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クリエイター名 |
奈華里 |
試験は試練
ごくりっ
これから始まる真剣勝負を前にして、俺は静かに息を飲む。 ここが俺の生きるべき場所だ。だから何としてもこの試練に立ち向かわなければならない。 それは生死をかけた戦い――やるかやられるかを強いられたこの場にはもう一人、立会人が存在する。 「親方、宜しくお願いします」 俺は白装束に身を包み、礼儀正しく一礼する。相手はそんな素振りを見せず、自分勝手に与えられた空間で時を待つ。 「おう、しっかれやれよ。これが最後だからな」 親方が静かに言う。最後…これを逃せば俺の未来は無くなってしまうという事か。 (できる。俺は出来る筈なんだ) 昔は全然平気だった。今目の前にあるこいつとは仲良くやって来た。 一方的なものだったのかもしれないが、それでもそれは自然の流れだと受け入れてくれていたに違いない。 しかしある日、その関係は大きく壊される。 俺が奴の仲間…いや、家族だったのかも。ともかくそいつと戯れていた時事件は起きた。 狭い空間に閉じ込めたのが間違いだったのかもしれない。しかも彼の好むものを用意できていなかったのもまずかった。きっとやつは潮の香りがしないそれに腹を立てて、俺から逃亡を計ったのだろう。器用に足を使って、壁を登りその空間から抜け出す。それに気付かずに俺は彼に会えた事を喜び、束の間の休息を楽しんでいたのだ。 (浅はかだった) 幼き頃の事だからそれも仕方ない。しかし、今ここでそんな感傷に浸っている場合ではない。 「いきます」 俺は意を決して、奴と対峙する。まずは網を片手に奴の空間に踏み入れる。 それは簡単な事だ。なぜならそこには奴しかいないし、それ程広くない空間であるから逃げ場所も限られている。 「とったぁーー!」 俺の声――網を持ち上げれば、奴の体重が直に伝わってくる。 (やれる。俺は今度こそお前をやってやる!) いつになくスムーズな引き上げにこの後の展開に光が見える。が、奴とて黙ってはいない。 ばしゃばしゃっ網の中で奴は抵抗する。水面を離れるまでは激しく足をばたつかせ俺へと水飛沫をまき散らす。 おかげで俺の服はびしょびしょだ。しかし、俺もここで諦める訳にはいかない。 「どぅおりゃあーーーー」 奴の身体をもう片方の手で鷲掴むと、力のままにまな板へと叩き付ける。 その衝撃に奴の動きは完全にストップした。 (や、やったか?) その様子に内心ほっとしながら、俺はそれを表面に出さず静かに網を下ろす。 まな板の奴は沈黙を保っていたが、かといってそれをすぐ信用する俺ではない。 ぬめる身体にぎょろりと見開かれた瞳。複数ある足が僅かに痙攣している。 (ここからだ。ここからが本番だ) ごくりと再び息を飲んで、俺は奴の身体に手を伸ばす。 今取り上げたばかりだから鮮度は抜群だ。透き通る肌からうっすら内臓が見え隠れしている。 「どうした、早くしな」 「は、はいっ!」 俺の様子に親方が発破をかける。それもその筈、延ばす手が僅かに震えていたからだ。 蘇る記憶――あの後、俺は逃げるこいつの仲間を掴んで返り討ちにあった。 海へと逃げようとした奴は船上で俺の足にまとわりついて――奴の視野ではどちら側が海に続くか判らなかったのだろう。とりあえず進んだ先に俺がいたのかもしれない。ぬちゃりとした感触を俺は今も覚えている。 そして、這上がってく奴の姿に俺は仰天し、引き剥がそうと奴を思い切り引っ張った。しかし、奴の吸盤がそれを簡単に許さず、肉がひっぱられ幼かった俺にはとても痛く感じられて…。 「とーさぁん、とーさぁーーん!」 滲みだした涙は止まらず、ただ助けを求めて叫ぶだけ。それに追い打ちをかける様に奴は更なる一手に打って出る。
ぶしゃあぁ
もし、擬音語を付けるならばそんな音がしただろう。奴の身体を掴んで引っ張っていた俺に、最終兵器ともいえる邪悪な液体が噴射され、俺の服と顔を汚す。 「うわぁぁぁぁぁん」 それが俺とこいつとの決別の時。それまではいい関係を築いていたのに…それからというもの俺は奴を避けてきた。 だけど、今ここで再び相まみえなければならないのはもう宿命というべきだろう。 そっと触れれば冷たい感触が掌に広がる。表面の色素がちかちかして何とも不気味だ。 「早くしろっ。何度言えばわかるんだ?」 手が止まってしまっている俺に向けて親方が言う。 そんな事…重々承知していている。けれど、色素のチカチカに加えて、目玉が俺をずっとみているのだ。 『俺を食うのか…、昔みたいに。俺は焼いても煮ても生でもうまいもんなぁ…あぁん?』 じぃーと投げかけられる奴からの静かな圧力。あの頃なら考えもしなかったし、それが当たり前だった。 いや、今でも一般的な人から見ればそれは『当たり前』なのだ。俺が特別なだけ…異常に反応しているだけだ。 (弱肉強食、アーメン…) 俺は心の中でそう呟き、左手で奴の身体をしっかり押さえる。幸い、さっきの一撃が効いている様でピクリとも動かない。 (きっとさっきのでうまくいったんだ…後は静かに成仏してくれよな) 念仏の様にそう唱えて、俺は右手を奴の内部へと滑り込ませる。 脳裏でぬちゃりと気持ち悪い音がした。そして、気付くと掌にまとわりつく足の数々。 「うわぁぁぁぁぁっ」 俺はそれに動揺し、奴を慌てて放り投げた。 まとわりついていた筈の足はするりと抜けて親方にあっさり受け止められる。 (幻覚…か?) にじみ出た汗が頬を伝う。 「おい、いい加減慣れろ。それとももうやめるか?」 受け止めた親方は既にあきれ顔だ。時計を気にしつつ、俺にそんな言葉を投げてくる。 「す、すいません。大丈夫です」 俺は短く謝罪し汗を拭うと、もう一度奴を受け取りまな板に乗せる。 (いいか、落ち着け……こいつはもう死んでるんだ…) 再び奴を掴んで、今度は手早く奴の中へと指を滑り込ませ内臓と胴、奴の器官を繋ぐ部分を強引にはずす。 (あ、あった。これだ…) 相変わらず気持ちのいいものではないが、これをこなさなければ俺はいつまで経っても半人前だ。 それにこの作業に時間をかけてしまうと鮮度はどんどん下がってゆく。 全ては迅速に――それが奴をやる時の基本である。 中で外し終えた俺は、そのまま右手を足の方に滑らせ胴の部分を引き抜く。 がそこでちらりと見えた奴の目がぎらりと光って、 「ひいぃぃぃっ!」
べちゃっ
最後の足掻きか、はたまたそれもまた俺の幻覚だったか。 俺の手から引き抜かれた奴の半身はつるりと滑って、あろうことか親方の額にクリーンヒットする。 「あ、あの…おや、かた?」 嫌な空気と生臭い香りが漂う中俺が恐る恐る言葉する。だが、 「くぉのぉぉぉ〜〜、何度も言うが烏賊一匹にどれだけかかってんだ! このど阿呆っ! もう駄目だ、出直しなっ!」 「そっ、そんなぁ〜俺の夢がぁ…」 親方の怒りが沸点を超え、親方は俺を板場から追い出し奥へと消えてゆく。 床にポトリと落ちた奴の瞳がしてやったりと笑っている様な気がして、 「くそぉーー、俺は絶対に寿司屋を諦めねぇからなぁ!!」 俺は益々奴との因縁が深まるのを感じつつ、再び闘志を燃やすのだった。
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