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クリエイター名  ミナルママサキ
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序章

 高橋とは、中学の時からずっとクラスが一緒だった。
しかし、幼い頃に母が他界し男ばかりの四人兄弟の末っ子として育った俺には、あまり女の子に対する免疫がなくどちらかと言えば女の子は苦手な方だった。いつも誰かと群れていなければ気がすまず、絶えずお喋りを続けている彼女らの気持ちが全くと言っていいほど理解できなかったのだ。
だから、高橋とも特別な会話をすることなどなく、ただの『クラスメイト』として学校生活を送っていた。
その日常はいつまでも変わることがないと、そう思い込んでいた。
 ……しかし、あの日を境に二人の間に引かれていた境界線は打ち消されてしまった。
 俺は、あの時の衝撃を今でも忘れることはできない。
(鳥になるの)
 彼女は、か細い声で確かにそう呟いた。
何度も、何度も……自分の存在を、確かめるかのように。
 俺はあの日から彼女に捕らえられてしまっていた。いつでも、空を飛ぶ鳥を見る度に彼女の最後の笑顔が脳裏にちらつくのだ。
それは、今も変わることはない。
 ……そして、これからも……

そう、あれは、今から二ヶ月ほど前のことになる……



「……ん?」
 誰かに呼ばれたような気がして、俺は目を開けた。
しかし、耳に入るのは聞き慣れた学校のチャイムの音だけ。目の前には夕焼け色の空が広がるばかりであった。
 ここは、俺・小畑英樹の通う高校の屋上。
 初めてこの屋上に来たのは五ヶ月前の一学期の頃。美術の授業で屋上から見る風景を描けと先生に言われ、ここに来たのだ。
今まで昇ったことのない屋上へと足を運んだ俺だったが、風の気持ち良さや予想以上に壮大だった町の景色が気に入り、何かとこの屋上に来るようになっていた。
 もう冬の寒さが身に染みはじめている寒空の屋上に誰も訪れようとはしなかった。それでも俺はこの場所がとても気に入っているので、今でもコートを羽織りながら昼寝をしている。
 今日は、日が出ているし風も吹いていないのでいつもより暖かく感じられる。一日の授業を終え、俺はごろんと寝転んだまま、まだ微かに残っている秋の香りを楽しんでいた。
 いつのまにかウトウトとしてしまったようだが、それもいつものことだ。日が沈めば寒さは増すので自然と目が覚める。家に帰っても何も楽しいことはないので、俺はいつもここで時間をつぶしていたのだ。
 だが、今日はいつもと違う。
 確かに日は沈みかけていたが、まだ夕暮れになりかけている頃だ。いつもならこの時間でも夢の中から戻ってきていない。
 誰かに呼ばれたような、そんな気がしたのだ。そのせいで俺は目を覚ましてしまった。
「気のせいか……」
 辺りをキョロキョロと見回してみても自分以外に誰一人として人影は見当たらない。すでに部活動をしていた生徒達もこの寒さに負けてさっさと家に帰ってしまったらしく、グラウンドからも人の声は聞こえてこなかった。
 一瞬眉根を寄せてしまったが、それ以上詮索することもないと思い上半身を起こす。腕時計に目をやると、すでに五時を回っていた。
「三時間も眠っちまったか……」
 大きなあくびをしてからグンと伸びをする。と、その時視界に何かが入った。
「ん? あれは……」
 そこにいるのはフェンスにしがみつく一人の少女。
人の気配は感じなかったのに……。俺は不審に思いながらもなぜか身を屈めてしまう。少女はこちらに背を向けているため、顔は見ることができない。恐らく、少女もこちらの存在には気が付いていないのだろう。
真っ黒なワンピースを着て、色素の薄い茶色の髪を腰まで伸ばし、その少女は風の吹くままに髪をなびかせていた。何故だかわからないが、俺はその少女の背中から目を離すことができなかった。
その、幻想的とも神秘的とも形容しがたい少女の背中を食いつくように見つめていた。いつから、あの少女はここにいるのだろうか……。そう、思い始める。
静寂が、訪れた。
空は闇の色が深くなり、月だけがぼんやりと写し出されている。
 そして、それは起こった。
「!」
 少女が、手に何かを持っているのが見えた。
月光を浴びて、不気味な光を放つそれは……
(ナイフ!)
 俺は目を見開いた。
少女の白い手に握られているそれは、紛れもなく銀の輝きの刃を持つナイフであった。
少女は空いた方の手で髪を束ねあげ、いつどこから取り出したのかもわからないそれを惜しげもなく自分の首の後ろに押し当てたのだ。そして……
 ザンッ……――
 それは、一瞬の時だった。
 一瞬だったが、それで全ての時が止まってしまったかのようにも思えた。
 少女の手に握られているのは、髪。
 それは先ほどまで、少女の背で美しく舞っていたもの。
 少女は、自らの髪を切り落としたのだ。
 カラン……
 ナイフを落とすのと同時に、少女は髪を掴んでいた手を離す。
それは、闇夜に溶け込むように舞い散り、まるでそこには最初から何もなかったかのように以前の静けさを取り戻していた。
 ……何も、できなかった……
 少女が首にナイフを押し当てた時も、危ないとわかっておきながら、声を掛けることすらできなかった。
 全てを終えたのか少女はゆっくりとした動作でこちらを向く。俺は慌てて身を低くした。
 腰まであった少女の髪は、今は肩にかかるくらいにまで短くなってしまっている。俺は、そっと顔をあげてみた。
 パタン。と屋上の扉が閉められ、そこでやっと止められていた時が動き出した。
俺はしばらく、何も考えることができず、その場にぼうっと座り込んでいてしまった。
 ……チラリと覗いた、少女の顔……
それは、俺もよく知っている少女。
「……高橋……?」
クラスメイトの、高橋小夜だった。
 日は完全に沈み、満天の星空が目の前に広がっていた。
 月だけが、その光景を見下ろしていた。


「ただいま……」
 暗い夜道を歩き俺は家路についた。
 家に着いた時はすでに月が天高く上りきっていて、星と無言の会話をかわしていた。
「英樹! 遅くなるなら連絡しろって何度も言っただろ」
 家に入るなり、親父の険悪そうな顔が出迎えてくれる。俺はそれを半ば無視するように玄関に座って靴を脱ぎ始めた。
「英樹!」
 もう一度響く、親父の怒鳴り声。俺は靴を脱いでスリッパに履き替える。そこで初めて親父の顔をチラリと見た。しかしそれも一瞬のことだ。親父の顔色を伺うと、すぐに視線を別の場所に反らす。
「ちょっと、先生に勉強を見てもらってて」
 そう、適当に言い訳をする。すると父は一瞬にして表情を柔らかくした。
「あぁ、そうなのか。それならいいんだ。でも、あまり遅くならないようにするんだぞ」
「わかってるって」
 そう返答するが、親父は俺の返事を聞かずに奥の部屋へと戻って行った。
俺も二階の自分の部屋に入り、電気もつけずにそのままベッドに座りこむ。
「……くだらねぇ……」
 右手で顔を押さえ、まるで醜い物でも見てしまったかのようにそう吐き捨てる。
いや、実際醜いものを見てしまったのだ。
ククッ。と、俺は小さく笑う。
 俺の兄貴は三人共、言っちゃ悪いが頭が悪かった。しかし親父は俗に言う頑固親父で、兄貴達を一流の大学に入れて一流の会社に入社させようと小さな頃から躾てきた。
 兄貴達は親父に答えようと頑張って勉強をし、そこそこ名の通った大学に入ることができた。当時の兄貴の担任達はまさか大学に通ることができるとは思っていなかったので、こぞって兄貴たちを誉めたものだった。が、親父だけは決して誉めることはなかった。それで当たり前、という顔をして兄貴達の努力を認めようとはしなかった。俺は、兄貴達が真夜中まで勉強していたのを目の前で見て育ってきたので兄貴達の努力は誰よりも知っている。
 そして今度は俺にその番が回ってきたのだ。
 出来の悪い兄貴達の代わりに、せめて俺だけでも。と、俺を一流の大学に入れることしか考えていない父。
 それは、母親がいなくても立派にお前達を育て上げられるということを証明したいからだ。と、親父は言っていた。でも、そんなものは嘘だということには兄貴達も俺も前々から気づいていた。
ただ、親父は俺が自分の言いなりになっていることに優越感を感じているだけなのだ。俺達が自分の敷いたレールに逆らって歩んでいくことが気に食わないだけなのだ。
 俺達の思いなど考えることもなく、親父はずっと同じ教育を繰り返してきた。だから、兄貴達は当然親父を嫌っている。今でも滅多に家に帰ってこないのもそのせいだ。
そして、俺も親父が大嫌いだった。
何かと兄貴達の愚痴を言っている親父。
自分はあんな風に育てた記憶はない。とぼやいていたが、それを聞いた俺はただ失笑するしかできなかった。自分の失態を認めず、兄貴達のせいにするしか能のない親父を俺はいつも心の中で嘲笑っていた。
 だが、それより何よりそんな親父の言いなりになっている自分が一番嫌いだった。
 兄貴達のように反抗しようと思えばできるはずなのに、俺にはどうしても勇気が湧いてこないのだ。ここで親父を見捨ててそれで何になるのだ。そんな勇気もないくせに。
「……クソッ!」
 自分の不甲斐なさに腹を立て、俺はベッドの上の枕を壁に向かって投げつける。
 完全な八つ当たりだ。そうわかっていたが何かをせずにはいられなかったのだ。
 そして、それに気づいた。
 枕が壁に衝突し、そのまま床に落ちてゆく。その時の衝撃で壁に貼り付けていた画鋲がはずれ、一枚の写真が俺の足元にヒラヒラと落ちてきたのだ。
 無言で、その写真を手にとってみる。それは今年の修学旅行で海に行ったときのクラスの集合写真。
 友人達とふざけあってピースサインをしている俺の斜め前に、かわいらしく笑っている高橋の姿があった。
 その背に流れる髪は、まだ長い。
 俺は無言のまま先ほどの出来事を思い出してみる。高橋は確かに、あの場所にいた。あの、月夜が照らす屋上で、高橋は歌を唄い、髪を切り落とした。
あの歌は一体何を意味するのだろう……高橋はなぜ、髪を切り落としたのだろう……
「……高橋……」
気がつくと俺は、自分の机を漁っていた。
引出しを開け、中身をひっくり返す。しばらく整理をしていないのがたたり、目当ての物はなかなか見つからなかった。イラつきながらも、俺は根気よく机を漁った。そして、
「あった……」
 机の奥から引きずり出したのは、クラスの住所録。ここには、クラス全員の住所と電話番号が記されている。
 俺は慌てて一階に降り、玄関に置いてある電話の受話器を取る。住所録を見ながら、一つ一つ丁寧にプッシュフォンと押してゆく。
 ……俺は何をしようとしてるんだ?
胸中でそう呟きながらも、俺はボタンを押しつづけた。
そして、プッシュフォンから手が離される。
 トゥルルルル……
 しばらくの沈黙の後、コール音が鳴り始めた。俺はゴクリと唾を飲む。
 ……電話をして、何をしろって言うんだ……高橋が出たら、何て言えばいいんだよ……
 トゥルルルル……ガチャ
 何度かのコール音の後、受話器を取る音が聞こえる。その瞬間、俺は一瞬心臓が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。
『はい、高橋でございます』
 どこかで聞いたことのある声が聞こえる。
『……もしもし?』
 高橋小夜だった。
不審に思ったのかもう一度聞き返してくる。それでも俺は何も言うことができなかった。
『もしもし? 悪戯でしたら切りますよ』
 怪訝そうな声が鼓膜に響く。俺は、その声に捕らわれてしまったかのように、ただぼうっと受話器を握り締めていた。
 ガチャン。 ツーツーツー……
 電話を切られ高橋の声が途絶える。それでも俺はその場を動くことができなかった。
「……英樹? 何をしているんだ?」
 どのくらい時間がたったのだろう……。親父の声で俺は我に返った。
「あ、いや……何でもないよ」
 受話器を置き、軽く頭を振る。すると親父が驚いたように俺のそばに駆け寄ってきた。
「お前、泣いてるのか?」
「え?」
 親父に言われ、俺はそこで初めて気づいた。
 頬を、何か熱いものが伝っているのだ。
「あ、あれ? どうしたんだろ……埃でも入っちまったかな……」
 片手でぐいっと目をこすりながら俺は親父の脇を抜けて階段を上る。親父もそれで理解したのか、後を追うような気配はなかった。
 部屋の扉を閉め、そのままズルズル引きずりながらその場に座り込んでしまう。
 わからない。何も、わからなかった。
 ただ俺は、とめどなくあふれる涙を拭うことしかできなかった。
 ……どうして、こんなに悲しい気持ちになるのだろう……
 俺は、手に持っていた住所録を開いてみる。
 そこに書かれた、一人の少女の名前。
『高橋小夜』
 その名前を見ると、なぜか急激に胸が苦しく締めつけられるような感じがした。
 なぜだかわからない……だが、この胸に生まれつつある思い。これは、一体何と言えばいいのだろうか……?
 頭が痛い。喉が焼ける。胸が、締めつけられる……
 もう、どうにもできなかった。
 口から漏れる息は嗚咽となり、そのまま俺は両手で顔を覆ってしまった。
 誰も、見ないでくれ。
誰も、今の俺を見ないでくれ……
俺はその日、生まれて初めて声を出して泣いた。


 次の日、ひどく痛む頭を押さえながら目覚めた。なぜかベッドではなく床の上に寝転んでおり、それどころか制服のままであった。どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。
 窓から差し込む光に目を細め、ベッドに置かれている時計に目をやった。まだ、いつも目覚める時間より三十分も早い。
しかしもう一度眠ろうという気も起こらず、俺はそのまま一階に降りていった。

 その日も、何事もなかったかのように学校は始まる。
 教室に入るとまず高橋の姿を捜した。だが高橋の姿は見当たらない。俺は溜息を吐いた。
「お〜い! どうしたんだよ小畑!」
 突然、後ろからグッと首を締められる。
「あ、いや……なんでもない……っていうかいちいち首を締めるんじゃねぇよ、田村」
「いやぁスキンシップだと思って!」
 俺の首を絞めていた男……田村は、ケラケラと笑いながら手を振った。その時とほぼ同時に、入り口の方から小さな悲鳴が聞こえる。
「小夜? どうしたのその髪!」
 その言葉に俺は反射的に入り口の方を向いてしまう。その勢いで俺の首を絞めていた田村が振り飛ばされ、床に尻餅をついてしまう。
 高橋は、教室の隅の方に移動していた。
「ただの気分転換よ」
 そう言う高橋に、女友達は突然の友人の変化に戸惑いを隠せないようだった。
 昨日のことは、誰も知らないようだった。
「綺麗な髪だったのに。もったいない……」
「そうよ。小夜も気に入ってたじゃない」
そう言いながら女友達とじゃれあっている姿は、いつもと何ら変わりはない。……ただ、その背に流れる髪を失ったこと以外は。
「……ん? 高橋がどうかしたのか?」
 俺の視線を感じとってか、田村が起き上がりながらそう聞いてきた。
「高橋ってあんなに髪の毛短かったっけ?」
 先ほどの女子の会話を聞いていたが、あえて俺はもう一度田村に聞いてみた。だが、予想していた通り田村はかぶりを振った。
「いや、腰あたりまであったと思うけど……」
そこまで言って、田村はニヤリと笑う。
「なに? そんなに気になるの?」
 じりじりと俺に言い寄ってくる田村を軽く突き飛ばし、俺は言い返す。
「何でもないからその気持ち悪い顔を近づけるな!」
「そうは言ってても、顔が赤いよ英樹君〜」
 そう指摘され、俺は初めて気がつく。
頬がひどく熱を帯びていたのだ。
そんなやり取りをしているうちに授業開始のチャイムが鳴ってしまう。
俺は胸を撫で下ろしながら席に戻った。途中で田村が舌打ちをするのが見えたが、深く気にしないことにする。
だが、授業中が始まっても俺はずっと上の空だった。前に座っている高橋の背を見つめながら時計の刻む秒針の音だけを聞いている。
 俺の中だけ、時間が止まっているかのようにも感じられた。
 今でも鮮明に思い出せる、昨日の出来事。
 月夜の光を浴びながら、あの少女は自らの髪を切り落とした。
 それは、まるで神聖な儀式を行っているようで……
俺はその日、一日中高橋の背中を目で追っていた。茶化してくる田村はとりあえず無視しておいて、できるだけ高橋の側についていてやりたいと思った。ついていてやらないといけないと、そう思った……


「なぁ、高橋」
 放課後、俺は思いきって高橋に声を掛けてみた。高橋は帰る準備をしていたのか、机の教科書を鞄の中にしまっている最中だった。
「……はい?」
 高橋は、相変わらずのゆっくりとした動作でこちらを向く。肩で綺麗に切りそろえられた髪がふわりとなびき、甘い香りが鼻腔をくすぐった。それだけのことなのに、俺は妙にドキリとしてしまう。
 普段から女の子とはあまり話さないこともあり、俺はどう話を切り出したらよいのかわからず、ただ悪戯に視線を宙に泳がせていた。
「……何か用?」
 そんな俺の行動をじれったく感じたのか、高橋は眉根を寄せた。そして、教科書を詰め終わった鞄を手に持ち席を立つ。
「用がないんだったら帰るけど……」
「いや、あの……」
 俺はしどろもどろになりながらも、懸命に言葉を探した。そして、口を開いた。
「……昨日……何してたんだ?」
 余りにも単刀直入すぎるその言葉に一番驚いたのは、もしかすると俺自身だったかもしれない。胸中でしまった。と思いながらも、俺は高橋の返答を待った。高橋は、そんな俺の言葉に片眉をピクリと上げる。
「見て……たの?」
 喉の奥から搾り出したようなその声を聞いて、俺はゴクリと唾を飲んだ。何なのだろうか。この威圧感のある雰囲気は……
「あ、あぁ……たまたまな」
「そう……」
 高橋は少し困ったように左手を口元に持っていく。開けたままの窓の向こうから、生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。陽光が射し込み、高橋の背を優しく照らし出す。
 ふ。と、高橋が微笑んだ。……微笑んだような、気がした。
「鳥になりたかったの」
 それは、本当に突然だった。
 風が吹き、二人の間を遮るようにカーテンが舞いあがる。半透明なそのカーテンの向こうで、高橋は柔らかな笑みを浮かべていた。
「……え?」
 俺が聞き返すと、高橋は微笑んだまま呟く。
「あの場所にいると鳥になれるって、そう思ったの」
「鳥に……?」
 高橋は頷いた。
「鳥になるためには……空を飛ぶためには、少しでも身を軽くしたほうがいいと思った。……だから、髪を切ったの」
 冗談とも取れるような軽い口調で、高橋はそう言った。
「それだけよ」
 最後に、ハッキリとした口調でそう答える。その決意を込めたような瞳に、俺は何も言い返すことができなかった。
「鳥になって、空を飛べたら……って、小畑君は思ったことない?」
 小首を傾げながらそう尋ねる。そんなさり気ない仕草でさえ俺の心臓を鷲掴みにした。
「思ったことはあるけど……」
 そう言うと高橋は微笑んだ。
「じゃあ、私と同じだね」
 その微笑みを見て、俺はもう何も言うことができなくなってしまった。呆然とする俺の隣を高橋が通りすぎようとする。
 俺は慌てて過ぎ去りようとする高橋の腕を掴んでしまう。高橋は驚いて俺のほうを見る。
「まだ……何か用?」
眉根を寄せて高橋は俺の腕を振り払おうとする。その顔には明らかに不審の表情が浮かんでいたが、俺もその手を離そうとはしない。
この手を離してしまえば、高橋が二度とこの場所には戻ってこないような気がして……
「あのさ……一緒に帰らねぇか?」
「え……」
 何を言ってるんだ。我ながらそう思った。
 今までほとんど話したこともないのに突然話しかけて、あろうことか腕を掴んで、あからさまに嫌がっている顔をしているのに一緒に帰ろうと持ちかけるなんて……ヘタしたら嫌われてしまってもおかしくないぞ……?
 自分にそう言い聞かせるが、それでも俺の言動は止まることはなかった。
「確か高橋って、三丁目の方だったよな? 俺は四丁目だから、けっこう近所だし……」
 自分でも作り笑いだとわかる笑みを浮かべ、高橋の腕を強く掴む。高橋は、未だに怪訝そうな顔をしている。が、その表情が、一瞬にしてふっと和らいだ。
「……いいよ」
「え?」
 高橋の返答に、俺は間抜けな声を返した。
「いいよ。一緒に帰ろう」
 二コリと微笑み、高橋は俺の腕を引っ張る。その本当に嬉しそうな瞳を見て、俺は我に返ることができた。
「……あ、あぁ!」
 今度は作り笑いじゃない、本当の笑みを浮かべる。
 まるで宝物を手に入れた子供のような無邪気な笑顔に、高橋は小さく声を出して笑った。そこでやっと俺は高橋の腕を離す。高橋は俺の少し前を歩き、教室を出た。俺も後に続く。
 夕日の差し込む廊下を歩きながらふと、さっきまで高橋を握り締めていた手の平を見つめてみる。
 まだ、温もりを残した手の平を軽く開いてみて、俺はそっと自分の手を口付けてみた。
 柔らかな、春の匂いがした。

「小畑君とこんな風に話すのって初めてだね」
「そうだな。クラスは一緒だったのにな」
 家へと続く川沿いの土手を歩きながら、高橋と俺は並んで歩いていた。
 やはり女の子にはまだ慣れていないせいか、おれはどこかギクシャクした歩き方になってしまっている。高橋はというと、いつもと変わりない物腰のよさそうな歩き方をしている。俺は、少しだけ歩幅を狭めた。
「私は何度も話しかけようと思ってたよ」
「へ?」
 唐突な高橋の告白に、俺は頬を熱くした。
「ずっと同じクラスだったし、少しは交流を深めたほうがいいんじゃないかな? って、そう思ってた」
 肩口で切りそろえられた髪をふわりとなびかせながら、高橋は俺のほうを向いた。
 少しの曇りもない、暖かな笑顔。
 この笑顔に、同じクラスにいながらどうして今まで気がつかなかったのだろうか……。少しだけ、悔やむ。
 高橋はよく喋る女の子だった。
 今日の授業のこと。クラスの女子のこと。学校の先生のこと。昨日見たテレビのこと。
 そんな些細な日常のことでも、高橋は本当に嬉しそうに話していた。テレビのトーク番組などで見るよく喋る女は、うるさくて苦手だったのだが、高橋はそういう女達とはまったく違う華やかさを全身から滲み出させていた。女の子と話すのは苦手な俺でも、高橋とは気軽に話すことができた。高橋になら何でも話せるような気がした。
「あ、あのさ……」
「なに?」
 夕焼けが二人の影を長く伸ばしている中、俺は話を切り出した。
「さっき言ってたことなんだけど……」
 高橋は、瞬きを一つ。
「教室で話してたことなんだけど……」
 俺がそう言うと、高橋の表情はすぐに穏やかなものに変化した。
「鳥になりたい……ってこと?」
 笑顔で言われ俺は安堵する。どうやって話を切り出そうか今まで悩んでいたからだ。
「さっきも言ったでしょ。言葉の通りだよ」
「いや、そうじゃなくて……」
 軽く、頭を掻く。高橋は小首をかしげた。
「どうして、あんな時間に?」
 そう聞くと高橋は少し沈んだ表情になる。
聞いてはいけなかったことなのだろうか。そう思いながらも俺は高橋の返事を待つ。その俺の視線に気が付いたのか、高橋は重い口を開く。
「夜じゃないと、いけないの」
「どうして?」
 聞き返す俺に、高橋は誰が見ても一目でわかるような作り笑いを浮かべる。その言葉も、重く沈みきっていた。
「……夜なら、誰にも見つからないから……」
「親が厳しいのか?」
「うん、そうだね……厳しいよ、とても」
 嘘をつくのが苦手だな。俺は直感で思った。
 しかし、恐らく誰にでもわかるであろう。今の高橋は、明らかに嘘をついている。どうして嘘をつくのかなんて、もちろん俺には毛頭もわからなかったが、それ以上は深く追求しようとは思わなかった。
 ……この、高橋の寂しそうな笑顔を見るのは、今の俺にはあまりにも辛すぎる。
 それ以上高橋の顔を見たくないため、俺は高橋から視線をそらした。でも、それでも高橋に昨日の話をもっと聞きたかった。昨日のあの出来事を目にするまで、俺は高橋に見向きもしていなかった。だからかもしれない。もっと、高橋の事を知りたいと思った。
 それからしばらく、俺達は他愛も無いお喋りに花を咲かせていた。
 いつのまにか、日は完全に沈みきっていた。
「……悪いな、俺のせいで……」
「うぅん。私も今日は楽しかったから」
 すっかり暗くなってしまった夜道は危ないと判断し俺は高橋を家まで送ることにした。確か、両親が厳しいとか言っていたからもしかすると怒られてしまうかもしれない。そう思って先に謝っておいたが、返答をしてきた高橋の笑顔は明るいものだった。
「じゃあ、また明日」
 俺はそう言って軽く手を振る。
「うん、また明日」
 高橋も、軽く手を振ろうとする。が、
 グラッ
 一瞬にして、その顔が真っ青になる。
「高橋!」
 俺は胸の中に倒れこんできた高橋を、しっかりと抱きとめる。
「おい高橋! 大丈夫か!」
 高橋の体を起こす。その顔は、まるで血の気がなくなってしまったかのように真っ白になっていた。
「大丈夫……大丈夫だから……」
「大丈夫なわけないだろ!? こんな真っ青になって……」
 懸命に立ち上がろうとする高橋。だが、その足にはまったく力がこもっていない。俺は高橋を支えながら、家のチャイムに手を伸ばそうとする。が、その俺の手を高橋の細い手が弱々しく掴んだ。驚いて見てみると、高橋が顔面蒼白のまま力なく首を横に振ったのだ。
「お願い、人は呼ばないで……お願い……」
 懇願するように俺の胸にしがみついてくる。どうしたらいいのかわからず、俺は潤んだ瞳で見つめてくる高橋の肩を抱いていた。
「お願い……こうしていれば治るから……」
 高橋は完全に俺の腕に身をゆだね、ゆっくりと呼吸を整えていた。
 すでに紫色に変色してしまった唇からは、荒い息づかいしか聞こえてこない。俺は、高橋を抱きしめる力を一層強くする。
 もう、チャイムに伸ばされた手は下ろしていた。それを見て高橋は、苦しい笑みを顔に浮かべ、ゆっくりと息をついた。
「ありがとう……」
 高橋の家の周りは、とても静かだった。車も通らず人家もなく、人気も余り感じられない。自分の住んでいる町にこんな場所があったのか。と、俺は今までまったく知らなかった。ただ、風のざわめきと虫の音だけが、二人の耳に響いている。
外灯もない暗闇の中、俺と高橋は抱き合いながら月だけを見上げていた。


 次の日学校に着くと、まだ高橋は教室にはいないようだった。
 俺は安堵の溜息を吐きながら、自分の席に鞄を置く。それと同時に、田村が俺の席までやってきた。
「おっす!」
「おはよう」
 当たり前の挨拶を交わし、田村は前の席に座り込んだ。
「あのさ、昨日のドラマだけどさ……」
「あ、悪い。パス」
 田村が何か言いかけたのを、俺は手を上げて制止する。田村は不思議そうな顔をする。
「昨日見てないんだ、ドラマ」
 そう言うと田村は驚きの声をあげた。
「珍しいな、あのドラマお前も楽しみにしてたんじゃないのか?」
「まぁ……な。用事があって」
 苦笑いをしながら、俺は頬を掻く。
 確かに、昨日は俺がいつも見ている連続ドラマの放映があった日だった。
 しかし昨日はずっと高橋の家の前にいたため、放映時間に間に合わなかったのだ。だが、昨日の自分を思い返してみると、たとえ放映時間に間に合ったとしても恐らくドラマがあることを忘れてしまっていただろうと思う。
 昨日は、あれから三十分ほどあの姿勢のままだった。高橋の頬に血の気が戻り、自力で立ち上がれるようになるまでに、それくらいの時間が要されたのだ。
 高橋は今にも倒れこんでしまいそうなふらついた足で立ち上がり、懸命に笑みを浮かべてみた。額に脂汗を流しながら、それでも
「本当にありがとう」
 そう、小さな声で俺に言った。
「ごめんね、送ってもらった上に、こんな迷惑までかけちゃって……」
「いや、いいよ。俺のことは気にしなくても」
 俺も慌てて立ち上がり、笑顔を浮かべる。それだけで高橋はほっとしたような顔をした。
「あのさ、高橋……本当に大丈夫なのか?」
「うん、ただの持病だから、気にしないで」
 地面に落ちた鞄を拾い上げながら、高橋はそう言った。俺の分の鞄も拾ってくれて、差し出されたそれを俺は高橋から受け取る。
「持病?」
「突然目眩がするの。いつものことだから本当に気にしないでね。今日はありがとう」
 それだけ言い、高橋は家の扉を開けた。何て声をかけたらよいのかわからない俺に高橋は扉を閉める瞬間、チラリと顔を覗かせた。
「……また、明日」
 それから、俺はどうやって家に帰ったのか、正直覚えていない。
 ただ、さっきまでの光景を思い出すと体が熱く火照ってくるのだ。今更ながら女の子を抱きしめたという恥ずかしさを感じながら、明日高橋と会ったらどんな顔をすればいいのだと考えながら辺りをフラフラと歩きまわっていた。そうしてるうちに、いつのまにか家に着いていたのだ。無意識のうちに家路へと着いていたのか、適当に歩いていたら偶然家に着いたのかはわからないが、ただ本当に明日はどんな顔をして高橋に会えばいいのか。そればかりを考えて早々と布団に潜り込んでしまっていたのだ。
 そのことを思い出して、俺は改めて辺りをキョロキョロと見回してみる。
 まだ、高橋は来ていないようだ。というより、何年も同じクラスにいながら俺は高橋がいつ頃登校をしてくるのか全然知らなかった。自分は時間に遅れるのが嫌いなため、友達との待ち合わせも必ず十分前に目的地に着くように計算して家を出ているのだが、ひょっとすると高橋は時間にルーズなのかもしれない。
「誰か探してるのか?」
 そんな俺の視線に気がついたのか、田村は俺の顔をまじまじと見つめてくる。こいつはこういうことに関してだけは鋭い。俺はひきつった笑顔を浮かべる。
「いや、何でもないよ」
 俺は視線を田村に移す。田村は頭に疑問符を浮かべていたが、それ以上は何も詮索しようとはしてこなかった。
 それと同時に、チャイムが鳴る。
 慌てて駆け込んできている生徒の中に、高橋の姿も見て取れた。昨日も少し遅めに来ていたところを見ると、やはり少し時間にルーズな性格なのかもしれない。
 とりあえず、俺は高橋と顔を合わせなくて済んだことに安堵し、一時限目の教科の教科書を鞄の中から漁りだす。
 だが、実際に授業が始まってみると、頭の中に浮かぶのは高橋のことばかりだった。勉強なんかそっちのけで、高橋になんて話し掛けようかばかり考え込んでいた。
 こんな感情は生まれて初めてだった。高橋のことを考えていると胸がドキドキする。心臓の鼓動が早くなり体がじんと火照ってくる。
 俺は無意識に教科書で顔を隠してしまう。今、自分がどんな顔をしているのかわからなかったからだ。それに、今の自分の顔を他人に見られたくない。本能的にそう思ったのだ。
今誰かに顔を見られたら、俺の胸の中に秘めている想いもすべて見透かされてしまいそうな気がして……
 頼むから、誰も俺に話しかけないでくれ。
 そう心の中で願いながら授業を過ごす。当たり前だが、授業はまったく耳に入っていない。いつ先生に指摘されるか冷や汗を流していたが、いつもは真面目に授業を受けているのが効いたのか、教科書を熱心に見ていると思ってくれたようで、先生は特に何も聞いてこようとはしなかった。
 俺はというと、やはり高橋に掛ける言葉ばかりを考え、それだけで今日の授業を全て使い果たしてしまった。今日が土曜日で午前中しかなかったのが幸だった。もし、お昼休みなどがあったら俺の思考回路は田村によって全部暴き出されてしまっていたかもしれない。
担任の教師によるHRが終わり、号令が掛けられた途端、俺は急いで教室を出た。
「小畑?」
 教室を出る時田村が何か話しかけたそうだったが、俺はそんな事に耳を貸す暇はなかった。急いで廊下に出て、俺の前を歩いている少女に向かって手を伸ばす。
「高橋」
 声を掛けるのと同時に、少女の肩に手を置く。高橋は肩をビクッと震わせてから、恐る恐るこちらの方を向く。しかし、俺の顔を確認した途端、その不安に満ちていた瞳に輝きが戻ってくる。高橋は胸を撫で下ろしながら、
「びっくりした……」
 胸を撫で下ろしながら苦笑する。
「あ、ゴメン」
 俺も慌てて謝罪をし、高橋から手を離す。
「それでどうしたの? 今日は」
 高橋は軽く拳を握って、それを口元に持ってゆく。肩を上下に揺らした途端、陽光を浴びた髪がキラキラと輝いた。
 俺はそんな高橋の笑顔に一瞬魅入ってしまい、ハッと我を取り戻す。
「あ、用ってほどじゃないんだけど」
 頬を染め頭を掻く。慌てて言葉を探そうとするが焦れば焦るほど言葉がどんどん頭の中から逃げて行っている気がした。授業中あれだけ何て話しかけようか考えていたのに、俺の頭の中には何の単語も残されていなかった。
 頭の中が真っ白になり、それでも俺は慌てて言葉を探そうとする。しかしいつまで経っても一言も発することができなかった。
 隣を通りすぎる生徒達は、どんな目で俺を見ているのだろうか……。そんなことを気にしていたが、目の前の高橋をチラリと見てみると、あの優しさに満ちた瞳には、周りの景色は全く写っていないかのように思えた。
「あのさ、一緒に帰らない?」
 自然に、出てきた。
 高橋の笑顔を見てきたら、頭の中が一気に整理されたような気がした。
「うん」
 高橋は、ゆっくりと頷いた。頬を少しだけ朱に染めた高橋を見て、俺は眩暈を覚えてしまう。
 いつからだろうか……こんなに、高橋のことが気になりだしたのは……

 今日も昨日歩いた土手を二人で歩いていた。
 昨日とは違いまだ昼間なため、土手で子供達が遊んでいる姿が見れた。向こうも学校帰りなのだろう。剥き出しの地面の上にランドセルを投げ出し、キャッチボールをしていたりする。
 いつの時代の子供達もこういうのは変わらないんだな。と、自分が子供だった頃を思い出して、俺は思わず笑みを浮かべてしまった。
「小畑君」
 不意に高橋が声を掛けてきた。
「私なんかと一緒で……楽しい?」
 先ほど、少し高橋から視線を逸らしたのが気になったのだろうか。高橋は鞄を抱きしめ、不安そうに俺の顔を覗きこんでいた。
「あ、ゴメン。そうじゃないんだ」
 俺が笑うのを見て、高橋はほっと溜息をつき、顔にかかった髪を手でかく……そんなさりげない仕草でさえ、とても愛しく思える。
「私、あまり男の子と話したことがないから変なことを言っちゃうかもしれなくて……」
 高橋は苦笑する。何の曇りもないまっすぐな瞳。俺はその瞳に夢中になっていた。
「いや、大丈夫だよ。……って言うか、俺もあんまり女の子と話したことないから、高橋を退屈させてないかって不安だったんだ」
「そ、そんなことないよ!」
 高橋は驚いた顔でぶんぶんと手を振る。
「小畑くんは優しい人だから……」
高橋の笑顔を見ながら、どことなく俺と似ているんだな。と、そう思う。
 異性と話すことが苦手な所、父親が厳しいというところ。
ほんの少しだが、意識しているというところ。
自分で考えながら、頬が火照るのを感じる。
「そういや、体の方は大丈夫なのか?」
 この火照りが表面上に出るのを防ごうと、俺は話題を変えようとする。が、
「あ……うん。大丈夫」
 一瞬にして、高橋の顔に翳りが見える。鞄を持つ手が震えているのが見てとれた。
「高橋?」
「大丈夫。本当によくあることだから」
 苦しい笑顔を見せる高橋を見て、俺は何かを言おうと口を開いた。が、
「そう? それならいいけど」
 口から出た言葉は、頭の中で思っていたのとは違うものだった。俺のその言葉を聞いて、高橋はこれ以上探索されない安堵からか、そこでやっといつもの笑みを取り戻した。その笑顔を見て、少しだけ胸が苦しくなる。
 本当は、聞きたかった。倒れた時のこと。あれはただの貧血だとは思えない。だが、高橋がここまでそのことを隠そうとするので、それ以上は聞き出そうとは思えなかった。
 聞き出すことで、どんな返答が来るのか、恐ろしくて聞くことができなかった。今、高橋に聞くことで、この平穏な日常が壊れてしまうのではないか……。そう、思ってならなかった。
「小畑くん……」
 結局高橋に何も聞き出せないまま川沿いの土手を通りすぎ、もうすぐ二人が別れてしまう道が見えてきた。その、ほんの少し手前で、高橋が俺の行く手をふさぐように前に立つ。
「昨日と今日と……誘ってくれてありがとう。本当に楽しかった」
 はにかんだ笑顔が、なぜか胸を締め付ける。
俺は胸騒ぎがするのを感じた。
「それじゃあ……」
 高橋が軽く手を振り、踵を返そうとする。が、反射的に俺はその高橋の腕を掴んでいた。高橋は驚いて俺の顔を見る。
「……月曜日も、一緒に帰ろうな」
 俺は笑って言う……笑ったつもりだった。
 だが実際の俺の笑顔はとてもひきつっていたと思う。自分でも下手な作り笑いを浮かべてしまったとはっきりわかった。
「月曜も……火曜も、その次の日も……ずっと、一緒に帰ろうな?」
 普通に聞けば、とても恥ずかしいことを言っている。そう自分でもわかっていたが、こう言う他に方法が思い浮かばなかった。
「ずっと……ずっと、一緒に帰ろうな!?」
 懇願するように叫び、高橋の腕を強く掴む。いつものあの笑みを浮かべ、「うん」と言ってくれる……それだけで、良かった。それだけを、望んでいた。だが、
「小畑くん……」
 俺が見たのは困惑した高橋の悲しそうな瞳。
 こんな答えを望んでいたんじゃない。俺は絶望したように立ちすくむ。高橋の腕を掴む力が緩み、高橋はゆっくりと俺から手を離した。引いた手を胸元に持ってゆき、鞄を抱きしめる。
「……ごめん……」
 震える声で、そう呟く。しかし、その声は俺の耳には届いていなかった。
「ごめんなさい……」
 高橋の目に、何かが光った。
 涙だ。
 高橋は、最後にもう一度ごめんなさいと呟き、身を翻した。一分一秒でも長く、その場に留まっていたくないように走り去ってゆく高橋の後ろ姿をじっと見つめ、俺はただ呆然と立ち尽くしているしか出来なかった。
 高橋を握りしめた、その手は……
 驚くほど、冷たかった。


 家に戻った俺を待っていたのは、誰もいない廊下で鳴り響く電話の音だった。
 扉には鍵がかかっていたのでどうやらみんな出かけているらしい。まぁ、兄貴達がいないのはいつものことだが。
「はい、小畑です」
 鞄を背負ったまま、受話器を取る。
『お、英樹か?』
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、久しく耳にしていない懐かしい声。
「兄貴?」
 自然と声が明るくなる。
 俺のすぐ上――二つ年上の兄、直樹だった。
『よかった、お前が出てくれて。親父だったらどうしようかと思った』
 そう言いながら兄貴は笑う。が、心底本当に安心したような声だった。兄貴の心情を察しながら、俺も軽く笑う。
「ところで、今日はどうしたの?」
 鞄を床に置き俺はその場に座り込んだ。少し火照っている体に床の冷たさが気持ちいい。
『いや、用ってわけじゃあないんだけど……』
「またしばらく帰ってこれない。か?」
 苦笑しながら聞く俺に、受話器の向こうで兄貴が息を飲む音が聞こえた。それを聞いて、俺は声をあげて笑う。
「兄貴の考えてることは大体わかるよ。親父に出られたくないのもそれが理由だろ?」
『そう単刀直入に聞くなよなぁ……』
 溜息をつきながら兄貴はそう呟いたが、内心はほっとしているのだろう。直樹兄貴は昔から言いにくい話を切り出すのが苦手なのだ。
「俺と親父のことは心配しなくていいから。兄貴は兄貴のやりたい通りにやりなよ」
 俺は無理に明るい声を出した。でも、兄貴達には自由に生きていてほしいと思うのも事実だった。今の自分みたいにレールの上を歩くような人生は、兄貴達には歩んでほしくなかった。
「それより俊樹兄貴と晴樹兄貴がどうしてるか知ってる? 全然連絡取れないんだけど」
『俺も兄さん達とは連絡取ってないからわからないけど……連絡取れたら言っとくよ』
「うん。よろしく。じゃあ、俺宿題やらなきゃいけないから」
 そう言って、受話器を切ろうとした俺の手を、兄貴の呼び声が止める。
『英樹』
「……何?」
 俺は受話器を持ちかえる。しばしの、沈黙。何故か俺はその場に固まってしまっていた。
『お前も、自分のやりたい通りに生きろよ。いつまでも親父の言いなりになる必要はないんだからな』
「…………」
 重い沈黙を破った兄貴の言葉は、俺の胸を痛いくらいに締め付ける。
『じゃあ、来週には帰るから』
 そう言い残し、兄貴は電話を切る。
 俺もゆっくりと立ちあがり、受話器を置く。
「自分のやりたい通り……」
 何気なく呟いた、小さな言葉。でもその呟きは、俺の思いを行動に起こすのには充分だった。
 無言のまま俺は玄関へと走り出す。急いで靴を履き扉を開ける。
 ……今やらなければ、いつやるんだ……?
 ぎゅっと、唇を噛み締める。俺は乱暴に扉を閉めた。


 第二章 * 少年の想い

 先日高橋を送り届けた時の記憶を頼りに、彼女の家まで辿りついた。あの時は夜だったし、ちゃんと道を覚えているか不安だったが、そんなに家が遠くないこともあり、なんとか迷わずこの家に辿りつくことができた。
『高橋』と書かれた表札を確認し、呼び鈴を鳴らす。チャイムの音が鳴り響き、しばしの沈黙が流れる。しばらくして、パタパタとスリッパで駆けてくる音が聞こえてきた。
 扉が開き、顔を出したのは四十代ほどの中年の女性。少しやつれているとも思えるほど痩せた体に、疲労の色が見て取れる顔をしていた。
「どちら様?」
 恐らく高橋の母親だろうその女性は、高橋とよく似た笑顔を見せる。しかし、こちらの笑顔には余り生気が感じ取られない。
「あ……俺、小夜さんと同じクラスの小畑と申す者なのですが、小夜さんはいますか?」
 高橋の母親は俺の言葉を聞いて、もともと血の気の良くなかった顔を更に青くする。
「小夜……ですか?」
「はい。小畑と言ってくれればわかると思いますが」
 しかし、高橋の母親は俺から視線を逸らし、少し考え込むように手を口元に当てる。しばらくの間、何かを考え、意を決したように俺の顔をじっと見た。
「小夜はいません」
「え?」
 反射的に聞き返してしまう。が、それきりその女性は黙り込んでしまう。やがて、疲れたように溜息をついて、顔をあげる。その顔には、先ほど以上に疲れが溜まっているかのように見えた。
「病院に行ってるんです。小夜は病気持ちですから」
 そう言うともう一度溜息を吐く。もうこれ以上聞かないでくれと言っているように思えた。
「そう、ですか……。すみません、失礼します」
 俺は無理やり口元に笑みを浮かべた。ここから逃げ出してしまいたいという気持ちをどうにか抑え込み、踵を返す。そして、一目散にその場所から走り去ってしまった。
 高橋の母親が何か言いたげに手を上げていたが、俺には再び振りかえる余裕さえ残されていなかった。その場から走り去り角を曲がった所で立ち止まる。大きく肩で息をし、手を膝に置く。心臓は今にも爆発してしまいそうだった。
「高橋……?」
 思い出されるのは、哀しいくらい切ない、あの瞳。俺は呼吸を整え顔を上げる。
「行かなくちゃ……」
 ふらりと、顔を上げる。
 幸いまだ制服のままだ。今ならまだ入れる。
 どうしてかと聞かれると、俺は何も答えることができないだろう。ただ、行かなければいけないと、そう感じたんだ。
 俺は、再び学校へと向かい走り出していた。

 学校に着いた時、すでに日は傾き始めていた。
 冬の冷たい空気が肌を突き刺すが、そんなことを気にしている余裕は無かった。俺は重い扉を押し開け、目の前に広がる風景を見つめる。
 いつもと何も変わらない、その風景……俺は、ゆっくりとフェンスの前に立ってみた。
ここが、この間高橋の立っていた場所……
 あの時彼女は、何を思ってここに立っていたのだろうか……
 あの美しい歌声も、神秘的な後ろ姿も、未だに瞼に焼き付いて忘れられそうにない。
自らの髪を切り落とし、そうまでして鳥になりたいと願った少女は、一体何を夢見ているのだろうか……
 その時、床で何かが日の光を浴びて光った。
 それは、色素の薄い長い茶色の髪。
「高橋……」
 小さく、呟いてみる。
その声は、誰にも聞かれることなく掻き消えていった。


 月曜の朝、高橋は学校に来ていなかった。
担任が来て、出席を取り終わっても、高橋が来る気配はなかった。誰も特に気にすることもなく、そのまま授業が進められてゆく。
 午前中の授業が終わり、昼休みが過ぎ、放課後が来ても、高橋は教室に現われなかった。
『ごめんなさい……』
 土曜日の高橋のあの瞳が、嫌なくらい鮮明に俺の脳裏にちらつく。
あの、何かを悟ったような、哀しい瞳。俺は妙な胸騒ぎを覚えた。
「なぁ、小畑。今日ゲーセン行かねぇか?」
 帰り際、田村が声を掛けてくる。が、
「悪い、今日は用事があるんだ」
 そうとだけ言い、俺は飛び出すように教室を出ていった。
 どうしてだろう……どうして、こんなにも高橋のことが気になるのだろう……
自問自答を続けていた。だが、いくら考えたところで、答えは出てきそうになかった。
それでも俺は、問い続けずにはいられなかった。


 そして、俺が辿りついた場所は……
 ギィ、と冷え切った扉を開く。夕焼けの眩しい光が飛び込んできて、思わず目を細める。
 そこに、彼女はいた。
 初めてここで会った時と同じ黒いワンピースを身に付けていて、こちらには背を向け、なぜかフェンスの向こう側に立っていた。そして、そのおぼつかない足元を支えるかのようにフェンスにもたれかかっていた。
 風でなびく肩口で切りそろえられた髪だけが、高橋の心情を表すかのように寂しく風になびいている。
「……高橋……」
俺は戸惑いながらも、肩で息をしながら哀愁の漂うその背に声を掛けた。
高橋は俺の声が聞こえていないのか、何の反応も見せずに、今にも風に飛ばされてしまいそうな体をフェンスで支えている。
「高橋!」
 大きな声で、もう一度その名を呼んでみる。そこで初めて高橋はピクリと肩を動かした。どうやら聞こえていなかっただけのようだ。俺はほっとして溜息をついた。相変わらずのゆっくりとした動作で高橋はこちらを向く。
その目が、少し赤かったように見えたのは気のせいだろうか……
「どうしたの? こんな所に……」
 俺が聞こうと思っていた言葉を、高橋は本当に不思議そうに聞いてくる。俺は一瞬呆気にとられたが、わざと意地悪く言い返してみた。
「高橋こそ……学校サボって何してたんだよ」
 嫌味だとわかっているはずなのに、高橋は微笑むだけで何も言い訳をしようとはしなかった。夕焼けが、高橋の頬を紅く染め上げる。高橋はくるりと体をこちらに向け、じっと俺のほうを見つめている。だが、逆行のせいで、その顔色は伺えない。
 沈黙が、二人の間に流れた。
 その沈黙が、嫌なくらい俺の胸に突き刺さる。夕暮れ時の冷たい風が、俺と高橋の間に吹いた。まるで、そこが俺たち二人の境界線だと言わんばかりに……
「鳥に、なろうとしたの」
 どれくらいの時が流れただろうか……。先に口を開いたのは高橋のほうだった。
軽く顔を上げて、空を仰ぐ。すると、仲の良さそうな二羽の鳥が静かに夕日に向かって飛んでいくのが見えた。
そんな鳥たちを見て、高橋の表情が今まで以上に柔らかくなる。
「鳥はいいよね。何も悩むことなんてないし、この空を自由に羽ばたける翼を持っている」
 だんだんと、高橋の表情が変わってくる。苦痛に歪んだような、恨めしいものを見ているような、そんな表情だった。
「だから、私は鳥になりたい。……うぅん、違う。私は鳥になるの」
 そう言った高橋の瞳は、憂いで満ちていた。夢現なそんな瞳を見て、俺は少し目を反らしてしまう。
「鳥になるって……どういう意味なんだよ」
「言葉の通りだよ」
 高橋の曇りのない声が耳に響く。その時俺は目を反らしたままだったのでその表情を伺うことはできなかった。だが、恐らくあの笑顔を浮かべていたのだろう。そう考えると目を逸らしていて良かったのかもしれないと、そう思う。
あの、今にも消えてしまいそうな哀しそうな笑顔。あれは今でも鮮明に思い出すことができる。そして、あの笑顔は俺を怖いくらいに狂わせるのだ。
 俺はそっと顔を上げてみた。……そして、愕然とする。そんな俺にはお構いなしに、高橋は言葉を続ける。
「私は鳥になって世界を飛びまわるの。もう、何も考えなくてもいいように。私は、鳥になるの。鳥になって、自由を手に入れるの」
 そう、本当に嬉しそうに高橋が言うので、俺は胸の奥に込み上げてきた何かを抑えることができなくなってきた。
 こんな無邪気な子供のように自分の夢を語る少女に、苛立ちを覚え始めたのだ。両手を握り締め、唇を強く噛んで俺は高橋を睨みつけた。
「お前は……それで幸せなのか?」
 唐突な俺の問いかけに、高橋は、え? と呟いて目を丸くする。そこで、俺はやっと高橋の顔を正面から見つめることができた。
「お前はそれで幸せなのか?」
 なおも問いかける俺に高橋は困ったような表情を見せる。が、最後にはやはりあの笑顔を見せた。
「うん、幸せ。この上ないくらい……」
「嘘だ」
 即答する俺に、高橋は眉をピクリと動かした。口元は未だ弧を描いていたが、その目は氷のように冷えきっていて、何の感情も見受けることが出来なかった。
「幸せです」
「嘘だ」
 再度言い返す高橋の冷ややかな声に、俺は同じ言葉を返す。高橋がフェンスからそっと手を離す。その時、一際強い風が吹いた。
「うわっ!」
俺は反射的に腕を顔の方にもってゆき、風を防ぐ。が、腕の隙間から見える高橋は、風に揺らぐことなく地面に足をつけたまま、じっとこちらを見つめていた。
その風を気にも止めないように、両手を下ろしたまま俺のほうを睨みつけていた。
「どうして……」
 その声は、怒気に満ちている。
「どうして、私の夢を奪おうとするの……?」
 怒りとも、悲しみともとれる声が響き渡る。
「私は鳥になりたいの。ただそれだけなのに……夢くらい見せてくれたっていいじゃない!」
 高橋の悲痛な叫びは、そのまま白い吐息となり、虚空へと消えていった。それでも高橋は肩で息をしながら俺を睨みつけている。
「じゃあ……どうして泣いてるんだよ!」
 たまらず、俺は叫んでしまった。
 俺の叫びを聞き高橋は一瞬呆気にとられ、そして次の瞬間驚いて自分の変化に気がついた。
 白い頬を伝う一つの雫――それは、涙。
「泣くなよ……幸せだって言うんなら、泣くんじゃねぇよ!」
 それは、懇願に近かったかもしれない。
拳を握り締め、俺は荒れ狂うように叫んだ。
 自分でも何が起こったのかまだよくわかっていないらしく、高橋は呆然と立ち尽くしたまま、涙を流し続けていた。
 その涙でにじむ瞳に、俺の姿は映っているのだろうか……それははわからなかったが、高橋はやっと事態を飲み込むことができたのか、わずかに目を細め、唇に弧を描いた。
もう、その笑顔を見たくないと思った。それでもなお高橋は笑顔のまま涙を流し続ける。あれは、余計に俺の胸を締めつけるのに……
「鳥が自由だなんて……そんなの勝手に決めるなよ……」
 やっと吐き出した言葉は、嗚咽と混じって声になっていなかった。それでも俺は言わずにはいられなかった。
「翼があったら……空を飛ぶことができたら、それだけで鳥は幸せなのか?」
 夕焼けに向かって飛ぶ鳥たち。あの鳥は一体、どこに向かうと言うのだろうか。
「例え空を飛ぶことができても、それで自由になれたわけじゃない。世界を飛んで飛びまわって、それでお前は何を得ると言うんだ? それで、お前は幸せになれるのか? もう涙を流すことはないって言えるのか?」
 先ほどまで空を飛んでいた鳥たちはもうすでに見えなくなってしまっていた。俺も高橋も、その鳥たちをずっと目で追いかけていた。
 日が沈みきり、辺りに静寂が訪れる。沈黙を破ったのは高橋だった。
「でも……私にはもう時間が残されてないの」
その呟きはあまりにも小さすぎて、俺の耳に届くことはなかった。
「え?」
 聞き返してみるが、高橋はスッと目を細めただけで、それ以上は何も言おうとはしなかった。
 月の光が、二人の間に差し込む。
 青白く照らし出された高橋の姿は、それだけで夢のような幻想をかもし出していた。
「小畑君」
 名を呼ばれ、俺は我に返る。高橋はこちらを向いたまま両手を広げ、静かに目を閉じた。
全身で、月光を受け止めながら……
 高橋の頬に、一筋の涙が流れた。
「最後に会えたのが……あなたで良かった」
 風が、凪いだ。
 その呟きは、まるで呪文のように俺の体の自由を奪い去った。
 俺の中で止まっていた時が、再び鼓動を開始する。呟きの瞬間、高橋は俺の視界から姿を消していた。
 両手を広げ、高橋はゆっくりと後ろに向かって倒れる。重心を失った足元は地面を踏み外し、首がガクンとのけぞり、白い喉を見せる。そして、そのまま何もない地面へと向かってゆっくりと落下していく。それでも俺は微動だにすることができなかった。
「……た……」
 呪縛が解けるのには、数秒の時間がかかった。
「高橋っ!」
 俺は慌てて駆け出し、震える手でフェンスをよじ登った。フェンスを乗り越えて下を見つめる。が、
「…………」
 何も、なかった。
乗り越えた先に見える校舎下には、高橋の姿どころか人の気配すら感じ取られなかった。
 いくら暗くなったからと言って、高橋の姿が発見されないのはおかしい。俺は慌てて屋上から出て、一階へと降りてゆく。
 階段を駆け下りる最中も、高橋の最後の笑顔だけが頭をよぎる。つまずいて転びそうになるが、それでも俺は走りつづけた。
一階に着き、上履きのまま外に出る。急いでさっき立っていた屋上の真下へと移動をするが、やはりそこには誰の姿も見つけることはできなかった。
 肩で大きく息をしながら、俺はその場に立ち尽くす。
「高……橋……?」
 誰に向けて言われた訳でもない俺の呟きは虚空をさ迷った。
 確かに高橋は、先ほどまであの屋上にいた。
そして、あそこから飛び降りた。それは俺自身の目でハッキリと目撃している。しかし高橋の姿はどこにも見当たらない。人が隠れるような場所はここにない。それ以前に高橋が俺を驚かして隠れるような理由が見つからない。
 それに、あの時高橋が見せた涙は本物であった。高橋は、何を思ってあの言葉を呟いたのだろう……。辺りを襲う静けさは、一体何を物語っているのだろう……
 高橋を探そうと、俺は視線を駆け巡らせた。すると、視線の隅に何か白い物があるのが見えた。慌ててそちらの方に駆け寄り、その白い物を拾い上げる。
「……羽根……?」
 それは、白い羽根だった。
手のひらに乗るほどの、小さな一枚の羽根……まるで天から降ってきたかのようなその純白の羽根は、自身が光を放っているように白く輝いていた。
 しばらくその羽根の不思議な輝きに魅入っていると、もう一枚、同じ白い羽根が空から降ってきた。
俺はその羽根も拾い上げ、それから思い出したかのように慌てて空を見上げる。
「!」
 そこに、それはいた。
 空に輝くのは、銀色の満月。
 空を舞っているのは、無数の星達。
 その月や星に彩られるかのように、そいつは優雅に翼を広げていた。俺が手に持っている羽根と同じ輝きを放っている翼を持つ、一匹の鳥。
まるでそこだけ世界が違っているかのように、不思議な空間を保っていた。
 その鳥を見て、俺は愕然とする。鳥は俺の上空を静かに飛びまわり、何枚もの羽根を散らしている。
「鳥……?」
 小さく、呟いてみる。
 無論、その声が誰かに届くことはない。
 上空の鳥は速度を速めることも遅くすることもなく、一定のリズムを保ってその場を飛びまわっていた。
 頬に、熱いものが伝うのを感じる。心臓の鼓動が、だんだん早くなってゆく。
「高橋……?」
 俺のその呟きと共に、純白の鳥はキィ、と鳴き声をあげた。その鈴の音色を思い出させる澄んだ鳴き声に、俺は身を震わせた。
 そして、その鳴き声を最後に、純白の鳥は長い尾で白い軌跡を描きながら、月へ向かって飛び去っていってしまった。
 俺は、ずっと見送っていた。
 その鳥の姿が見えなくなっても、白い羽根を握り締めながら、ずっと月を見上げていた。


 次の日学校に行くと、教室の中は騒然としていた。
 女子のすすり泣く声、男子の青ざめた顔、どれを取っても、朝の爽やかな学校の姿は欠片も見られなかった。俺は驚いた顔をしながら入り口で立ち止まってしまう。
「あ、小畑君……」
 すると、俺の姿に気づいた女生徒の一人が、ハンカチで口元を押さえたまま俺に話しかけてきた。その目は、赤く腫れてしまっている。
「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」
 そうは言っておきながら、俺の脳裏に一つの出来事が思い出される。土曜に、高橋の家に行ったときのこと……。あの時、高橋の母親は何て言っていた?
 軽く視線を教室に駆け巡らせる。
 高橋の姿は、ない。
 精一杯笑ったつもりだった。が、それは自分でもわかるくらい苦しい作り笑いだった。
 しかし女生徒はそんな俺の表情にまで気を回せないのだろう。肩を震わせて俯いてしまう。
 俺は優しくその女生徒の肩に手を置いてやる。女生徒は目を俯いたまま頭を軽く振った。そして、すすり泣きながら呟く。
 嫌な予感が、した。

「……高橋さん……亡くなったんだって……」

 目の前が、真っ白になる。
「……え?」
「昨日のお昼頃……容態が急変したらしくて……その夜に、病院で……」
 昨日の夜?
 目の前に浮かぶのは、高橋のあの笑顔。
「……なに、言ってんだよ……」
(鳥に、なろうとしたの)
 闇夜の月を背に、彼女は風になびく髪を惜しげもなく切り落とした。
「俺、昨日の夕方会ったぞ? 屋上で……」
「え!?」
 一瞬にして、教室にざわめきが起こる。クラス中の視線が、俺に釘付けになる。
「屋上で……泣かせちゃったけど、でもいつも最後には笑ってくれてて……それで……」
 それで?
(幸せです)
 高橋は、いつも寂しそうな笑顔を浮かべていた。
(鳥になって、世界を飛びまわるんです)
 涙を流しながら、それでも鳥になりたいと訴えた。

(最後に会えたのが……あなたで良かった)

 月夜を飛んでいた、純白の鳥。
 あの鳥は、もしかして……
「どう……して……」
 頭がクラクラしている。目頭が、熱い。
「どうしてなんだよ……」
 震える膝をどうにもすることができず、俺はその場に座り込んでしまう。
「小畑!」
 もう、田村の声も俺の耳には届かない。
それ以上は、言葉にならなかった。
「…………!」
 学校中に響き渡った、悲痛な叫び声。
 それは、朝の爽やかさを微塵も感じさせない、獣の咆哮だったとも言えた。
 学校中の生徒が集まってきて、その視線が俺に集中する。
 だが、もうどうでもいいことだった。
 もう、高橋はいないのだから。

 いないのだから。


 高橋の母親からも聞いたが、彼女は病気持ちだったそうだ。
 本当なら、学校に来るのも駄目だと医者から言われているほどの重症なのだが、もう残り少ない命だと診断され、高橋たっての希望で今まで通り学校に行くことになったのだそうだ。
 しかし、一週間ほど前に病状が悪化。医者や両親は病院で安静にしてくれと頼んだらしいが、高橋はこれを断った。残り少ない命を、高橋は普通の女の子として過ごしたいと、そう願ったそうなのだ。
両親も医者も、最初は反対していたが、最後には高橋の意見を受け入れてくれ、学校に通わせてくれていたのだという。あと、何年生きられるのかわからない。そんな中で、高橋はこの数年を過ごしてきたそうだ。
 高橋を家まで送ったあの日……。あの日倒れたのは、この病気のせいだったのだ。なぜ、あの時に気づいてやれなかったのだろう。俺は悔やみきれない気持ちで胸がいっぱいだった。だが、高橋は幸せそうな顔をしていた。と、葬式の日に彼女の両親は言ったのを聞いて、俺は少しだけ胸の苦しみが取れたように感じた。
今までの絶望しきっていた顔ではなく、とても生き生きとした、今にも目を開けて微笑みかけてくれそうな、そんな死に顔だったと言う。
 昨日、俺と出会った高橋は一体誰だったのか……。あの鳥は、一体何だったのだろうか……
今となっては調べるすべもないし、もう、調べようとも思わない。
 だって、高橋の願いは叶ったのだから……
「あいつさ、幸せだったのかな……」
 葬式の帰りのバスで、俺はそんな事を田村に聞いてみた。
 高橋の遺影は笑っていた。家族や友人に……愛する人たちに向けられるような、そんな笑み。
 だが、俺は高橋のもう一つの笑顔を知っている。この世の全てを悟ったような、とても寂しそうな、あの笑顔……。あの笑顔を知っている人物が、一体どれだけいるのだろうか……
「さぁな……俺にはわかんねぇよ」
 田村は手を頭の後ろで組み、素っ気ない口調でそう言った。が、その声は田村の心情を表すかのように重く沈んでいた。俺は微かに苦笑する。だが、すぐにその表情は暗いものへと変わっていってしまう。
「……俺、高橋が好きだったな……」
 ポツリと、そう漏らしてみる。
 別に田村は驚いた様子もなく、俺の背を軽く叩いてくれた。
「そっか……」
 暖かみを含んだその声が、俺の中の何かを破裂させた。バスの中から見える空は、どんよりと曇っている。そして、俺がすすり泣くのとほぼ同時に、大粒の雨が降り出した。


 あれから、二ヶ月が経った。
 学校も落ち着きを取り戻し、すでにいつも通りの授業風景が見られるようになった。俺も以前と何一つ変わらない生活を送っている。
 田村から聞いたのかどうかわからないが、俺の前で高橋の話をする人は誰もいなかった。
 そう、俺はもう、今までと何も変わらない生活を送っている……
 ただ、一つのことを除いては……


 高橋が死んで、二週間が過ぎた頃からだろうか、学校で一つ不可解な事件が起こっているという噂を聞いたのは、クラスの女子からだった。 その事件の発端は、学校の屋上。
 ほとんど誰も立ち入ることのないその屋上に、一輪の花が添えられていると言うのだ。
 いつ、誰が、何のためにそんなことをしているのかは、一切わからないと言う。
 屋上のフェンスに添えられているその花は、誰のために捧げられているのかと一時期は学校の新聞部を賑わせたものだったが、もう二ヶ月も過ぎた今となっては、誰も疑問に思う者などいなく、ほとんどの人間からは忘れさられてしまった出来事だった。
 ただ、週に一度だけ屋上に掃除をしに来る生徒達の証言によれば、その花は枯れることなく、毎日取り替えられているらしい。

俺は今日も屋上に来ている。
その手に握られているのは、一輪の花。
 肌を刺す北風に身を震わせながら、俺はゆっくりとフェンスに花を置いた。
 それは、一日も欠かしていない日課。

 その日の放課後、進路希望の紙が配られた。
「面倒だよなぁ。もう進路のことを考えなきゃいけないなんてよ」
 田村のぼやきを聞きながら、俺はすらすらとペンを走らせる。
「お前はもう進路決めてるのか?」
「まぁな」
 田村が覗き込んでくるので、俺は紙から手を離す。田村は俺の書いた字を目で追って、
「T大の……医学部?」
 第一希望に記入してある大学を読み上げる。
「お前、医者になりたいのか?」
「あぁ」
 俺は紙を机に置き、窓から空を見上げる。
「……そっか」
 田村も、頬杖をついて俺の視線を追う。
「お前なら、いい医者になれるよ」
 俺は微笑んだ。隣で田村も笑ってくれている。
 それが、とても心強くて……

 どこまでも続く青い空。
 あの白い鳥も、この空の下を飛んでいるのだろうか……
 そんなことを考え、俺は太陽の暖かさを全身で感じながらゆっくりと目を閉じた。

 いつもと変わらない、澄み切った空を見上げたその日、俺は医者になることを決意した。
 
 
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