ」
 そう言うと、陽太は窓から月を見上げた。……あぁそうだ、これも自分が月を嫌いな理由だったと、ふと思い出す。
「あの日……美月の葬式のあの日も、今日と同じ月が浮かんでた」
 空に浮かぶ下弦半月。月にはなんの罪もない。そんなことは陽太にもわかっている。でも、月を憎まずにはいられなかった。
「美月が入った棺が運ばれるのを、月はずっと見下ろしていたんだ……その時、俺にはこの月が笑っているように見えた……」
 そう、あの日から陽太は月が嫌いだったのだ。いつも自分達を見下ろし、暗闇の世界に君臨している月。どうして妹にそんな月と同じ名前を付けたのだと、本気で思ったことがある。
 クスリと、自分自身に対して笑う。なんて子供だったのだろうと、今となっては恥ずかしい思い出だ。そこまで考え、陽太は目をこすった。知らず知らずの内に、涙がにじみ出てきていたのだ。
「おかしいね、会ったばかりの君にこんなことまで話すなんて……」
「いいえ……」
 会ったばかりではありません。と、美月は心の中で付け加える。しかし、決して口にはしない。口にすれば、今ここにあるものが全て壊れてしまいそうな気がして……
 美月は自分の心情を悟られないように笑みを浮かべた。
「でも君になら何でも話せるような気がするんだ。楽しかったことも……辛かったことも」
「えぇ、何でも話してください。私でよければ、相手になりますから……」
 そっと、陽太の手に自分の手を重ねた。
 そう、自分はそのためだけに、今ここにいるのだから……


「陽太君はどうしてリハビリをしないの?」
 美月がそのことを聞き出すことができたのは、あれから一時間ほどが経過した時であった。
 それまでは、他愛のないお喋りに花を咲かせていた。美月は生前の陽太の母親からいろいろ聞かされた話を思い出しながら会話をし、それでもわからない話題が出された時は「ずっと入院してたから」の言葉でかわしたし、それ以上陽太が詮索してくることもなかった。
 陽太も美月にたいして大分心を開いてくれ、いろいろなことを話してくれるようになっていた。が、さすがにこの話題を出された時は顔に陰りを見せた。しかし美月は続ける。
「怖いの?」
 それは、決して言ってはいけない言葉。陽太自身も認めたくない、己の感情。
「……怖くなんか、ない」
 陽太は美月から目を逸らしてそう答える。だが、その言葉に覇気はない。
「じゃあどうしてリハビリをしないの? もう二度と歩けなくなってもかまわないの?」
「……かまわないよ」
 返答するまでに、少しの間があった。まだ、彼には迷いがある。
「どうせ足が治っても、もう一緒に歩いていく人はいないんだ……それに、リハビリをしても元通りに歩けるようになるとは限らない。もしリハビリをしても歩けなかったらどうするんだ? 今以上の絶望を味わえって言うのかい? ……悪いけど、俺はそんなのはごめんなんだ」
 そうとだけ言うと、陽太は布団を頭から被ってしまう。
「そんな……あなたのことを大切に思ってる人がいるかもしれないじゃないですか」
「いないよ、そんな人」
 そう、自分を心配してくれる人など、誰もいない。
 陽太の両親は共に一人っ子だった。祖父母も早くに死んでおり、陽太には親戚と呼べる人が誰一人としていないのだ。ここを退院しても、どこへ行けばいいと言うのだ?
「……俺も……」
 小さく、本当に小さく、呟く。
 それは、幾度となく考えたが、口にはしなかった言葉。
「俺も死んでしまえば良かったのに……」
 ぎゅっと、布団を握り締める。
 ずっと、考えていた。
 これから先、自分が生きていて何か特があるのだろうか? ……これから先、生きていく意味があるのだろうか……
 しばらくの、間が流れた。
 陽太は美月の方を見ようともしなかった。ただ、真正面の病室の壁を眺めている。
 どのくらいの時が流れただろう……。
陽太にもよくわからなくなってきた頃、美月が口を開いた。
「本当に……気がついていないのですか?」
「え?」
 美月の呟きを聞き、陽太が顔を向ける。そして、思わずぎょっとしてしまう。
 美月の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていたのだ。
 風が吹き、美月の長い髪がふわりとなびく。
 月明かりが美月の顔を怖いくらい鮮明に、そして、美しく見せる。
 そう、それはまるで月の化身のような……
「ずっと、あなたを見ている人が側にいるんですよ……?」
 まばたきもせずに、そう呟いた。
 ……そう、ずっと見ていた……
 今思い返せば、あの日も今と同じ下弦半月が空で輝いていた。
 私が、初めて心を授かった日。その日のことは、今でも昨日のように思い出せる。
『美月』
 初めて聞いたのは、とても澄んだ声。その声で、私のことをそう呼んでくれた。あぁ、私は美月なのだ。と、瞬時に理解できた。
 私を抱き上げて、いつまでも他愛のない世間話に花を咲かせてくれていた。
 朝晩の挨拶は欠かすことはなかったし、母はよく洋服を作ってくれていたし、家族で出かけるときは必ず一緒に連れていってくれた。
 ……妹の代わりでも、構わなかった。
 ずっと、私を見てほしいと思っていた。
 ずっと、私を必要としてほしいと思った。
 どんなに辛くても、私という『人』がいることを、忘れてほしくなかった。
 だから、望んだのだ。
 こうやって、あなたと言葉を交わすことを。
 そう、美月は知らず知らずの内に恋をしていた。大空陽太という、一人の男に。
 自分に心を与えてくれた者に、とても感謝をしていた。恋をするというのは、こんなにも暖かいものなのだ。そのことを、知ることができたから。
「私は、ずっとあなたを見ていました……」
 そして、同時に深く憎んだこともあった。
この感情を知らなければ、私は悲しまずに済んだ。夜、一人で涙を流すこともなかったのに……
 縋るように、懇願するように、美月は椅子から立ちあがった。
「……美……月……?」
 呟きは、無視された。美月は陽太のベッドに腰掛ける。
 もう、止められない……
 美月は抑えきれない気持ちで一杯になりながら、陽太の顔を挟むように両手を置く。陽太の顔に、腰まで伸びた美月の長い髪がかかった。
「……気づいてください……」
 美月の瞳からは、まだ涙が溢れ出ていた。それがポタポタと落ち、陽太の頬に染みを作る。それは、陽太が泣いているかのようにも見せる。
 陽太には、わからなかった。
 どうして、この目の前にいる少女が涙を流しているのか。
 どうして、自分はこの少女を払いのけることをしなかったのか……
「忘れないでください……あなたを想う、女の子がいることを……」
 そうとだけ呟くと、美月はゆっくりと頭を下げる。
 美月の唇と、陽太の唇が重なるのに、そんなに時間はかからなかった。
 陽太は逃げもしなかったし、受け入れもしなかった。ただ、いつものようにそこに寝転んでいるだけであった。
 だから、美月が唇を離した時も、驚きもしなかったし怒りもしなかった。
 だが、美月は笑っていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして、満面の笑みを陽太に向けてくれていた。
 それなのに、陽太は彼女に笑い返すことができなかった。何事もなかったかのような、無表情を浮かべる。
 ……そう、そこには始めから彼女が存在していなかったかのように…………


「…………」
 陽太はゆっくりと目を開けた。どうやらしばらく眠ってしまっていたらしい。上半身を起こし、辺りを見まわしてみる。
「…………」
 しかし、そこには美月の姿はなかった。
 まるで、夢から醒めたようだった。
 風が吹き、カーテンがなびく。
 気がつくと、空は白味を帯び始めていた。備え付けの時計を見てみると、時刻は午前五時半。
「自分の病室に帰ったのかな?」
 そう思い、もう一度布団に潜ろうとする。と、その時、布団の上に人形がうつ伏せに転がっていることに気がつく。
「美月? どうしてベッドに……?」
 美月を置いてある棚の位置からして、自然に落ちたとは考えられなかった。不思議に思いつつも、元の場所に戻そうと美月を持ち上げる。
「!」
 美月を持ち上げ、陽太は言葉を失った。
 濡れていた。
 美月が濡れていたのだ。
 それも、普通に濡れているのではない。目の辺り……それも、顎にかけて筋になって濡れていたのだ。
「涙?」
 その時、一瞬陽太の頭の中に一人の少女の姿が写しだされる。
「う……!」
 たまらず、頭を押さえ込む。
 写し出されたのは、一人の少女の姿。
 それは、涙を流しながら自分に何かを訴えた少女。
 あの少女は、自分に何と言っていた……?
「……」
 心臓の鼓動が早くなる。頭が痛い、目頭が熱い、喉がカラカラだ……
 どうしてだろう? 彼女の涙を思い浮かべると、こんなにも胸が苦しくなるのは。
 どうしてだろう? 彼女のことを思い出すと、こんなにも涙が溢れ出てくるのは……
 そっと、唇に触れてみる。
 そこはまだ、彼女の温もりを残していて……
 自分に何が起こったのか、どうしたらいいのかわからず、陽太は窓から空を見上げた。
 そこには、変わらぬことのない下弦半月があった。
 だが、どうしてかその時だけは陽太は月を憎むことはできなかった。
 妹と……あの少女と……そして、この手にある人形と同じ名を持つあの月を……
 陽太はもう一度月を見上げた。月はなおも優しく、陽太に月光を降り注いでくれる。
 涙が止まらない。頬を伝い、布団に染みを作る。瞼の裏から、あの少女の最後の笑顔が消えることはなかった。
 陽太はこの日、生まれて初めて声を出して泣いた。
 この感情を、人は何と呼ぶのだろうか……


 また、何事もなかったかのように一日が始まった。
 陽太は病室に訪れた看護婦に美月という名の少女がこの病院にいるかどうか尋ねてみた。が、誰に聞いても知っているという答えは返ってこなかった。
 それは、なんとなく予想していたことなのだが。
「さ、陽太君。今日こそちゃんとリハビリを受けてもらうからね」
 そして、その日もいつもと同じ台詞を看護婦が言ってくる。陽太は少しだけぼうっとした後、
「……うん、わかった」
 静かに、そう答えた。
「え?」
 虚を突かれたらしく、看護婦は間抜けな声を返す。
「……リハビリ、受けるって言ったんだよ」
 陽太は表情を変えずに淡々と呟いた。
「あ……わ、わかったわ! それじゃあ先生呼んでくるからちょっと待っててね!」
 看護婦はみるみる喜びの笑顔を浮かべ、大急ぎで病室を出ていってしまった。すぐに何かが衝突する音と人々の悲鳴が聞こえてきたが、この際それは無視することにした。
「なぁ、美月……」
 隣に置いてある美月に、声を掛ける。
「お前は知ってるだろ? 昨日会った女の子のこと……」
 しかし、美月からの返答はない。それは当たり前のことなのだが、陽太は少しだけ期待の眼差しを向ける。
 なんだか、今にも美月が動き出しそうな気がして……
「歩けるようになったら、またあの子に会えそうな気がするんだ……」
 それだけの理由だった。
 たったそれだけの理由なのに、陽太に勇気を与えるのには充分だった。
 人に言えば、笑われてしまう理由だろう。
 でも、それだけ昨日の出来事は陽太にとって忘れられないことだったのだ。
 これだけは、確信している。
 あの日……あの、下弦半月の夜のことは、夢なんかじゃない。
「陽太君! リハビリの先生がいらっしゃいって!」
 その時、看護婦の呼ぶ声が聞こえる。
「はぁい」
 陽太は返事をし、車椅子を漕ぎ始める。
 その膝の上に、美月を乗せて――
「行こうか、美月」
 いつも通り、そう話しかけた時だった。
(えぇ、行きましょう)
 どこかから、声が聞こえたような気がした。陽太は慌てて辺りを見まわしてみる。…だが、誰も見当たるはずがなかった。
「…………」
 陽太は無言のまま微笑んだ。優しく、美月の頭を撫でてやる。
 すでに美月の瞳からは涙は消えていた。
 もう、美月が泣くことはない。
 陽太はその日、新たな一歩を踏み出した。
 
 
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